原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対基準と人格完成 2

栄西も宋に渡り、天童山で大蔵経を3度読んだという。

大正新脩大蔵経が17字詰め29行三段組で1000ページが100巻ということであるから、大変な分量である。

我々で言えば、文鮮明 恵父の御言葉選集に当たると言えるのかも知れない。

天に精誠を捧げた日本の高僧は大蔵経を学ばれることがあった。栄西は日本では大蔵経にお目にかかれず、先ずは仏教の総合大学とでも言うべき、比叡山延暦寺にて修行をするのであった。

栄西法然親鸞日蓮と同様に比叡山を降りることとなる。

各宗派の教えを学ぶのにこれほどの場所はないのであるが、当時の比叡山の姿に幻滅して、別の道を行くことになったのである。

これは学びの最高の場であるとされた、比叡山であれ、統一神学校であれ、鮮文大学であれ、STFであれ、そこに道を求めていく者が既に形成した真理に対する相対基準がより重要であることを示唆していると思える。

ただ単にそこに存在しているものを伝授されに行くというような態度では、到底高僧たちは誕生しなかったであろう。既に比叡山の誇る水準を凌駕する真理に相対する基準が彼らの内にはあったのである。勿論仏法を学ぶ者たちの腐敗堕落を目の当たりに見たことも事実であろう。だが、そんなことよりも、真理に対する飽くなき探求心が既に培われていたことこそが、彼らが高僧となり得た所以であると思われるのである。

栄西はその後,宋に渡って真の仏教に出会おうとするも、5ヶ月で日本の地に帰ってくることになる。宋には見るべきものがないとでもいう風である。しかしそこに留まるのではなく、再び宋に向かう、二度目は宋を通って天竺に至らんという決意であった。

ところがモンゴルとの紛争が続いていてまたも天竺に行けないことになるが、宋船で日本に帰るときに強風によって流され、それが縁となりやがて天童山万年寺で臨済宗黄竜派八世の虚庵懐敞に会うのである。

さて、神との相対基準というときに、我々は如何なる基準をもって神の前に立つべきであろうか?

栄西にしろ道元にしろ、自らの内にある基準を如何にして手に入れたというのであろうか?

神官であり仏教も学んだ父に、栄西が出家をしたいと告白したのが8歳であり、13にして比叡山に登り研鑽したいと語ったのである。

私が幾度か世界会長のお子様が、文鮮明 恵父とともに早朝の訓読を全うされていたことをに注目するのは、幼少時に不退転の志を抱くことの重要性を信じるからである。

道元は九歳にして倶舎論を読み、十三歳で出家を決意し、十四歳で比叡山延暦寺の天台僧となった。

幼少時に如何に志を立てることができるかが、後に人物となる要件であるように思われる。

また早期に「幼年期の終わり」を如何に迎えるかが、人生の要諦であろう。

神や仏と高い基準で相対するための準備は幼少期や中学くらいまででほぼ決まってしまうのではないかと思うくらいである。

絶対世界で神や仏に出会う、そういう道を高僧は歩まれ、文鮮明 恵父も相続させてあげたいと、我々に願っておられるのである。

神仏との相対基準というのは、神観や仏観につながっている。

私には空を論じる仏教に何故慈悲が両立するのか、永らく疑問が続いたが、悟りという空間的連体性や時間的連体性と共に心情的連体性があることに気づいて、統一原理の観点から謎が解けたように思えた。

別の表現をすれば空というのは形式であり、その内容が慈悲なのである。慈悲が空を貫いているのである。

栄西が如何なる仏観を抱き、それによって信仰を確立していたかは、道元正法眼蔵随聞記に書かれていることが知られている。高野澄氏の「栄西」の紹介が平易で分かりやすい。

 建仁寺に食物の蓄えがなくなり、みな絶食していたときのことです。一人の檀家が栄西を招待し、絹一疋(二反)をお布施に提供しました。よろこんだ栄西は、絹を自分の懐にいれてかえり、知事(役付)の僧に「明日の朝の粥の資にしなさい」といって渡しました。

 そのすぐあと、檀家から使いがきて、「緊急のことがおこり、先程の絹を返してもらえまいか」という。栄西は知事から絹を取りもどし、檀家の使者に渡しました。

 不審顔の僧たちに、栄西はこう答えたのです。

「返す必要はないと思うでしょう。しかし、私は反対のことを考えている。われわれは仏道を志して集まった者、一日の絶食で餓死してもかまうことはない。在俗の人が世間の交際のうえで困っている、その悩みを救ってあげられれば、われわれのためにも利益は勝るのです」

神や仏に献上されたものは、既に神仏の所有である。神様や仏様が召し上がられているものを、口をこじ開けてはき出させているような行為が、返還ということである。通常はあり得ない話である。

しかし、献身者(出家者)と一般信徒(在家者)が各自神や仏に相対している基準は、随分違っていて普通であろう。なるほどそういう判断も道に叶っていると思われ学ばされた。

問題は餓死寸前の際でもそのような心境に立てるのか、我々が道を求めてきた立志の内容如何に関わることであろう。 

 建仁寺は貧乏寺だったようです。

 一人の貧窮者が、「ここ数日の間、なにも食べておりませぬ。どうかお救いを」と駆け込んできたときにも食物はおろか、売って銭にする物もなかったのです。

 すると栄西は、薬師如来像をつくるために用意していた鋼材を貧者に与えてしまいました。

 僧侶たちは色をなして非難します。寺や僧に供養された資材を他に流用するのは重大な仏罰なのです。

 栄西は、こたえていいました。

「その通りである。だが仏の心を思えば、手足の肉をあたえて衆生に施すのが正しい。いま現に、飢えに苦しむ衆生がいる以上、全身の肉をあたえても仏意に叶うはずだ。自分は、たとえこのことで仏罰をうけ、地獄に落ちるとしても、やはり衆生を救う途をえらぶつもりである」

文鮮明 恵父は、万民を天国に導いた末に、自分が天国に最後に入場することを旨として語られ生きてこられた。そこで霊界に旅立たれても先ず行かれたところが地獄だという。善人であれ悪人であれ、太陽が陽を注ぐ如く、平等に変わりなく清浄無垢な心情を注がれ続けてくださるである。

かって「先生のために自分の腿の肉を売ってでも支えたいと思った女がいたよ」と語られたことがあった。文鮮明 恵師ですら「見事な女だ」と感心させられたお方であった。

人類を救済する上で無くてはならぬ女性であっても、我が子であっても、万民の救いを最優先する道においては、当然、情の近いものほど厳しく退け、霊肉ともに砕け散るような情況に愛する者たちを追いやっやらざるをえないという覚悟。イエス様当時3弟子や12弟子が、自分たちが主に代わって十字架の道を行くも、イエス様だけは、イエス様だけはサタンに一指だに触れはさせぬというような、御旨に対する忠誠の基盤を果たし得なかったことが神にとっての禍根の極みとなっていたからである。

母子に厳しくしかりつけ「あっちへ行け!」と排斥する主は、鋼材を人類に差し出したのではない。

子羊の婚礼と聖家族を差し出して、万民に道を示せずして我に子もなく家庭もなしの心情を貫かれたのである。天に死を超えた忠誠を誓う弟子の育成のためである。

このとき弟子の一人でも、先生のご心情を悟って、先生を離れ母子と共にあって加護する存在があってくれたならと思わざるを得ないところである。

そのような者はいなかった。

そこで「日本の情は忠孝の源」とおっしゃってくださった真意を我々は汲み取って、そのような数々の恨み多き主の路程に報いて参りたいのである。

聖徳太子を初め日本の高僧が天に捧げてこられた心情の系譜が確実にある。この心情を訪ね求めながら、成約時代の信仰に昇価して、天の認めうる心情の継承者として行くべき道を切り開くべき責任が我々にはある。遙かな道であることは十分承知ではあるが・・・

神の立場、神の心情は何処にありや?

この先に今回も進めなかった。何故であろうか?