原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 普遍性と特殊性(個別性)を意識して考える生活習慣 目立たないと目立つ②

神が創造された人体の機能にに社会の仕組みが対応するようであれば、我々の社会は本来如何なる様相にて展開しなければならないのであろうか?

経済では人体の血の流れと社会の金の流れを対比して語られることがある。曰く血流も金流も滞ることなく循環していなければならぬと。人体では部分と全体の円和性が保たれている状態を連体性というならば、各階層におけるそれらの不均衡が何らかの条件によって引き起こされ、病気と呼ばれる結果に至らしめられるのであろうか?

隣国ではかって新入社員の初任給と社長の給料の差異が100倍、あるいはそれ以上あった時代が少し前にあった。現在においても我が国の一流企業の社長の年俸が億単位であるとして報道で紹介されることもある。

単純労働に複雑労働、肉体労働に知的労働、経営者はより大きな価値を生み出した対価として、その他の一般社員より多くの報酬を受けて然るべきであるという考え方である。

我々の体を見てみると、体を統括している頭脳が、一番質が高く重要な働きをしているから、「おいらのところにはたくさんの血液が集まってこなければならぬ。」というような事態は起こっていないようである。勿論脳の活動にとりわけ必要な栄養素は優先されて運ばれてきているようではある。

仕事に貴賤はなく、その職に就くことで貴賤は生じるわけでもない。自らの体を見れば実に仲良くやっているのである。手足が最も労働らしき労働をする。しかし私たちは脳の働きが生む価値と手足が生む価値に高低を意識して本当に生きているのであろうか?無意識に実に仲良くやっているように思われる。手足や目鼻に耳口というものの個性が生み出す価値はそれ自体の報酬として還元されることが本義ではなく、かえって全体のために貢献され捧げられるべき、性質のように思えてならない。人間の人体でごく自然に行われていることが、人間社会では何故容易には為し得ないのか?ここに人間が本然の状態から逸脱し堕落した有様を感じずにはいられない。報酬が目的となって頭脳や手足が働いているようには到底思えないのである。医学や薬理学を専門にされている方々はどの様にお考えなのであろうか?全体のための部分であり、部分のための全体である。

富を築くことは結構であるが、その築いた富からさらに如何なる社会的価値を生み出して貢献するかが、人間として生まれてきた矜持の分かれ目である。

さて、パートタイマーの方の社会保険の適用をみると、雇用保険が一週間のうち所定労働時間が20時間以上あることが条件となっている。全国展開している有名なスーパーのパートの勤務時間が、4,5年前に一日4時間から3時間に変更されたことがあった。ほとんどのご婦人は自動車で通勤していて交通費は支給されていない。3時間でしかも地方の時給を考えると実に厳しい条件である。仕事は15分刻みで組み込まれ、その表を見せて頂いたときには、さらに15年以上前に書物やビデオで見たレイバースケジューリングを思い起こした。

3時間では週6日働いても18時間となる。20時間以下である。

そこで夜間にワックスがけをしている男性の方がおられた。賃貸の不動産業をされていたが立ちゆかず、3つの正社員でない仕事をしているという。実質的には正社員並みの時間かそれ以上働いておられる人がいる。

ところで健康保険や厚生年金保険の適用は、1日の労働時間が正社員の概ね3/4以上であり、1ヶ月の労働日数が正社員の概ね3/4以上であることとなっている。

このように数字を分岐点にして適用・不適用という仕組みにすると、企業は人件費を最低にするためにそのぎりぎりのところで打ち止めするように動くわけである。

したがって、二分法ではなく比例方式にすべきではないかと考える。概ねの方針のことである。正社員の半分の労働時間であれば企業の負担も正社員の半分、保証も半分に概ねなるように工夫できないのであろうか?

低所得者層には見えない損失や負担が誣いられているという解釈は大げさであろうか?国民年金や国民保険の支払いの強制化をさらに増していこうとするときには、一本化などと共に思想的根拠の吟味を十分尽くして頂きたいものである。

人件費という固定費を変動費化する、いわゆるコンビニやファストフード店に見られる手法を様々な業種に適用して外部環境の変化に対応してきた漬けが、正規・被正規社員問題の要因にあることを政府は重視して頂き問いと思うのである。

ところで、私は何故韓国に再臨主が降臨したのか、勿論原理講論にはその理由が列挙してはあるのだが、別途華厳経に一部手懸かりがないかと探索しているところである。

仏教学者というのは分野は違うが科学技術者と同じく膨大で精緻な作業の果てに、真実は何かを検証されて行くのであるが、驚くべき努力である。よくよく頭の中に物事が整理して収まっているものだとはなはだ感心してやまない。

上記の理由から最近手にした本で吉津宣英博士の書かれた「構築された仏教思想 法蔵」という本を読んだ。コンパクトながら実に読みがいがあった。ここではこの本の内容はさておいて、著者の以下の言葉が簡明にして深遠なのでお知らせしたいと思う。

 

「仏教では、偉くならないように、また偉く扱われることがないように修行するのである。」

 

博士の爽やかな生活が見えるようである。また、文 鮮明先生を忍ばずにはいられなかったのである。感謝!

 

次は軽自動車と一般自動車の税負担について少し考えてみたいと思う。