原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 原力と作用

あらゆるものを存在させている力として万有原力があると統一原理は語っている。この存在が活動する時に生じている力としては授受作用の力がある。二つの力は別々のものではなく、原因的な力と結果的な力という違いがあるが、本質的には同じものである。

人間存在に当てはめて考えてみると、心情のことであり、心情の衝動性が気力ということであろうか。心情とは目的を指向している、具体的には神が立てた創造目的である。目的指向性があるということはある種の秩序をもたらすと考えていいだろう。このことは自由と秩序に関係していると思われ、自由と秩序は両立するのであろうかとか、秩序という束縛からの自由と秩序における自由という従来の考え方が、個別の事柄ではなく一つに考えられるべきものであると思うのである。

分別して考えてはいけないのである。

秩序における自由から別の秩序における自由への移行が束縛からの自由であり、フリーダムといわれるものであり、ある秩序内に止まっている際の自由がリバティというものなのではないかと考えられるのではないであろうか?

原力と作用を応用するに翻訳してみると社会分析に用いられるエトスと行動であるとか、もっと身近には志と行動がある。

志とは何が何でもこれをやり遂げたいという決心覚悟をもった目的であり、自分に課した使命である。

もし原力と作用の関係を志と行動に対応するとすれば、読み書きや数理を学ぶことの基礎に志がなければならないであろう。志こそが我々人間が人生を歩んでいく際の原因的な力、原力であると考えられるからである。

人生における個々の行為や行動に価値を与えてくれるのが志であるが、価値ある仕事を果たすために、人生の一定時間に必要な持続的な力、エネルギーが心情から生まれた志である。日々の作用である活動のパワーはこれによって保たれるのである。

そこで教育において、特に初等教育において重要なことは、作用としての読み書き数理の学習であるのではなく、如何に若き日に志を立てることができるか、そのための環境を整えることであり、支援を提供することであると言えるのではなかろうか?否、これに尽きるのである。

手練手管や小手先で上手に生きる人間はたくさん出てきたが、人物といえる存在は現代より維新の前後の方がずっと多く輩出されてきたことは誰も否定できないであろう。

祖父は太平洋戦争の時海軍にいた。名前は忘れたが戦艦で「撃て!」と砲撃の号令をしたそうである。その祖父が時々海軍五訓の話をしたことを思い出す。どうやらこれが戦後の生活指針として祖父にはとても有効に働き続けたようである。

一、至誠に悖(もと)るなかりしか 
一、言行に恥ずるなかりしか 
一、気力に缺(か)くるなかりしか 
一、努力に憾(うら)みなかりしか 
一、不精に亘(わた)るなかりしか

誠を尽くすことに落ち度はないか

言葉や行動に間違いがなく、言行不一致はないか

気力は充実しているか

努力に抜かりはないか

怠慢に陥っていないか

人間にとって自分の生活を律する簡潔な言葉が必要であり、それ以上に大切なことは、どうやら日々それを声を出して唱和することのようである。

八重の桜でも会津の「ならぬことはならぬ」などの言葉が紹介されていたが、幼少の時にこそ失われた日本の伝統を取り戻すべきであろう。