仁進様が語る真の御父様の「コップの中の嵐」 及び 時代的恵沢と祝福のボーダレス化
私が教会に伝道されてきた頃、祝福というのは黙示録にある14400の選ばれた信仰の勝利者が対象であり、自分とは当然関係ないことと思っていた。
ところが、そのような考え方をしている日本の信徒が多かったようで、祝福とはわたしたちの救いなのだという観点が大切であると教えられた記憶がある。つまり、神の前に罪を感じていればいるほど、神に近づき、救いを求めることが当然なのだという感覚である。
世界に144000。選ばれた人たち。それが聖書に記載され預言されているとなると、恐れ多く思ったり、怖じ気づいたりしたものである。
ある意味当時の者の方が祝福のとんでもない価値を実感していたのかも知れない。
時代的恵沢を受けてわたしたち6000双からすると考えられない何億双・・・と続いたのである。
考えてみれば、人類を救うためにメシアは降臨され、それも地上に現在生きている人々のみにあらず、霊界に旅立たれた全ての人々をも、お救いになる御方がメシア、真の父母様であった。
家庭を持って子供を天から授かると、真の父母様から頂いた文字が、777双、1800双、6000双とそれぞれ違っていくつも与えられている。そこから両親が文字を一つ選んで、その他の文字と組み合わせて子供達の名前ができてくる。
そこで二世の子女は何双の親を持つかが分かる。
もしかしたら、この文字は兄弟全てに共通する文字ひとつを選ぶということなのかも知れない。真のご家庭の「進」とか「信」のように。
つまりこの文字で何代目かが分かる。
年が近くても、叔父であったり叔母であったりすることがわかる。
我が家では、あることがあって、「進」にあたる共通の文字を決めて子供達に名前を付けている。
とにかくこの辺の情報が少ない。
実は以前に世界会長が何双の区分だとか、一世と二世の区分だとか、真の家庭と祝福家庭の区別だとか、そういった教会の煩わしさにうんざりしておられる様子の動画を見たことがあったので、随分捜したのであるけれど見つけることができなかった。残念である。
心情が深まれば深まるほどこういった境界は不必要であり、不自由に感じるものらしいことを教えてくださったのである。
イエス様が「葡萄園の労働者の譬え」を語られたことを思い出してほしい。
何双という区分や信仰歴が何年であるとか、わたしはこのような役職を経歴したとかは、自分に対する矜持を保つことには意味があるとは思うが、他人に振りかざすものではないであろう。
さて、従来は1800双ならその子女は同じ1800双同士の子女が婚約し神の祝福を受けて結婚するというのが慣例であった。
しかし、地の果てまでも伝道が行き渡っているのならともかく、現実に1800双同士の家庭の子女がカップルとなることができない時がある。そのような時は片方が6,000双になることがあった。
1800双同士であればよいかも知れない。
しかし、結婚する相手が見つからず、第二祝福の成就を目指すことができなければ、元も子もないのである。
また、6,000双の子女も1800双の子女と結ばれることは名誉なことである。
したがって双方にとって良きことなのである。
私自身は6,000双まではお父様のアベルの氏族にたいして、カインの氏族であるという意識がある。
そこで我々の家庭に起こる問題によって、サタンが真のご家庭を懺訴し、真のご家庭を代わりに打つようになることが常に予想される。
もしここに6,000双でありながらそのような意識のない信徒があり、一方30000双の信徒の中にそのような意識を持つ者がいたとしたらどうであろうか?
神はどちらに訪ね給もうか?
後者であろう。
そうであるならば、イエス様が十字架の道に行く原因となった三弟子の基台が崩壊したことに対して、我々はその轍を踏まず、本来神が願われた3弟子としての意識に生きたいと、どんなに不遜なことといえども、願わないわけにはいかないであろう。
神が恩恵として境界を取り払って我々に下降してやってきてくださる心情に、我々信徒が恩返しとして境界を突破して捧げていく忠誠もある。
時代的恵沢は、3次のご聖婚によって、とうとう神の直接主管圏に真の御父様と真の御母様が揃って勝利の宣言を果たし、それ故に、キリスト教新約時代においては、「天の父」としてのみ存在されていた神様が、やっと堂々とそのお姿を余すところなく表現された「天の父母様」という本質を成約時代に現すことができたのである。
これは、真の御母様の勝利なくしてはあり得ないことなのである。
この名称は真の御母様の勝利があって天が公認し用いられるようになった神様の最も喜ばれるお名前なのである。
さて、真の父母様の永遠絶対不滅の勝利圏によって、時代的恵沢が一段と進むことができるようになるのである。
一世と二世の祝福もその一端を表しているのである。
エバが堕落した時に神には選択肢が二つあった。
新しくエバを創造する道と、堕落したエバを復帰する道である。
罪なきお父様に相応しい女性は堕落世界から復帰してきたのである。
罪なき意味において、お父様を二世に見立てれば、お母様は一世の立場である。
堕落の動機と経路がよく理解されているならば、アダムよりも先に堕落したエバが陥った事情は、アダムのそれとは比べものにならないほど難しいものがあることが分かる。
したがって神はひとりの男性の信仰者を捜すことよりも、御心に適ったひとりの女性の信仰者を捜すことに苦労をされてきたのである。
そこで、真の御父様は「タマルが分かれば原理の全てが分かるよ。」とおっしゃられたのである。
このことは、勝利してきた女性の信仰者の使命を継承して完全無欠に勝利してくださった御方が、まさに真の御母様なのである。
新約時代にイエス様の相対のような立場でなされる聖霊の役事ぬきに、信徒が生み返され、生まれ変わり、復活することのできる道がないように、成約時代にも真の御母様の役事抜きに、重生は勿論のこと蘇生復活する道などないのである。
神ばかりでなくサタンもそれをよくよく知っているが故に、真の母として認める以外に道がないのである。
妍進様と情進様の御聖婚式が天一国2年天暦8月19日(9月12日)に厳かに行われた。
天の父母様と天宙が至福の中で和動する一日となった。
ベートーベンの第九の譜面には「苦難を通って歓喜へ」と記しているという。
お二人の大勝利を心より祝福申し上げたい。
ところが、何百回何千回原理講義をし、説教をした信徒であったとしても、その事の偉大さを真に実感することがない時には、我知らずサタンに魂を売ることになるのである。
仁進様はごく一部のご自身の路程を証された。御子女様達はベルゼブル文鮮明の子女であるというように、学校に行けば「悪魔の子」として煙たがられ、罵られ、来る日もナイフで脅され、何時殺されるか知れぬ日々をおくられてきた。ただ真の父母の子であるというただそれだけで生きた心地のしない、死線の谷間を幾たびも幾たびも終わることのない暗黒の中で感受性の強い思春期に身も心もずたずたに引き裂かれ、それでも神と真の父母を誰よりも愛し、理解し、証されようとしているのである。
そこには我々が知ることのできない、立ち入ることのできない、緊迫した世界があることだけは間違いないのである。
美しくたいそうご立派になられた仁進様のお姿を見るに、お一人で険しい迫害の道、いわれなき嘲笑の道を、押しつぶされそうなほど大きな十字架を担がれて、よくも堪え忍び生きて勝利してくださったと、ただただ感謝しお喜び申し上げるばかりである。
9月7日に仁進様は次のように語られました。
「文仁進を好きか嫌いかは問題ではありません。」
「神様が私にこのように話すよう命ずる理由があります。」
実に胸が痛いお言葉です。
御子女様ひとりひとりにやって来る「嵐」を我々信徒は未然に防ぐ責任があることを共に分かち合うことができれば幸いである。
神山問題は「コップの中の嵐」であった。
嵐が過ぎ去った後に、われわれが透き通ったコップの中に見たものは、勝利した真の御母様が持つ天宙的な価値であった。
過ぎ越しは終わったのである。