原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 陽性と陰性を意識して考える生活習慣

易経では陰陽は実体のようであるが、統一原理で言う陽性と陰性とは、各々性相や形状の属性であって、実体ではないとされている。

性相と形状の関係と陽性と陰性の関係は、形状が第二の性相と言われるが如く、ほぼ同じ言葉が例としてあげられている。

そこであまり厳密な区別に囚われることなく、現実的功利性に着目して工夫して用いればよいのではないかと考える。

統一思想ではカテゴリーに関する記述で、陽陰に関するものとして肯定と否定、成長と衰退を挙げている。

これを精神的態度に応用してみれば、肯定と否定は積極肯定と消極否定という翻訳が可能かも知れない。肯定とは積極であるといい、否定とは消極であると。所謂ポジティブとネガティブのことである。私を取り巻く内外の情勢の判断が積極的なのか、消極的なのかよく見るということである。そしてよく見たら、四位基台というのは中心が常に神であり、神の心情であるが、その心情は実際には主体の中に存在するので、主体として立つ私は、神の立場、すなわち単なる積極的という相対的な概念ではなく、絶対であり絶対積極となる。仏教であるから神の存在は意識しないが、禅で言う絶対とはこのことであろう。

この絶対というのは主体性に関して後に述べるときにもう少しお話ししたいと思うのである。

成長と衰退も同様に応用するならば、現状打破か現状維持かの決断であり覚悟である。

私を取り巻く環境や情勢は絶えず変化しているので、現状維持はそれ自体では成長でも衰退でもないのであるが、環境が変化しているため、環境の変化に乗り遅れ対応をおろそかにすれば、衰退に至るのである。

従って現状維持の態度は衰退と後退を招くと言えよう。そこで我々は常に人生に対して積極肯定の態度を取るべきであり、積極肯定とは具体的には現状打破への導き手である。

そしてこの積極肯定が絶対肯定になると甘受の世界が見えてくるのである。

統一原理の重要な言葉に甘受がある。何年信仰していてもなかなか難しい言葉である。ある意味で統一原理の悟りというものがあれば、それに関わってくる言葉に思えてならない。

到底受け取りがたい出来事に遭遇して、悲しみの中に受け取るというのでもなく、苦しみの中に受け取るというのでもなく、我慢して受け取るというのでもない。甘んじて受けるの「甘」というのはむしろ「甘露」の甘というように解釈しては如何であろうか?

甘受というのは喜び、厳密には至福の中で受け取るという意味であると確信する。文鮮明 恵父の 主の路程を学べば、そう受け取る以外の道はないように思えるのである。神様と共にある創造本然の世界とは永遠にして絶対の喜びの世界である。絶対的喜びという相対的な喜びではなく、絶対喜とでも表すべき純粋絶対の世界である。

この絶対肯定の事を私は絶対対象という言葉で永らく考えてきた。絶対対象即絶対主体ということである。

人間が真の主体性を獲得するためには、その前に真の対象性を獲得しなければならないということである。

そのことを文鮮明 恵父は身をもって我々に諭して下さったのである。四位基台を考えてみよう。この菱形で図解して、上位の頂点に神と書き中心を表して、真ん中左の頂点に主体と書き、反対側である真ん中右の頂点に対象と書き、下位の頂点に合成体と書く、それである。

中心の神とは、具体的には神の心情や創造目的を表しているが、実際には主体の中に存在(臨在)している。この時の主体の要件が、絶対対象である。

つまり絶対信仰・絶対服従・絶対従順である。

ここにおいて初めて創造本然の人間としての主体性が確立され発揮されるようになるのである。絶対主体である。そこで実存主義を持ち出すまでもなく、あらゆる立場の人々の主張する主体性とは不完全なものでしかないのである。我々は生まれたときから母親の手を借りずには生きていけない対象存在であった。人間はすべて対象として生きていくのである。対象が先で、主体となるのは後の話である。

主体としての私の中心に神を迎えて、神の心情や創造目的を拝して絶対主体として立ったとき、神の御業を為されるときの如き、対象に注がれる至誠を文鮮明 恵父の生涯や御言葉に求めると、「完全投入」の思想を誰でもたやすく発見することができる。

主体があらゆる対象に関わるときの在り方は完全投入である。そこに神のに姿として創造された人間の威厳が存在するのである。

これを道元は全機現と呼んでいる。只管打座により万法に照らされて、これと一体一如となり、自らのあらゆる機能を発揮することであり、現成とも言う。

絶対対象即絶対主体である。

さて人間が堕落してしまったので、堕落人間を救う復帰摂理が展開されてきたのであるが、この四位基台を復帰原理に応用したのが信仰基台と実体基台である。

人間が堕落せず堕落した歴史と世界が構築されてこなければ、信仰基台も実体基台もそれはど注目されてこなかったのではないかと、私は考える。

信仰とは見えないという意味でもあり、実体とは見えるという意味でもある。見えない信仰が見える信仰を持つというのは、実体とは生活を指していると言えよう。人間の生の営みとは何かといえば、仕事であれ遊びであれスポーツであれ、その中心は人間関係である。したがって実体基台とは生活基台のことであり、人間関係の基台のことである。

ところで堕落という忌々しい出来事が起きなかったとしたら、信仰は生活であり、生活は信仰であった。堕落によって一つのものが分裂したのである。そこで構造的に解説されているのではあるが、本来は一体一如であると心得ねばならないことなのである。

統一教会が宗教が必要のない世界を求めているというのはこういう事であろう。

最後に、陽陰というのが物事の二面性を表す最も代表的な東洋の言葉であるが、表と裏、虚と実のように様々にその事象に会わせて臨機応変に一組の言葉を選んで理解に役立てたいものである。