文先生が入院されて聖和される少し前に、夢を見ました。婦人と一緒に病院にお見舞いに行く夢です。文先生の部屋に入ると眠っておられるのに、無謀にも私は呼びかけ揺り動かし先生を起こしていた。文先生はがばっと直角に起きあがったがその目が異常だった。まるで白眼をむいているようなとうてい生きた人間の眼ではなかった。驚いて眼を覚ましてしまったが、ふとその時もしやとの予感が脳裏をよぎった。神と人類のためにこれだけ至誠を尽くし苦労を重ねてこられた方ゆえ、どんなにお体の状態が険悪であれ、神は基元節前に天に召されることはあるまいという確信に、よもやという思いが心を占領した。案の定不吉な予感通りになってしまった。
どうしてもこの事実に納得がいかなかった。どう考えてもあり得ないことが起こってしまった。一体何が起こったのか?事態が飲み込めない日々が続いた。
しばらくして今度は家内が夢を見た。霊界に行かれた文先生が多くの祝福家庭が犯している問題の解決のために奔走されている内容だった。
その後聖酒式が行われてなるほどこういうことかと身に染みて今更ながら文先生の果てしなく責任を担われていく愛の凄さを新めて知った。
一体我々は如何なる出会いをしたというのだろうか?
何度も実際にお会いできた信徒、プレゼントを頂いた信徒、生活を共にしてご指導頂いた信徒。いろんな出会いがあったことだろう。数えられぬ死の境地を超えながら復帰してくださった御言葉をただのように価値のわからぬ我々に惜しげもなく与えてくださった大恩にただただ感謝の思いに尽きる。
御言葉を骨髄で理解せよ!と語られるその真意をどれほど我らは与するや?肝に銘じて恥じ入らねばなるまい。昔、達磨大師が弟子たちにその信仰観を告白させた。それぞれに、我が真髄の皮を得たり、我が肉を得たり、我が骨を得たり、我が骨髄を得たりと評された。山崎弁栄という聖者がこれを引用して「宗祖の皮髄」という本を書かれている。宗祖、すなわち法然の御教えの本質にどれだけ自らが迫り体得したか心せよとの話です。孤高な求道の道を歩まれた仏教徒とは誠にたいしたものです。
宗祖法然を文先生、天地人真の父母様に置き換えて読み直せば、如何なる統一信徒も、聖和を超えて侍るべき心情を悟らされ、胸引き裂かれる如くです。以下に少し引用したい。山崎弁栄聖者、感謝万歳!
「謹んでおもんみるに、われら何の幸いにか宗祖のごとき霊的人格を備えたまえる大偉人の末裔として聖き血脈を相承し、清き吉水の流れを汲むことを得たる。われらは宗祖の聖き生命、霊的人格を欣慕(ごんも)して止まず。ついては宗祖の霊的人格の内容実質はいかなる要素をもって形成なされしか。いかに安心を立て、いかに起行して、かかる霊的人格に倣い得らるるか。宗祖の後裔として血脈を伝承せるわれらの日常は、宗祖に稟(う)けたる霊的生命として生活せざれば何の面目かあらん。宗祖の霊的内容の豊富なるごとく、われらは信念を養い、宗祖の霊的実質を充実するごとく、我等は宗教心を充実せんことを期せざるべからず。」
アージュ!