原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

堕落天使長主導の女性神の聖酒は堕落の毒杯! 「主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない」 パウロ

モーセ十戒で有名な聖書の記述では、まず初めがこんな風に始まっています。

 

:3)あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
:4)あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
:5)それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
:6)わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

出エジプト記20章

 

 

ヤーウェは父なる神ですが、一神教である父なる神でないものを神とするこは、偶像崇拝に当たりました。神と人との信仰の契約関係は、結婚という血縁関係でしばしば表現されました。

信仰の本質は、神と人の信仰関係の本質は血縁関係であり、それによってもたらされた血統を如何に聖別していくかということでした。

異教の神としてはエリアが戦ったバアル神がありますが、こちらは多神教でユーラシアのアシュタロテ神やウガリットのアナト神などの女神信仰と結びついたものです。

そのような女性神と姦淫をするならどうなるというのでしょうか?

 

:16)主はモーセに言われた、「あなたはまもなく眠って先祖たちと一緒になるであろう。そのときこの民はたちあがり、はいって行く地の異なる神々を慕って姦淫を行い、わたしを捨て、わたしが彼らと結んだ契約を破るであろう  
:17)その日には、わたしは彼らにむかって怒りを発し、彼らを捨て、わたしの顔を彼らに隠すゆえに、彼らは滅ぼしつくされ、多くの災と悩みが彼らに臨むであろう。そこでその日、彼らは言うであろう、『これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか』
:18)しかも彼らがほかの神々に帰して、もろもろの悪を行うゆえに、わたしはその日には必ずわたしの顔を隠すであろう。
申命記 31章

 

モーセもお父様も聖和される直前に、民たちの不信が蔓延していました。

聖和時も同じ事が起きていました。

それは唯一絶対の父なる神ではなく、お父様を切り捨てられて、直接神様と婚礼を挙げたお母様という唯一絶対の母なる神に、

権力者たちが跪き忠誠を誓ったとんでもない事態でした。

まさかそんなことがおこるはずはないと誰もが考えます。

信じられないような事件が起こったのでした。

 

エリアの時代には北イスラエル王国のアハブ王がフェニキアのシドン人王の娘イザベルを王妃に迎えました。イザベルの父王はバアル神の神官でもあり、娘のイザベルを通して異教が浸透し腐敗堕落の限りを尽くします。

エリアはこれを糾弾し、ついに双方がカルメル山上で決戦することになります。

雨乞い合戦をしました。

まず先に王妃のイザベルが招集した450人ものバアル神に仕える神官が、生け贄の動物を捧げ、バアルに雨を降らせてくださいと訴えます。

ところがうんともすんとも言いません。

そこで次にエリアが神のなを呼ばわるや否や、西の空に黒雲が湧き始め空を覆ったかと思うと雨がざーっと降り始めました。

日照りに苦しめられた日が嘘のように終わりを告げたのです。

敗北したバアルの神官たちは全て殺戮されます。

 

今日の独生女を巡る戦いもこのようなものです。

正統の信仰の中に異教の信仰が紛れ込み次第に浸透していって信徒をすっかり虜にしてしまうというのです。

モーセやエリアの時代に限ったことではありません。

パウロはコリント人への手紙の中でこのように語っています。

 

:1)兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、
:2)みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。
:3)また、みな同じ霊の食物を食べ
:4)みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。
:5)しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった
:6)これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。
:7)だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
:8)また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
:9)また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。
:10)また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
:11)これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである
:12)だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
:13)あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
:14)それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
:15)賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい
:16)わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。
:17)パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。
:18)肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。
:19)すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
:20)そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。
:21)主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。
:22)それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。

コリント人への手紙Ⅰ 10章

モーセに付き従った者たちも、バプテスマを受け

エス様に付き従った者たちも、聖杯の聖酒を飲み

お父様に付き従った者たちも、聖酒を飲みました。

ところが、我々の知らざるところで、堕落天使長による黒ミサに変質させられてしまったのでした。

お父様に復讐心を持たれたお母様は、天聖経も天一国国家も家庭盟誓も聖婚問答も改竄し、祝福リングの内側には「絶対権力」であると自ら宣言されたお母様の韓鶴子の刻印のみが施され、お父様の名前は見あたりません。

お母様が復讐しているお父様がつくった聖酒をそのまま使うことも、以上のことを思えば取り替えられているかもしれません。

 

家庭連合が目指しているのは、カトリックのマリア信仰のようなものなのでしょう。

ウィキペディアにはマリアの無原罪の御宿り(無原罪の懐胎)について以下のように説明があります。

 無原罪の御宿りの教義は、「マリアはイエスを宿した時に原罪が潔められた」という意味ではなく、「マリアはその存在の最初(母アンナの胎内に宿った時)から原罪を免れていた」とするものである。

 

エス様だけではなく、母マリアもそうだといいます。

さらにマリアが無原罪である為の下準備のようなものが

マリアの母ハンナ(アンナ)の無原罪の懐妊も外典には記されています。

山形孝夫氏の「聖母マリア 崇拝の謎」という本から引用してみましょう。

聖母マリア崇拝の謎---「見えない宗教」の人類学 (河出ブックス)

聖母マリア崇拝の謎---「見えない宗教」の人類学 (河出ブックス)

 

 

 正典福音書マタイとルカには書かれていない外典ヤコブ原書』だけが伝える秘密である。

 その秘密というのは、神殿に捧げ物をしに行った夫ヨアキムと妻のアンナが、子がないため呪われた血筋の者として捧げ物を拒否されたところから話は始まる。ヨアキムは、豊富な牧人として描かれている。悲しみのあまりヨアキムは荒野に赴いて断食し、アンナは家に戻って泣き暮らしていたのだが、ちょうど40日目に、天使があらわれ、エルサレムの金門の前で妻のアンナと会うように支持する。天使の命ずるままに、二人は会い、接吻を交わした。

ヤコブ原書』によれば、その時主の使いがあらわれ、アンナに告げる。「アンナよ、そなたの願いを主はお聞き届けになった。あなたは身ごもり、女の子を産むであろう」。その時から数えて7か月後に、アンナは懐妊し、マリアを産むのだ。

 この話のポイントは、肉の交わりによらないでアンナがマリアを懐胎したという一点にあり、ここから、アンナの無原罪の懐妊の伝承が生まれ、これが『ルカ福音書』のマリアの懐妊と結合し、聖母マリアを聖化する下敷きの役割を果たしている。

 

エス様の相対者が不在であれば、母マリアに後のエバとしての希望が託されてきたのです。「聖書の中のマリア」土屋博著によれば、

 

 処女にして母であるマリアは、教義の展開にともなって、やがて原罪との関係を問われることになる。マリアの神格化と永久処女性の強調は、当然、彼女が原罪を免れていたのではないかという議論へと展開しうる。しかし古代教会においては、必ずしもこの点についての意見の一致は見られず、議論が繰り返された。マリアの「無原罪懐胎」

(Conceptio immaculata)が教義として決定されたのは、周知のように1854年12月8日で、ピウス9世がこれを宣言したのである。古来マリアは常にエバと対比されており、無原罪懐胎説の成立にもこの考え方が陰に陽に影響を与えたのではないかと思われる。マリアとエバの関係については、殉教者ユスティヌスなどもふれているが、「処女マリアが処女エバの擁護者(advocata)となるように」というイレナエウスの記述が事態を最もよく表していると言えよう。つまりエバの罪を、同じ女性であるマリアが帳消しにするのである。

 

マリアの母ハンナとお母様の母、洪順愛大母様を比べると

エス様の相対者が不在なため、一世代ずれているが

不思議な類似点があります。

大母様はお母様が幼少のころから「おまえの父親は神様なのだ」と繰り返し言って聞かされました。まるで、大母様自体も無原罪懐胎のようにもとれる表現です。

お母様は聖母マリアのように、今ご自分が母の胎中から無原罪の独生女だと宣言されています。

 

バアルの神は、キリスト教の中に潜り込んで、ハンナ・マリア無原罪の教義を生みました。

成約時代の今日、統一教会に潜り込んで、大母様・お母様無原罪路線を行くのでしょうか?

フランスではアンヌ祭(ハンナ祭)が行われています。

清平でも毎年大母様を毎年祭ることになりました。

 

聖和されたお父様の旅立ちを全ての食口が送っているときに、

まさかの、天使長主導の女性神の祝福を受けて間違った聖酒を飲んでしまった我々でした。

 

父なる神のヤーウェと父なる神の実体のお父様を追放して

母なる神を立てて韓氏王朝こそが正統だとお母様は主張されたいのでしょう

 

では、ヨセフとマリアはどうだというのでしょうか?

ナザレとは枝の村のことです。

ダビデの若枝、すなわちダビデの子孫の村です。

二人ともメシアが誕生すると予言されたダビデの子孫です

予言の成就のためそのような二人が神によって立てられました。

エス様は予言があったユダやダビデの子孫ではなく、

レビ族の子孫のザカリアの種から生まれてきたのでした。

お父様の声が聞こえませんか?

「予言があった韓氏を誇るなというのです。」

エス様もお父様もそれを超えておられるというのです。

 

霊的に今こそ研ぎ澄まされて、我々はパウロの言葉を噛みしめるべきでしょう。

 

主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない

主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。

 

 アージュ