原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

原理講論を読む 目次

 普通の本の目次と原理講論の目次を見ると、後者は非常に理路整然とした構成になっている。新興宗教の教祖の書かれた本と比べると違和感を感じることと思う。キリスト教系の言葉が出てくると思えば何処でも聞いたことがないような言葉も数々出てくる。代々クリスチャンという家系で聖書に親しみ信仰してこられた方でも困惑しないとは限らないだろう。

 

 日本人なら何か仏教の経典を思い浮かべてくださいと言われた時に、法華経などの名前が浮かんでくると思うが、キリスト教では旧約聖書新約聖書がこれに当たることと思う。これに対して原理講論は仏教の例えば菩提心論のような論書に当たるのではないかと思う。ヘンリー・シーセンの組織神学という本があるが、その本の目次や書いてある文章の体裁を見ると、原理講論というのは神学書なのだと腑に落ちる。

 

 原理講論の取っつきにくさはそういう点が理由の一つであろうし、推測するにこの本の説かれた内容の目的や対象ははなはだ高尚な者と言って間違いなかろう。つまり神様やイエス様が語られた御言葉、真理の核心を求めたキリスト教徒が信仰を全うするぎりぎりの狭間で、聖書に記載された内容に一見して矛盾があるように見えても、本質的には一貫性のある相互に関連した真意を明らかにして解決するためにまとめられた書物と見る方がわかりやすい。

 

 そう言うわけで我々のような凡人が読むには辛く取っつきにくいのだと考える。キリスト教のキの字も知らない類の我々がいきなり神学書を学ぶんだから、通常では考えられないアプローチで学んできたことになる。易々と理解できない方が普通で、簡単に理解できる方が異常なのだ。つまり日本人で言えば内村鑑三賀川豊彦のようなクリスチャンが先ずもって理解すべき類の本なのだ。

 

 さて、原理とは統一原理の事だが、何故そこに統一があるのか?それが問題だ。創造本然の世界は神の心情を中心とした統一世界、心情世界だ。そこで我々が何か物事を考える際の出発点には統一と言うことを最重要に意識しなければなるまい。言い換えると神の望まれる理想世界は統一が特徴で、神が望まれぬ堕落世界は分裂が特徴の世界となる。仏教では分別智を問題とするが、現代の言葉にすれば物事を分けて考える、比較分析すると言うことになろう。面白いところだ。見方によっては統一原理は、それぞれ学べば学ぶほどキリスト教と仏教は別物だという常識的な判断を覆し接近する可能性を秘めているように思う。いかがだろうか?

 

 イエス様の悟りと仏陀の悟り乃至仏教の悟りについては別の機会に語りたいと思う。