原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 性相と形状を意識する生活習慣③見えると見えないⅡ

性相と形状とは平たく言えば心と体である。この心と体をイメージして事象や問題・課題に接すればよいのであるが、何も杓子定規に心と体、性質と物質と言うようなことばかりに気を取られる必要もなかろう。

そこで、見えると見えない、という言葉に置き換えてみれば、物事を考察する際に役立つ視点を得ることになる。

仏教学者に中村元という人物がいた。仏教に関する膨大な著書を書かれておられる。この先生は恩師に呼ばれて、仏教を研究する前に君はヴェーダンタを研究するようにとアドバイスを得た。とはいえ、日本語で学べるどころか、インドにおいても世界中何処の国においても教えてくれるような情報を整理されている方はおらず、気の遠くなるような作業の連続で、シャーロック・ホームズよろしく解明していくことになったのである。

仏教の経典や解説書の類を学んでいくのにも、骨が折れるのに、その仏教が誕生してきた、見えざる背景としてインド社会に根付いているヴェーダンタ、それも当時は7世紀頃シャンカラという哲学者によって現れたとされていたものが、それよりずっと以前から存在しインド社会に影響を与えていたことを明らかにされたと聞く。

そこで思想史を書くとすれば当時はAという思想が出てきて、次にBが現れという風に書かれるのが普通であった時代に、その思想があらわれた社会的背景から掘り起こしていくといった作業を根気良くされたようである。

一つの例に、卒業論文に初期のヴェーダンタをテーマとして書いた論文が膨大になり、リヤカーで運んで提出して教官を驚かせたそうである。

まあそこまではともかくとして、氷山の一角という言葉があるように、我々は今、現前に見えているもののみに満足することなく、見えざるものに意識を傾けていくことは有意義なことであろう。

40年以上仏像を彫られている仏師に松本明慶という人物がいる。広島の宮島にある大願寺の身の丈5メートルほどの不動明王を造られた方である。

NHKのドキュメント番組では仏像のある部分の曲線にこだわられ、弟子に厳しい注文を申しつけていた。

現れ出でて見える線に、仏の見えない慈悲が伝わらなければならぬ。不動明王であるから恐ろしい顔をされているが、人々を救うためのお叱りであるから、そこには慈悲が感じられなければならない。

見えるものから見えないものへ至る橋渡しをするのが仏像の役割であろう。

まるで仏教の僧侶のような誠実でひとかけらもインチキのない、妥協のないお仕事は見事の一言であった。

ところで高名な仏師と肩を並べるように話して異議があるかもしれないが、アパートが完成した際に、引き渡す前の最終的な掃除の仕事を何日かしたことがある。仕事の中心はアルミの窓枠のバリ取りや磨きなどである。自分では相当丁寧にやったつもりであるが、責任者が点検したときに、一喝された。「仕事なんだ。わかるだろ?」その一言にこの人は本物だと感じた。自分の持っている精一杯を注いで仕事をしてこられた方とハッキリ分かった。少しもインチキがないのである。立派な方であった。

思い起こせば、例えて言うなら星一徹がツルハシを振り下ろしている様によく似ていたと思うのである。

やるべきことを、淡々と当たり前にこなしていく、自信に満ちた生き方である。

はったりとインチキの多い自分の心を洗わせるために神が出会わせて下さった有り難い人であった。

松本仏師とこの御方には共通する人としての在り方が存在し、私に問いかけてくる。

さて、道元が正師を求めて宋に辿り着いた1223年5月4日のことである。日本の椎茸を求めて道元が乗っていた船に来られた、禅の料理長と交わした会話の中に貴重で有名な体験をされた。

話が盛り上がっていたので道元は引き留めたいと思うが、外泊の許可も取ってないし、自分が食事を作らないといけないと言う。60ぐらいであるのに他に代わってくれそうな若い人もいるだろうに、そんなことは他人にやらせて、座禅や禅の語録を読んだ方がずっと修行になると道元は考えたが、貴方はまだ修行のなんたるかが分かっておられないようですなと言われ、はっとして教えてほしいと願ったが、今質問されたお気持ちを忘れないでいるなら、やがて分かる日が来ると言う。

素直に恥じ入り謙虚に教えを求める道元は見事である。老僧はこの年になっても、有り難いことに修行させて頂いておるのに、どうして人の手に委ねることができようか?という捉え方をしている。

悟りを得る人というのはかくの如しである。

小事に対する態度も大事に対する態度も、寸分の違いもなく接することが、当たり前に為すべく為されている生活習慣を維持しておられるのである。

王陽明の事上磨練もこのことを指しているものと思われる。普段から当たり前のことを当たり前にこなしているので、事が急に起きても、少しも騒がず平常心、大丈夫、大安心で臨めるのである。

文鮮明 恵父がダンバリー刑務所に収監されたときに、囚人たちの食器をテーブルに並べるのであるが、ここまで完璧に整然と並べなければ気が済まないのかと思われるほど潔癖であったのも、いざというときに日常生活が現れてしまうからなのであろう。勿論恵父はそんなことを気にとめてしているわけではないのであるが・・・

ある人には掃除している人に、或いは食事を作っている人に見えるものが、別の人が見れば確かに修行をされていると見える事がある。

さらには、見えない心にも、見える顕在意識と見えない潜在意識がある。

このように見えるものから見えないものへ視点を移行していく生活習慣は統一原理の理解と体得に欠かすことができないものである。

権進様は相手が有名な人であったり偉い人であったからと言って緊張するようでは、人間ができあがっていないと言うようなことをおっしゃられている。

相手が身分の低い者であろうと、高い者であろうと、裕福な人であろうと貧乏な人であろうと、相手の条件によって己の態度が変わるというのは、本質的に見れば、相手によって自分が振り回されているのであり、本当の自己の主体性を喪失していると言わざるを得ないのである。

内閣総理大臣に会うときも、国を代表するお仕事を担っておられることに尊敬はしても、緊張することは不必要なことである。

身分の高低や職業の種類によって、会う人に対する心がいたずらに騒いだり、人に対する行為に差別が出てくるようでは、自分の内に天国はないのである。

したがって、我々凡人は既に課題があることが多いわけであるから、子女様以上に心せねばならないであろう。

堕落世界の底辺に身をおいて、罪の虜にある人間の喜怒哀楽を、事情を共にしながら、丁寧に観察して、如何にしてこの堕落人間の救済を果たすか、身もだえる責任と決意の投入された求道の末に真理を復帰されてきた、天地人真の父母様のお姿は、華厳経の善財童子が清濁混交するあらゆる人々から学び取り悟りに導かれていく姿を連想するものである。

堕落世界の泥土の中にあって、少しも汚れ汚されることなく、違和感のあるはずであるものを、まるでここが私のもともとの居場所であると言わんばかりに似つかわしく生活できるそのお姿こそ、万民が挙って求めてきた救世主・メシアの本来の面目躍如なのである。

華厳経というのはサンスクリットの名前を素直に訳せば「仏の飾りと名づけられる広大な経典」という意味だそうである。漢訳では「大方広仏華厳経」で仏華厳とは仏を華で荘厳する、つまり飾るということだそうである。粋な翻訳である。

では何故華なのか?

美しいものといえば華こそその代表である。

ところで華とはそもそも何なのであろうか?と言えば、華とは植物の性器そのものである。それが最も美しいものとされているのである。

何故に仏が蓮の花の上に胡座をかいて座しておられるのであろうか?

仏教で言う空、統一原理で言う連体を体得して、悟りを開いた者は、また性の主管を完成した者である。これを文鮮明 恵父は絶対性とおっしゃられたのである。絶対の性。絶対性である。

したがってこの心情の境地に至った善男善女は、神の祝福を得て、聖なる結婚に進むべきなのである。自然界の華のように・・・

そこで空海が理趣経などを通して、丁度モーゼがカナンには至ることを許されなかったが、遙かにその地を望むことは許されたがように、空海もどうやら個人の悟りの先に何やら性に関する世界があることを知ったのではなかろうかと思うのである。

しかし、再臨主が来られるまでは、これはあからさまにされることがなかった奥義であった。堕落世界の中では心情が歪められた堕落人間に理解できるはずがない話だからである。

統一教会にあえて悟りとは何かを問われれば、個人ではなく、夫婦や家庭という単位での絶対性の確立である。三代が立てば神の伝統が地上に姿を現すようになるのである。

見えるものから見えないものへ、というのは例えばこのように考えることである。

共に精進したいものである。