原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

ゴッホが描いた 「Sorrow」を思い出した。

www.youtube.com

 

あるとき内村鑑三に関する本を読んでいたら、小林秀雄のことが書かれていたので驚いた。

小林秀雄といえば我々が学生時代には難問の論説問題として時折引用されることがあり、批評家の中でも突出したイメージがあった。

なんというか突如現れたという感じだ。

ところがその本によれば小林は正宗白鳥の影響を受けたという。

さらにその正宗白鳥は内村の影響を受けているという。

ということは小林に至る批評家精神の流れは内村から始まるのだろうか?

すると、批評家というのは預言者的機能を持った人たちのことなのだろうか?

 

子供の頃に家には画家たちのちょっとした全集があった。

これの編集者が小林だった。

この中には例えばゴッホが「悲しみ」と題していた娼婦の裸の簡単なデッサンがあった。

身をうずくまり、まさに悲しみそのものであった。

小学生の自分にはその悲しみは、持て余すしかないほど大きいように思われた。

 

以下のブログから画像を引用する

私の知らなかったこの女性との経緯などもでていた。

http://xn--uck4a7d.jp/

 

f:id:divineprinciple:20160426140309p:plain

 

そして裸婦そのものよりもそれを見つめる眼差しのほうが、いっそう悲しみを抱いているのがわかった。それは頭で理解できたのではなく、子供ながら心で感じていた。

その眼差しの持ち主がゴッホであることは間違いなかったが、

高校時代にそれがゴッホを通して注がれる神の悲しみであることにも気づいた。

 

池田満寿夫が解説するゴッホの番組があり、ゴッホは神と人々の何かの役に立ちたいといつも心に抱いていた。

牧師として説教するにも、教師として人に教えるにも彼には適さず、自分に持ち合わせていたことは、ただ絵を描くだけだ。そこで第三の道が画家として生きることだったという。ミレーの「種まく人」のように、神の御言葉の種まく人になりたかったゴッホは、牧師を輩出する家系であったようだ。

 

 

:1)イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、

:2)(しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)

:3)ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

:4)しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。

:5)そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、

:6)そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。

:7)ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。

:8)弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。

:9)すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。

:10)イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。

:11)女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。

:12)あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。 :13)イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。

:14)しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。

:15)女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。

ヨハネによる福音書4章

 

人はみな幸せを求めている。

 

渇いた心を「いつまでも、かわくことがない」ほど潤わすことのできる水を求めて

だが、ゴッホにはまた別の渇きがあったのだ。

もっと本質的な魂の渇きが。

 

わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがる」

 

この水は自分を十分に潤すにはあまりにも多すぎて溢れ続けていた。

そこには得体のしれない新たな渇きがゴッホを襲う。

それは愛されることではなく、愛することに対しての果てしない渇きであった。

ゴッホの愛は人々には熱すぎて火傷を負わせるほどだった。

人はみな激しい烈火よりは心地よい陽だまりを望むことだろう。

だが、神よ、この心をどうしましょう?

ゴッホは祈ったに違いない。

 

主よ、わたしの渇きは癒えることができました。 

だが、主よ、

わたしの内に汲めども尽きず溢れゆく水は

いったいこれをどのようにいたしましょう?

その渇きが今もわたしを追い立てます。

どうか、どうか、

わたしにその道をお示し下さい!

 

アビラのテレサも別の意味において人々の悲しみを知っていた。

彼女は修道生活の果てに、ある霊的な体験をすることになる。

「魂の地獄」を体験する。神の愛の全く届かない絶叫の世界を。

神を知らずに霊界に行く人がどのような世界に行かざるをえないかを知った彼女は

全ての人を救おうと立ち上がり、その精神はマザーテレサに引き継がれていく。

 

「アバ父よ」とその訪れを感じてイエス様は言った。

エス様を心から慕う者には、イエス様に会う前には地獄が必要であったかのようだ。

信じるならば、父と共に行きる者には、神が与えてくださった賜物だった。

一緒に住むものとしての礼儀であった。

 

もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。

ヨハネによる福音書14章23節 

 

 


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