忠母様を捧げて人類を得る真の父の心情と お母様を捧げて信徒を得る亨進様の心情を知る
:37)わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
:38)また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
:39)自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
:40)あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。
:41)預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。
:42)わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。マタイによる福音書10章
:21)また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。
:22)イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。
マタイによる福音書8章
かって読んだことがあるスウェーデンボルグの霊界に関する本の中には、霊界の言葉について書かれていた。それは地上の言葉とは違って圧倒的な情報量があるという。
一言に言って「母を愛する」という言葉は同じであっても、その伝えられる内容は天地の差が生じるというである。
地上の言葉は空しく、我々を裏切る。
だから言葉ではなく心情を見る
言葉で理解しようとする者は、亨進様の心情を知らない。
いったいあなたは言葉でかってこのようにお話ししたのに矛盾してはいませんか?
そのように愚かにも浅く考える。
誰にも言うことも、理解を求め共感してもらうこともできない
隠された秘密があることを知りはしない。
神の人の心情と愛は沈黙している。
オーケストラの演奏の高まりがいよいよクライマックスになり
ついには沈黙の休符がやってくるように
音では語れず、言葉では語れないものがある。
ひとは それを知ろうとはしない。
主の心を踏みにじって通り過ぎていこうとする。
だが 父も主も それを黙って微笑まれ見ておられる。
19歳の時、キルケゴールとマルクスの誕生日の5月5日に、主の路程を聞いた。
中学二年の時に、メシアを待望し、神によって「メシアは既に来ている」と知らされ、「日本に生まれている」と示現された以後の空しい空白を、一挙に埋めてくださった限りない恵の日を拝受した。
メシアとして地上に降臨された 文鮮明恵師のお母様であられる忠母様は日本から帰ってくる息子が乗っていた船が撃沈されたと思い、生きた心地のしない生活をされ続けた。
大きな棘が足に刺さってずきずき痛む状態であったにもかかわらず気がつかなかったという。
心にはその抱く愛ゆえに、痛みを忘れさせてしまう力がある。
文鮮明先生も、そこで神の愛とは何かを実母の示された愛を契機として
理解を深められたのだ。
イエス様から神のみ旨が果たされていないのであなたがそれを成就しなければならないと打ち明けられ、誰にも語ることのできない事情をかかえて、たいそう明るかったお父様は、一変して無口で内向的なお姿に変わられていった。
神と人類のために歩まれたお二人にしか語ることができない心情がある。
若い日に主の訓練にあってその秘密に触れる恵を幾度も得た。
御言葉も信仰もおぼつかないホーム生活を初めて数ヶ月後、夏初めての路程を歩んだ時のことであった。歩み始めて1週間後に中心者から知らされた。
「あなたのお母さんが倒れて危篤らしい。すぐ連絡をとってください。」
だが 電話を切ったわたし心に限りなく湧き上がってくるものがあった。
お父様に初めて神の愛を教えてくださった忠母様やお父様の大切なご兄弟やご家族。
かけがえのない方たち全てを置き去りにして、何も弁明なさらず御旨の道を歩まれてくださった。
「神よ、わたしの事は一切心配なさらないでください。」
主は神を慰められ先を行かれた。
わたしは父を12で失っていた。
ちょうど小学校の卒業式があった日で前日に兄弟を代表して病院に行った。
わたしは兄弟4人の長男であった。
全身を癌で犯されていた父はもう言葉も発することができなかった。
そこでわたしはメモの為の紙とペンを父に渡して言った。
「お父さん、言いたいことがあるのでしょう。ここに書いてください。」
だが 一つの文字も書くことができなかった。
父は残していかなければならない家族を不憫に思って目に涙を浮かべていた。
わたしは父に何かしたあげたいと思って
「お父さん。大丈夫です。兄弟みんな仲良くやっていくから。」
そう語るのが精一杯だった。
母は苦労した。
人形のバリをとる仕事から始まり、少しでも給料が高い事務員になり、公証役場で働くところまでこぎ着けた。
当時にテレビドラマではそう言う時には、長男が早々に仕事に就き家族を支えるというものが結構あり、自分もそうすべきなのだろうと感じていたが、深くは相談することができる人はいなかった。わたしは中学でバイトをしようと思い友人に話していたが、これが親の知るところとなって厳しく怒られた。父親がいないので母親がさせているように見えることは母にとっても父に対しても母には許せなかった。
高校も進学しないと言っていたら、母は担任と示し合わせて学校の教室でお説教を聞くことになった。
死んだ父に申し訳ない。死んだ父に顔向けができないと女手一つで私たち兄弟を育ててくれた。大変な苦労をした。
だが わたしにはお父様が先駆けて行かれた道が心に刻まれ、忘れることができなかった。どんなに母親が苦労し、今際の際にあろうとも、ひとひらの情さえもかける気は一切湧いてこなかった。
主が先駆けて歩まれたその道を慕って。
胸は張り裂けんばかりだった。
1日の歩みが終わって報告すると、
「家には連絡をしたのかい?」と聞かれ
「いいえ、しませんでした」と答えた。
「何故 連絡しないんだ。ちゃんと連絡してください」
そうアベルに言われて、自分の意思でないことを確認にて電話した。
母は息子にすっかり見捨てられたと思っていて、その悲しみはずっと続いたようだ。
何年も経ったある日、その事が電話で母と話題になり、わたしは切り出した。
劉備に仕えるようになっていた徐庶を徐庶の母は誇りに思っていた。
曹操はこの徐庶を我がものとしたかったので、徐庶が大変な親孝行であることを知って母親を囲う。徐庶にこちらに仕えるよう手紙を書いてほしいと思うが母親が拒否するので、厚くもてなしお礼の手紙を得て、母の文字を真似て偽の手紙を書いて、徐庶が劉備のもとを離れ曹操のところにやって来ることになった。
これを知った母は凄まじく激怒した。
天下の名君から天下の暴君に鞍替えして、それが偽の手紙であったとしても、母如きのために劉備を捨てて母の元に来るとは何事かというのだ。
母は悲嘆と諫めてなのか首をつって自殺してしまう。
若かったのでわたしは
「どうして偉大な文先生と歩んでいる自分を徐庶の母のように受けとめてはくれないのですか?」
とその話しを言い放った。
母は何かを感じて言葉を失った。
もしかしたら、この子はわたしを捨てたのではないのだろうか?
とにかく路程中は涙が止まらなかった。
北韓に残された忠母様やご家族が共産政権のなかで主と同じように迫害の道を行かれているにちがいないと、朝から晩まで来る日も来る日も泣き続けた。
父親の葬儀で泣くどころか笑っていたねと友人に指摘されされたことのあるわたしが。
世界一の親孝行息子になるはずだったお父様。
だが 私のために人類のために 忠母様を天に捧げられた。
その価値が私にあるのだろうか?
申し訳なくて言葉がない。
その心を知るならば、亨進様がお母様を捧げる心情がわかるはずだ。
誰よりもお母様を愛しておられるその心を!
言葉は空しい。
だが 隠された心情は限りなく美しい。
心ない人がいる。
かって語られた亨進様の言葉をあげつらって、矛盾している、有言不実行だと言いたいのだろう。亨進様はこう語られましたっけと、動画をみせて糾弾する。
心情を解せぬも者よ。
あなたが忠母様を捧げたお父様の心情を掴んでいたら
そのようなことは口が裂けても言えなかっただろう。
しかし人類の真のお母様は今日、この場に神々しく立たれました。
これは真のお父様と最終的な完全統一一体完成を成され
昼の神様として真のお父様と真のお母様ご夫妻の間には
これ以上隙間のない聖体となられたため
真のお母様は一人の身体ではありません。
本日みなさんに紹介する方は、
神様と真のお父様が投影されて現れる真のお母様として
三位一体の実体であられます。
したがって今からは天上の門は地上の真のお母様を通じて開かれており
夜の神様と一体となられた真のお父様は、
地上の実体としておられる真のお母様を通じて、
生きた役事を引き続きされることでしょう。
「 神様と真のお父様が投影されて現れる真のお母様として
三位一体の実体であられます」
この部分が特に重要なところだ。
誉進姉さんが、真の父母様を否定したり、真の父母様に従わなければ、
統一教会人たちは、従ってはいけません。
孝進兄さんが、真の父母様に従わなければ、統一教会人たちは、従ってはいけません。
仁進姉さんが、真の父母様を否定したならば、統一教会人たちは、従ってはいけません。
興進兄さんが、真の父母様に従わなければ、統一教会人たちは、従ってはいけません。
恩進姉さんが、真の父母様に従わなければ、統一教会人たちは、従ってはいけません。
顕進兄さんが、真の父母様に従わなければ、統一教会人たちは、従ってはいけません。
國進兄さんが、真の父母様に従わなければ、統一教会人たちは、従ってはいけません。
權進兄さんが、真の父母様を否定したり、真の父母様に従わなければ、統一教会人たちは、従ってはいけません。
善進姉さんが、真の父母様に従わなければ、統一教会人たちは、従ってはいけません。
榮進兄さんが、真の父母様に従わなければ、統一教会人たちは、従ってはいけません。
私(亨進)が、真の父母様を否定したり、真の父母様に従わなければ、統一教会人たちは、私に従ってはいけません。
妍進が、真の父母様を否定するならば、統一教会人たちは、従ってはいけません。
情進が、真の父母様を否定するならば、統一教会人たちは、従ってはいけません。
どんな3世、文家、真の父母様の親戚のいかなる文家の未来の子孫でも、真の父母様を否定するならば、彼らに従ってはいけません。
私たちは、統一教会人として、彼らに従ってはいけません。
どんな指導者が、真の父母様を否定し、認知症だと言ったり、良い結果を作ることの出来ない言葉を話したとしたら、
統一教会人たちは従ってはいけません。
先ず心情を受け取らなければならない。
神の血統と心情をお父様から相続されている子女様と
われわれとるに足らない妖邪な者とを分け隔てなく
お父様の子女であり兄弟であると感じてくださり
それゆえ 真の御家庭の成員であれ その他の者であれ
真の父母様に侍り忠孝の原理原則に例外なく努めなければならないと
言ってくださっているその心情をわれわれは、はたして受けるに相応しい者なのか?
亨進様はアベルの氏族もカインの氏族もなく一つの統一家なのだとおっしゃっておられるのだ。
ちょうど顕進様も同じような心情でわれわれに接しておられる。
そのようなもったいない心を知らず、心情を蹂躙して、
アベルの子女様を袋だたきにして追い出してきたのがわれわれだ。
どうして地獄の刑罰を免れることができよう!
「 神様と真のお父様が投影されて現れる真のお母様として
三位一体の実体であられます」
亨進様の祈りと苦悩がここに表現されているのだ。
もし、神様と真のお父様が投影されて現れることが
真のお母様にできなかった時には、残念無念
「統一教会人たちは真のお母様に従ってはいけません。」
そのようにならざるを得ないのだ。
見ても見ず、聞いても聞こえず、笛吹けど踊らない者よ!
兄弟達を惑わすのはやめよ!
お父様は神のため人類のため御旨のため
惜しげもなく誰よりもお父様を愛しておられた忠母様を捨てられたのだ。
今 その心情を相続して、亨進様は神と父と兄弟と人類のために
お母様を捧げられているのだ、
愚かな者にとってお母様に反逆しお母様の胸に杭を打つような行為に見えても
血を流して胸を押さえているのは亨進様だ。
その痛みは母の痛みより深いのだ。
我々が悟ることがないので、早く悟っていさえしてくれたなら、話さないですんだものまで、語らなければならないのだ。
もし母の永遠の命を失ったなら
No man is an island,
なんびとも一島嶼にてはあらず。
entire of itselfなんびともみずからにして全きはなし。
every man is a piece of the continent,人はみな大陸(くが)の一塊(ひとくれ)。
a part of the main本土のひとひら。
if a clod be washed away by the sea,そのひとひらの土塊を、波のきたりて洗い行けば
Europe is the less,洗われしだけ欧州の土の失せるは
as well as if a promontory were,
さながらに岬の失せるなり。
as well as if a manor of thy friend's
汝(な)が友だちや
or of thine own were.汝(なれ)みずからの荘園の失せるなり。
Any man's death diminishes me,なんびとのみまかりゆく(死に行く)もこれに似て、みずからを殺ぐにひとし。
because I am involved in mankindそは、われもまた人類の一部なれば、
and therefore never send to knowゆえに問うなかれ、
for whom the bell tolls誰(た)がために鐘は鳴るやと。
it tolls for thee.そは汝(な)がために鳴るなれば。
アベルもカインもない、みな等しくお父様の子だと、
亨進様は言っているのにもかかわらず
何と浅ましいことだろう。
さあ、エレミアのこの言葉は我々が本質的信仰に至るよう警鐘を鳴らしている。
:21)「愚かで、悟りもなく、目があっても見えず、耳があっても聞えない民よ、これを聞け。
:22)主は言われる、あなたがたはわたしを恐れないのか、わたしの前におののかないのか
エレミア書5章
勝海舟が面倒を見たホイットニー家のアンナ夫人は
彼のために誠心誠意祈り続けたという。
その祈りは聞き遂げられ
海舟が死ぬおそらく2週間ほど前に
「私はキリストを信じる」
と信仰告白してゆくことに役だった。
勝海舟はクリスチャンとして天に登った。
彼女が死の床にあり御使いの迎えを待つ時に
娘のクララは聞いたことにない詩を母が繰り返し
天に召されるのを見た。
主よ わたしも臨終に臨むアンナ・ホイットニーのように
だが 生きてあなたに誓いましょう!
見えざる手を我は見る
彼方へと、手は我を招く
聞こえざる声を我は聞く
そは命ず、とどまるなと
アンナ、素晴らしい言葉を有り難う。