原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 統一思考 葡萄園の労働者の譬え と タラントの譬え を巡って③ 国立大学の変革を考える

国立大学というのは国民の税金によって成り立っている。国家や社会を担う優秀な人材の創出がひとつの目的であると考えられる。かっては優秀であるが高い学費が必要な私立大学には経済的事情によって入学することが困難な学生の受け皿になる役割を果たしてきた。

私が子供の頃には中学卒業して働く友人が多くいたが、今や多くの人が高校を卒業し、さらに大学を卒業する人も格段に増えている。

日本に置いては昔から結果の平等が重んじられる風土があるが、アメリカなどでは機会の平等が重んじられてきた。その背景には自立自助の精神が広く行き渡っているものと思われる。

大学教育の内容に置いても多くの人が享受することができる平準化がいっそう進められて然るべき時代が来ていることを考慮して、いくつか改革の事柄を提案してみたいと思う。

2回に渡ってイエス様が語られた、葡萄園の労働者の譬えとタラントの譬えを手懸かりに、イエス様の智慧の特徴と思われる統一智(無分別智)の観点と、部分と全体が我々の住む現象世界に現れる以前の神の本質世界に置いては一体一如の様相をもつ故に、まるごとひとつの世界であることから、見かけ上は部分と全体やあれとこれのように分離独立して存在しているように感じられるような、時空間に展開する様々な存在は、全て円和統一され、有機的に連体性をもったひとつのものであるという事を知的理解のみに終わらず全体感をもって捉えられ、見直されなければならないものであると主張したのである。

そこで大学を見た場合、時折日本の大学が世界の中でどう評価されているのかランキングが報道で伝えられることがあり、先進国の中では低い評価で終わっていることが伝えられてきた。

いろんな理由があるとは思うが、一つに外国の学生が英語で学ぶことができない日本の大学の現状があると考えられる。このことは学生だけではなく教える側も優秀な教授を招いて質の高い授業をしてもらうことが実現しにくい要因となっている。

ボーダレスワールドと言われて久しい世界であるが、国立大学もこれに習えばボーダレスであるべきであろう。

つまり世界的な大学のランキングで、北海道大学東北大学や東大などが競われることによって質的向上を遂げるという発想から、国民の為また国益をもたらすであろうリーダー育成のための国立大学をいっそう実現可能にするために、九州大学に在籍していても東大の授業が受けられたり、名古屋大学に在籍していても京大の授業が受けられるような環境整備をすべきであると思うのである。

各大学は特色を持って存在している。ある大学では金属に関する授業が優れているとか、福祉が充実しているとか。同じ社会学でもあの分野はあの大学のあの教授が詳しく、この分野はこの大学のこの教授が詳しいという具合である。ところが現在の縦割りの大学ではその大学におられる教授からしか学ぶことができないのである。

一種類の学問でも在籍大学というタコ壺に入り込んでしまい。私学とは違う国立大学の成り立ちを有効に生かし切れていないと思うのである。

さらに申すならば、最も優秀な講義や学生が価値ありと考える講義を受講する機会を平等に与えるべきではないかと思うのである。

今も昔も有名大学に入学することが目的化され、そこで真面目に勉強する学生よりもき既定の単位数を取得することが上位目標となり、卒業を迎えている学生は多い。

有名大学に入学し卒業したことによりブランドを自分が手に入れたと感じ、企業の側も一流企業であれば有名な国立大学や六大学等の学生から提出された履歴書以外は効率上カットされていることが知られている。

有名大学出というブランドやパスポートを取得することを目的とする人材を創出することを国はそろそろ止めては如何なものであろうか?

イノベーションというのは定義を変えることである、というふうにも表現できるのではないであろうか?

国立大学の定義を根底からひっくり返し、新たに造り替える。世界でもおそらく例にない試みをして、自身の持ち味を研磨し、その役割を自覚して社会に旅立っていく人材をつくる。

教授もぼやぼやしてはいられない。このように自由な競争環境を築くことが政府には期待されるのである。

かって小室直樹は教育改革が実施されるごとにその実体は意に反して悪化の道を辿ったと語った。それが本当ならばある意味教育内容や教師の自由選択ができる、競争原理が働く環境の整備こそ政府が実行しなければならないことなのかも知れない。

実現の為にはITの活用などの工夫は必要で、通学せずに受講することができるようにしなければならない。

我が国はいつから実学を重んじない国に成り下がったのであろうか?

明治維新に活躍された人々は近代国家創建に必要な学問をして実際に活用したことはよく知られていることである。

国立大学を統合したビジョンで捉え、全体の持つ活力が個々の学生に有効に活用されるように、変革しては如何であろうか?

それぞれの大学は同じ学部を中心に統合していって個性を強化していった方がよいのかも知れない。

いずれにせよ、10年後の国立大学の構想理想を掲げて、すでにある素材の再構築を目指すべきである。イノベーションとは既存のものの新しい組み替えでもある。各国立大学の教授や教科および学生が、個別の大学の境界によって質の高い教育を満喫する機会をなくせば、何処の大学に入学しまた卒業したかで人材が評価されることは無意味になり、何を誰からどの様に深く学び個性を確立したかを問われるようになるであろう。

それは偏った現在の受験神話を崩壊させる一歩になるかも知れない。

企業も必要な人材を選択しやすくなることであろう。

アベノミクスの人材戦略は教育、特に大学における教える側と学ぶ側の成長にかかっていると考える。

大学の境界をなくすことで国内の大学や学生を活性化し、授業を十年後に英語で実施するよう義務づけ準備させることにより、海外の優秀な学生や教授の招聘を可能にしなければならない。10年で準備できぬ教授には交代して頂こうではないか?

そうすれば大学のランキングではなく授業内容と卓越した授業の実施者に関心が注がれることであろう。

勿論それを実現するためには幾多の課題や試練が待っていることは間違いない。しかし変革を起こすリーダーを育てたいのなら、政府も困難だが希望の変革に取り組んで貰いたいものである。