原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 性相と形状を意識して考える生活習慣③見えると見えない

物事に見えるものと見えないもの、見える部分と見えない部分がある。人が心と体を持つようなものである。心を見れば体を、つまり行動を、行動を見れば心を伺う。人間は言葉を介して生活しているので、その見えざる心を測るのに、その発する言葉を見、その言葉の本音と建て前を見るに、その行動を見る。見えると見えないの往来よろしく行い真実を知る。

通常は、見えるものから見えないものへ意識と視点を移動させることが多いようである。コロンボにしても古畑任三郎にしても、些細なことであれ何か心に引っかかった事柄が、何故そうなのか、その理由を確認できるまでは、そこに関心を集中させている。それは不発に終わりたわいもない理由であることもあるが、このような基本的事実の確認の作業を繰り返していく中に、今まで見えなかった真実が顔を出すことがある。引っかかりの理由の確認は見えない事実の気配や、これから起こりうる事象の兆しを我々に自覚させてくれることがある。そこで我々はこのように見える世界と見えないの世界の媒介として思考し判断する方が良さそうである。

家内が好きな「がんばれクムスン」という韓国のドラマを見ていた。夫に若くして死別した妻が、夫の家庭で暮らし、自立するため美容師の資格を取ることを目標に奮闘し子供を育てるお話である。

最近のあらすじは、義父の家にクムスンと一緒に住んでいる義兄とその嫁の問題が発覚した。嫁はせめて義父にだけは離婚歴があることを、義兄を通して説明して貰い、そのことは許され了承されて結婚したつもりであったが、夫は義父にさえ打ち明けてはいなかった。とうていこの結婚を両親が許可してはくれないと考えたからである。ところがこれが嫁にバレ、両親にバレておお騒動になったのである。嫁には前夫との間にできた子供がいて、前夫が諸事情から養育できないことになり、かわりに預かって育てなければならない情況に至っている。

さて、その件が落ち着いてきた頃、主人公のクムスンが若い医師と恋仲になり結婚を考えるようになっていた。これが亡き夫の両親の知るところとなり、逆鱗に触れる。

夫の死後も婚家に居座り、子供の面倒もみて貰いながら美容室で働き自立の道を求めてきたのであるが、亡き夫の両親に隠れて交際していたことが発覚して問題となった。

ドラマは様々にもつれ、交際相手の彼氏が亡き夫の両親に結婚の許しと子供を育てることの許可を請う。

息子の忘れ形見の一人子なので、彼氏は本当の父親になるため、5年間は子供を作らず、このこのために父親として誠実に育て生活したいと提案する。

しかし、韓国では実夫の姓を名乗るのが普通なので、育ての親の姓と異なり子供に問題が生じやすいことを義父が心配する。すると韓国では法改正があって、今では姓を変更可能なので大丈夫と言うと、これが拍車をかけさらに両親を立腹させる原因となってしまった。

日本ではここまで考えてくれるなら、息子のかわいい子供ではあるがなたにお任せしようというのが普通であろう。

何故このように韓国では難しい問題となるのであろうか?

その見えない原因と思われるのが、韓国人の血統を重要視する気風であろう。韓国人にとって命より大切なものが族譜(家系図)である。

韓国ドラマのテーマは嫉妬と復讐に満ちている。堕落性のオンパレードである。うっかり見ていて感情移入してしまえば、堕落性の虜にならざるを得ない。しかし、そのおぞましいストーリーの中に、血統の生命視や父母の権威の絶対性や見過ごして過ぎ去ることのできない責任心情などが、垣間見ることができるのは一服の清涼剤である。

人間が神の戒めである「取って食べるな!」の戒めを無視して、堕落したということは、父母の命に服す伝統を立てた民族に歴史の失敗を元返していく使命があることを物語っているように思える。韓国のドラマでは意見を普通に交わすのも、簡単に父母に否定され、それで仕方なく当然という伝統が見られる。事実を知ることや善し悪しの判断より上位にあるのが親の意見である。そこにロミオとジュリエットのような悲恋が成立する理由がある。

側隠の情という言葉があるが、見過ごして行くことができない責任心情というものがある。韓流ドラマの世界だけではなく我々の信仰生活の中に、ああいうこともあった、そういうこともあったと経験を積んでいないとすれば問題である。神の心情と遠いからである。

先日お話しした森田さんは韓国一の大きな教会で日本人として初めて礼拝の司会に立った方である。当時はとても日韓が険悪な時でそんなことが想像することさえ難しかった時代である。

一万人ほど収容できる教会であったと思うが、そこに就任していた牧師が立派な家を建てて豪勢に暮らしているのを、礼拝で糾弾されることがあった。

公金横領である。知らず知らず、少しずつ信仰がずれていったのであろう。

神を賛美し礼拝するのが牧師に対する大糾弾大会に変わってしまったのである。

生きた心地もしない牧師の姿に見かねて、ある老婆が立ち上がった。「牧師様がかわいそうだ!私の全財産を献品する!」といって、貧乏であったから持ち物と言えば茶碗と箸であったが、それを教会に献品すると言い出したのである。ところがその迫力に、ひとりふたりと続いて献金すると叫ぶものが現れ、増え続けていき、牧師は許され事なきを得たのである。このような超越した信仰が韓国にはある。

信仰とは恐ろしいものである。肩書きでは到底測り知れないものである。

クムスンのドラマから我々が学ぶべきは、天の真の父母様であられる神様に隠れ隠して愛し合うことのなき、神に祝福された血統の生命視である。日本人は血統を気にしない民族である。唯一天皇家だけが違っている。そこで女系天皇などと訳の分からぬ議論がまことしやかに起こるのである。血統図ではなく家系図なのである。血統を守るのではなく家を守ることが重要なのであって、家を守ってくれさえすれば誰を養子にしても、血統的には断絶だが、問題ないのである。

さて、二十年ほど経ったであろうか、霊界に行かれた興進様が、下界の我々信徒が多く罪の虜になっている様子をご覧になり、哀れに思われて救うべくコンフェッションの役事を為されに下界に戻られたことがあった。その時語られた内容で、霊界を探検してどんどん高級な霊界に上っていって、最後にキリスト教の篤信者の霊界に辿り着き、さあここが終点と引き返そうとしたが、おやおやまだこの先に何かありそうだと行ってみれば、そこは熱心な仏教徒の霊界だったという。一体これはどうしたことか?どう理解すればいいのか私は戸惑った。

神の存在を無記という形で、積極的には肯定しない仏教を信ずる者の方が高い霊界に行っていたというのは、なかなか納得しにくいものであった。

そこで、興進様はアメリカで育ち、たまたま仏教には造詣が深くはなかったのではないかと考えるようになったのである。

仏教徒と言うよりはヨガの行者のような存在で神の存在を肯定する人々のことを、仏教徒の類と考えたのであろう。

それにしても名だたるキリスト教信仰者よりも高い霊界に暮らしておられるということが事実だとすれば一体どのように解釈し、我々統一信徒も形は神に祝福された身ではあるけれど、実質霊界に向かった際に現れる見えない評価の基準とは如何なるものなのであろうか?

大乗仏教の時代になると瑜伽行唯識派の瑜伽師という人々がでてくる。私が華厳経や唯識に関心があるのは、興進様の語られた内容の手懸かりがここにあるやも知れぬと、当たりを付けているのかも知れぬ。