原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 統一思考 葡萄園の労働者の譬え と タラントの譬えを巡って②

イエス様が語られたタラントの譬えは、そのまま受け取ればただ厳しいお言葉のようにも受け取られがちである。これは天国のお話であり、神は愛なりということであるから、恩恵という視点も持ち合わせて考える必要があろうかと思うのである。

さて初めに国際ギデオン協会の聖書からその辺りを読んでみたいと思う。(マタイによる福音書25章14節~30節)

また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。

すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを与えて、旅に出た。

5タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに5タラントをもうけた。

2タラントの者も同様にして、ほかに2タラントをもうけた。

しかし、1タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。

だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。

すると5タラントを渡された者が進み出て、ほかの5タラントをさし出して言った、「ご主人様、あなたはわたしに5タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに5タラントをもうけました。」

主人は言った、「よい忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。

2タラントの者も進み出て言った、「ご主人様、あなたはわたしに2タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに2タラントをもうけました」。

主人は彼に言った、「よい忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。

1タラントを渡された者も進み出て言った、「ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。

そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金(英文ではwhat is yours あなたのもの)がございます。

すると、主人は彼に答えて言った。「悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。

それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。

さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、10タラントを持っている者にやりなさい。

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊になるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。

 

葡萄園の労働者の譬えでは、主人という神が全体を表し、労働者という個に対して1デナリというまるごとの愛を与える、上から下に下降していく愛の流れであった。

ところでタラントの譬えでは、逆に個である僕から全体を表す神に、下から上に上昇していく愛という流であるとみることができる。

そこに伺える重要な点は主人と労働者や主人と僕が分離しているのではなく、一体一如であるということである。

天国というのは主人が僕に財産を預けるようなものであると語られている。

この財産とはタラントで英語で言うタレントの事である。神の神性から分与された個性や才能がタラントであり、Giftであるが預かりものという性格を持っているのである。

それぞれの能力に応じて預けられたタラントが違うというのは、生まれ持った個性や才能がそれぞれ違っていることを指していると言えよう。

もう一つ見落としがちで大切な文は繰り返し語られる「主人と一緒に喜んでくれ」というところである。

統一原理では先に地上に天国ができ、そこで天国生活を送って、寿命が来て天上に旅立ち、そこで永遠の天国生活を送るようになると教えている。地上天国→天上天国である。

ところで人類始祖のアダムとイブが堕落しなければ、そこに地上天国が誕生したはずであった。彼らが住んでいた所はエデンであった。エデンというのはヘブライ語で歓喜や至福を意味する言葉である。

つまりこの物語で主人である神が一番に言いたいと思われることは、神と人が共に喜びを分かち合うことなのである

神の喜びが人の喜びであり、人の喜びが神の喜びであるということは、全体が個を反映し個が全体を反映するホログラフィーを由来とするホロンを想起するが、後者は現象を語り前者は本質である意味を、すなわち喜びの心情を表しているのである。

葡萄園の労働者の譬えでは、他人の喜びを自分のことのように喜ぶことを、いや自分のことより以上に喜ぶことが神の御心の世界であることを表している。カインにはそれができなかったので神は心を痛め、イエス様は譬えで労働者を諫めたのであった。まるごとで全体感で捉えることができなかった。

タラントの譬えは統一原理の自由に関する定義や神が人間に与えた三大祝福などに関係が深いと思われる。

天地創造理想は神の責任分担である天地創造で完成されるのではなく、天宙の中心的存在である人間が自らを成長させ、神の三大祝福である神の似姿としての自己完成と、それを果たした善男善女の結婚と家庭の完成、またその繁殖と万物世界を主管して理想の環境世界を整えることによって完結される。

統一原理では自由は自由意思と自由行動からなり、

1,神の原理を離れた自由はない。

2,責任のない自由はない。

3,実績のない自由はない。

としている。

神が人間に与えた天賦の才能や個性は自分のためにあるのではないと、この物語は語っているのである。葡萄園の労働者の譬えで主人が労働者に与えたものを報酬と呼ぶならば、タラントの譬えで僕が主人に与えるものは奉酬とでも呼ぶことにしようか。

エデンの喜びとは与えることを抑えることができない、対象を愛することを通して幸せをもたらす主体的喜びの世界である。

神の責任分担は各自に神性の部分である個性や才能という財産を分与して預けるということである。全体を100%とすれば、神の責任分担は95%であり、残りの5%が人間の責任分担である。この5%は神が人間を激励して大きく評価されたものであり、かつこれは神から見ての5%であって、人間自体に置いては100%の努力と実践を意味している。

統一原理の説かれる責任分担論の基底に存在するものは喜びである。

夜明けの頃から働いていた葡萄園の労働者は最も多くの時間働いて苦労したのであるが、本然の世界ではこれをわずかな時間だけしか働かずに同等の報酬を得たものと比べて不平不満を言うのではなく、かえってそれでよかったと感じるのが当たり前の世界であった。

これを文 鮮明 恵父は「父母の心情僕の体」と語られ生涯を通して実践して見せて下さったのである。

何故なら、この最初から働かれている者とは天の父母であれれる神の事であるからである。

全知全能の神が人間が暮らす環境世界である天地創造をなさるのにこれほどの時間がかかったのであり、精誠が尽くされたのである。しかもこれらのものは全て無償で提供されているのである。

このような神の事情と心情に立って、最初から働いていた労働者は共に喜ぶべきであった。

人間が創造される前に、天即ち無形実体世界という霊界を創造され、天使との人格的協働の中で、全てを自らが決定するのではなくコミュニケーションをとられながら、喜びの世界を創建されていったのが神様であった。

この時最も期待され信頼されていた存在が天使長ルーシェル(ルシファー)であった。ところ無形実体世界に置いては神の愛を最も受ける位置にあった彼は、有形実体世界が創られ、そこに天宙の主人公たる人間アダムとイブが誕生すると、神の忠実な僕であるルーシェルに比べて実子として生まれてきた彼らに対する愛情がずっと深いものであることを知ったのである。

神の愛は今も昔も変わらずルーシェルに注がれているし、ずっと満足していたはずであるのに、他と比較してみたときに、あたかも今まで注がれていた愛情が減少したような錯覚した感覚を抱いたのである。文 鮮明 恵父はこれを「愛の減少感」と呼び、感ずることがあっても神の御心に立ち、全体の至福を求めて、かえっていっそう喜ぶ姿を神にお返しして、栄光の御姿を被造物や被造世界は現さなければならないのが本筋であると語られるのである。

天使長ルーシェルは愛の減少感を納めることができず、神に反逆してイブを誘惑しアダムをも堕落させて、その子孫の繁殖は罪悪世界を形成しこんにちにいたっているのである。

堕落によって偶発的に生じた堕落性があたかも人間の本性であるかの如く、神性に取って代わった次第である。

そこでイエス様はこの労働者の歪んだ心情を問題にしているのであり、神が弟アベルの捧げもののみを兄カインの捧げものを受け取らず、それを恨んでカインがアベルを殺してしまったことに通じる根本問題なのである。

自由の問題に戻ろう。

神の原理を離れた自由はない。

この原理とは統一原理のことである。ここで言う統一原理とは文 鮮明 恵父が説かれた神の御言葉の中心概念である統一性を特に指している。

神の世界では全てが区別されず統一した有様で存在しているが、この有様に似せて時空間に表現展開した際には、見かけ上分離独立して、あるいは構造的に存在しているように見えるのであるが、神の原相に形象的に似せて創られた人間であれ、象徴的に似せて創られ万物被造世界であれ、本質的には神の自体内に置いて統一されているように意図されて創られたものである。

その点を仏教は無分別智として悟ったのである。仏教の関心に神の存在がなかったので、自然と一体となることに重心が置かれたのであるが、今日も迷いの中にある凡夫の救済のため仏陀が何よりも語りたいことは、生前中語ることがなかった神や霊界の実相であろう。

より厳密に考えるならば無分別智や私が呼ぶイエス様や文 鮮明 恵父の統一智も、その根元は心情である。全体の歓喜と至福の為に奉仕と献身の合わせて奉献性こそが存在の本義である。

そこでタラントの譬えであるが、

責任のない自由はないを念頭に置いて考えると、人間は天使や他の存在と違って神の戒めを守り創造目的を自由意思と自由行動によって完遂させる責任がある。自己の完成と安楽な地上天国の完成という神のみ業に荷担することによって、他の存在とは区別される神の実子としての挌位を獲得することができるのである。

それぞれに神より与えられたタラントは個性や才能と見ることができ、それらは公共性が極めて高いものと、いや共有すべき財産であると神は考えておられるのである。そこで一旦与えられ預けられた天賦の才をそのままに放っておくのではなく、自らの努力で開発し繁殖させ増やして、全体の歓喜や至福に貢献させることが重要なのである。神ご自身の中に見られる一体一如の円和統一した世界を、人間を中心とした被造世界に人間が新しく創り出されるのをご覧になり刺激を受け喜ばれるのが神の希望である。

人も物も世界も神の似姿になられる日を待ち望んでおられるのである。

聖書に「あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」とは、神のみ業の本質が喜びの繁殖であることを物語っているのである。

統一原理の実績のない自由はないというのもこの辺の事情を語っているものと思われる。

「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊になるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」とは全体の至福の実現のために貢献することの大切さを強調した言葉であるということが分かるのである。人間存在とは為に生きる存在であり、そうでなければ実は人間としての資格がないということなのである。

「この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」とは、奉仕や献身の生活基準を立てて神のような与えて喜ぶ心情を体得しなければ、霊界に旅立った際に、自己の心情の世界がそっくりそのまま現前に現れるので、心しなさいという老婆心からのお言葉である。暗い所、すなわち地獄とは無形実体世界で人間の心霊や心情の基準が創りだした、悲惨な世界のことである。

我々はイエス様や文 鮮明 恵父を見本にして切磋琢磨していきたい者である。

随分文章が長くなったので国立大学の改革の話は次回にしたいと思う。