原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

何故 郭グループと呼ばれざるを得ないのか!  統一原理で読み解く

 

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城は内城とと外城からなっている。

本来、とは城郭の意味で、外敵を防ぐため城を囲む壁のことを指している。

神を内城とするならば、外城は天使長である。

神を守護する任にあるのが天使長である。

大阪城の外堀と内堀が埋められることによって外敵が容易に本丸を狙うことができたように、城郭が崩れれば、本丸に敵の手が届いてしまう事になる。

 

天使長の父が外城の城郭であるのに対して、娘は婚姻によって内城に住むことになった。

そこで、その娘はエバと同じ神側の娘となった。

もはや自分の子ではなくなるのである

そのにとってはではなく叔父になる。

このことをしっかり理解しないと王宮の血なまぐさい歴史を

蕩減することにはならない。

我が国の皇后様の御両親はよくよくそれをご存じで、見事に身を低められた。

エバが善悪知る分別者として、御旨の全てを決する立場にあったように、

王宮に住むようになった娘には二つに一つの道を行く決断の時が訪れるという。

「汝の父はいずれなりや?」

王宮に住むようになった娘の父、すなわち夫にとっての義父は、身を改めて叔父となる。この時義父にも天より問いかけられよう。

「汝この娘の父なるか?義父なるか?叔父なるか?」

神様は長男、天使長は次男

神の娘から見れば、天使長は叔父

この叔父が堕落し、神の娘を誘惑して

神の娘の叔父が、神の娘を奪った。

それによって、叔父は義父になり、偽りの父となった。

ヨセフは外的に善の天使長を蕩減する道。

天使という僕の立場で神の意思に同参する道。

真の家庭に娘を嫁がせる祝福家庭主体者は、

内的に善の天使長を蕩減する道。

天使長という叔父の立場で神の喜びに同参する道。

 

何故子女様の相対者になられた方のお名前にはがつくことが多いのであろうか?

東淑様

蘭淑様

薫淑様

全淑様

 

サンズイ「水」を表す。水は堕落や堕落世界を比喩している。

はここでは「叔父」の意味である。

真の家庭に嫁いだ女性は、神の淑女すなわちになる道と

依然として義父の娘に留まる道がある。

善悪知る分水嶺として全てを決する女性として立っている。

 

結婚後は父は夫の父になるのである。

エデンに戻るからである。

娘を育てた父は義父でさえなく、叔父に戻るべきである

ここで、血統的因縁を持つと誤解したり未練を持てば

その者はサタンと同様に偽りの父となってしまうのである

 

創造本然の世界         堕落世界

神  :父(長男)     → 堕落天使長サタン:叔父(次男)

    ↑忠誠          ↑忠誠

アダム:息子          エ バ  

    ↑忠誠          ↑忠誠

エ バ:娘           アダム

 

亨進様によれば、ギリシャ語の花嫁には「叔父の娘」という意味があるという。

 

聖書の核心は「神われらと共にあり」インマヌエルであった。

成約の御言葉の核心は「父われらと共にあり」である。

 

天一国の世界        郭グループの世界       

王:真の父(長男)   → 王:義理の父(次男)

   ↑忠誠           ↑忠誠

王子:王家後継者      王女:再び奪われた娘

   ↑忠誠           ↑忠誠

王女:復帰された娘     王子:王家外養子後継者

 

注:義理の父とは、血の繋がった親ではなく育ての親

ここで言う忠誠とは霊的に見た血縁的忠誠が文家ではなく郭家を中心にしている事。

わかりやすく喩えるとサザエさんのマスオさん状態、婿養子のようになっている。

 

我々祝福一世はボディに過ぎないと言うこともできよう。

喩えて言うならば、

お父様の霊人体とお母様の霊人体が、我々夫婦の肉身を借りて愛し合い生まれてきたのが、祝福二世であるということである。

我々の種や霊人体から神の子が生まれるとは想像することもできない。

 

かぐや姫を育てたお爺さんとお婆さんは、自分ではなく、別の種から生まれたかぐや姫を月の王宮に嫁がせて行かねばならぬのに、自分の血統の娘であるかの如く引き留めようとした。自分の娘だと主張し、影響圏、所有権、支配権を行使しようとした。

育てさせて頂いただけでも感謝であるとは考えなかった。

 

王家で娘に対してサタンのように血統的因縁を主張して引き留めるなら、

そのも者は血統転換できていなかったことを自認することになってしまう。

摂理的中心家庭に嫁がせたということは、そういうことになるであろう。

天使長であり、叔父である者が、娘をアダムである子女様から奪い去っていったのが、悲しい真の家庭の歴史である。

さらに、娘との結婚の絆を通して、婿養子のような立場に子女様を奪い去ろうとする。

 

朴先生は、娘を文家のしかも天空の王子の所に、あたかもかぐや姫を正しく送るように信仰を立て、娘も共に偉大な勝利をした。

朴先生は、主を賭す道を裁判闘争で歩まれた。

それゆえ、亨進様や国進様とともにお母様に命がけで進言できた。

善の天使長を蕩減復帰するのは朴先生を見本と仰がねばならないであろう。

 

勿論、顕進様も亨進様も、顕進グループや亨進グループを創っているなどとは微塵もお考えではないことであろう

むしろ、お二人とも孝行息子であられるので、神とお父様のためのグループであるとお考えであられることだろう。

 

だが、どんなに神のために歩もうとしても、堕落論の構図の中にいれば、神が働くことができない。イエス様は十字架による贖罪のために来たという構図の中にいれば、同様に神が導くことができない。

第一次目的は地上天国であるからである。

堕落の内容こそそっくりというわけではないが、

血統を中心に見てみると、

天使長が侵したパターンと

極めて酷似していることに気づく。

 

このような構図に御子女様が至らぬよう、

また、一時的にそのような状態にあっても元通りに戻れるよう支えるのが

我々信徒の責務である。

また、子女様と子女様が対立するような構図や、

子女様とお母様が対立するような構図の罠に陥ることなく、

極力注意しなければならないことであろう。

おとぎ話に出てくる王女様が魔女に魔法を賭けられたとしても、

読者は王女様を非難するだろうか?

むしろ王女様の魔法が解かれ、目覚められ、お幸せになられることを願うであろう

 

お父様が生きておられる時に

一時的に離れることがあっても

すぐに戻るべきであった。

頭を丸め、白装束を来て決死の覚悟で

顕進様を説得する群れがいたら

どんなにか頼もしかったことであろうか!

孝進様も、顕進様も、統一教会での危機の時に守ってくれる

人を得ることができなかった

子女様を守ると言って、父と子の間に溝を造り壁を築いて隔ててしまった。

そうする間に父は聖和されて行ってしまわれた。

独り身なら、間違いなくすぐに戻られたはずであった。

お父様が地上におられる時に戻ってこられれば

何の問題もなかった。

お父様を愛して侍られてずっと生きて行かれるおつもりだったからである。

 

お父様が色紙に書かれ、真の父母宣布文を出された。

お父様にそこまでさせてしまったことは、

誰の責任か?

我々信徒の責任である。

お母様にそこまでさせてしまったことは、

誰の責任か?

我々信徒の責任である。

 

モーセは民の不信仰を見て怒り

来るべきキリストの象徴たる岩を二度も打った。

カナンに行くことを神が許さなかった理由である。

中心人物とは、誠に我々全体のために苛酷な道を行かざるを得ない存在である。

そしてそのような方に侍り仕える道は誤ることが許されない。