原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

宋総会長と徳野会長が亨進様に糾弾された 見過ごし見捨てた罪をイエス様が語る!    

宋総会長のことはほとんど知らないが、お父様とノアの家庭での摂理的失敗を蕩減復帰する場に同参された方というイメージがある。

アダムとエバは堕落する前には、裸でいることを恥ずかしいとは思わなかったが、堕落以降は恥ずかしく思って下部を隠すようになってしまった。

絶対「性」の喪失である。

お父様は「親子の間に何の隠し事があろうか」

とおっしゃられた。

そこに同参された方は信仰を立てられたとその証を通して私は感謝していた。

だが 旧約時代のノアの時代の信仰を取り戻しただけではたして充分なのだろうか?

最近はそのように思うようになったのである。

お父様を中心になされた献祭だが、たとえるなら堕落性を脱ぐための蕩減条件にはなったのかも知れないが、天使を主管するための条件にまでは至っていないのではないかと考えてみた。

つまりお父様が願われる、絶対「性」の基準のことである。

私にはとても理解ができなかった。

何故宋総会長が主の訪れを逃してしまうのか。

ノアの家庭の問題は心情一体化の問題であった。

この心情一体化の根本は絶対「性」における心情一体化である。

原罪を背負って生まれてくる我々堕落人間が、その忌まわしい足かせから解放釈放しなければ、到底神願われる心情文化世界の幕開けはやっては来ない。

誰かが相続しなければならない。

だが 亨進様が突破されたのだった。

 

6月2日地区集会での宋龍天総会長の証 | familyforum

 

6月2日地区集会での宋龍天総会長の証

6月2日日曜日、第9地区の集会で宋総会長は約1時間半、み言葉を語られた。

ご自身も 『わたしは何故このような話までするのだろう?』 とつぶやかれるほど、熱のこもった話であった。

その中でひとつ、お父様に関する興味深い話があったので、ここでご紹介したい。

2009年、真のご父母様がヨーロッパを巡回された時の事である。フランスの東南部に位置するモナコ公国で地中海を背景にして下のような写真を数枚撮るように命じられたという。

モナコにて地中海を望む

モナコにて地中海を望む 7/19/2009

*写真の上でクリックすると拡大します

ご父母様の背景にある大型客船の船体にMSCの文字が見えるがこれは偶然に写ったのではなく、このMSCが入るようなアングルで撮影するようにお父様が敢えて指示なさったという事だ。

このMSCは本来、船会社名 Mediterranean  Shipping  Company (地中海船舶会社)のことを意味するものであるが、お父様は、この時この船を「ノアの箱舟」の位置に立てられて、随行した人々に 「私はピースカップを見るのが目的で(ヨーロッパに)来たんじゃないよ。これをするために来たんだよ。」と語られたという。

*注:2009ピースカップ大会が7月24日~8月3日の10日間
スペインのアンダルシア州各地と首都マドリードで行われた。

そしてこの船体のMSCは M(メシア)Messiah  SC (再臨主)Second-coming

            また  M(母)Mother S(息子)Son C(協力)Corporation

            また  M(月→母)Moon  S(太陽→父)Sun C(子供)Children  を象徴するものとして3層に規定された。

そして側近の人々に明かされることなく、ご父母様を含めて8人(ノアの家族と同数)がホテルの部屋に集まったところで、ある象徴的な役事をなされて

最後にノアとハムを完全復帰するための摂理であることを証された。当時ヨーロッパ大陸会長として随行された宋会長ご夫妻はこの一部始終をみられて、あらためて真のお母様の思慮深さに感銘を受けられたという。

*真のお母様のどういう所が思慮深いのか宋会長は具体的に語られましたが、ここでは具体的内容は省略しました。ご了承くださいますようお願いします。

 

文責Harikawa      

 

 

「側近には明かされることなく」遂行されたというのだから、そういう意味においても、この8人は選ばれた方々なのであろう。

また、側近には資格のある者がいなかったのかも知れない。

 

私たちはこの事例を通して、単にノアの家庭で奪われたものを蕩減復帰すればよいものと思ってきた。

だが 成約の時代のわれわれはそこにとどまってしまうことができないのであろう

ノアの基準ではなく、お父様の基準を見るべきである。

ノアの基準では宋総会長は勝利されたのであろう。

だが はたして主の求められた基準は何処にあったのだろう。

 

以前にこのブログで

宋総会長と徳野会長のことはさほど存じ上げているわけではないが、

どことなく人間的に感じられるのは何故だろうというようなことを書いた。

 

そんな私の疑問にある食口はこう語った。

 

「宋総会長はクリスチャンの信仰をもともとお持ちだったと思います。宋総会長はキリスト教の牧師であったなら、大変立派で尊敬される牧師様になられたことでしょう。ただ、統一教会のように色々なことが起こる組織に於いては、その時々に於いて、何かピンと来るような判断を次々にこなしていかなければならないと思います。そういう意味では未知数なところがあるかと思います。」

 

「なるほど、ところで大変失礼に聞こえるかも知れないが、私は宋総会長夫人のこともほとんど存じ上げないのだが、あえて印象を言わせて頂くと、社長夫人のように見えることがあるのだが、これは私の偏見や誤解というものだろうか?」

 

「あなたの言われる答えにはなりませんが、実は私はご夫人が話されるお話を聞いても、心に響くものがありませんでした。何を伝えたいと思われているのか、お話の趣旨が読みとれませんでした。」

 

いったいおまえは何様だと思われる方も多いことだろう。

 

ここで私が一番言いたいことは、絶対「性」における心情一体化を果たせたというのなら、亨進様があえて6マリアを持ち出して、お父様が勝利された絶対「性」を証されている姿にピンと来ないはずがないと思うからである。

ということはつまり、お父様と心情一体化されたが、不徹底であったと思われる。

頭でノア時のことを思い浮かべて「恥ずかしくない」基準を立てたのみであった。

「タマルがわかれば原理の全てがわかる」

「では、その心情は如何に?」

亨進様は本体論の核心を掴まれたのである。

宋総会長は勝利はされていたので、

悟後の精進を重ねられて、徹底されれば文句なく大勝利であった。

ただ恥ずかしくなかったというような消極的信仰では不十分なのだ。

我々信徒に対して積極的な信仰が求められている。

もしかしたら、こんな事態が起きなければ気づかなかったのかも知れない。

宋総会長が絶対「性」を亨進様のように理解していさえおれば

今日、日本信徒を全てお父様の権威の下に引き連れていくことができたはずである

お母様もお救いして差し上げる道が切り開けたはずである

神も大きくため息をつかれて残念がっていることだろう。

超越跳躍ができないのである

我々日本人の原研出身者は、若き日に主の訓練を受けてきた。

「超越跳躍は原研の魂」

この訓練が如何に恵に満ちたものであったか、今にしてさらに身に染みる思いがする。

お陰で、如何なる時に環境を超越して跳躍すべきか判る信仰の感性と感覚を頂くことができた。

偉大な主の訓練の賜物である。

 

お父様が絶対「性」を語られてきた以降に於いての、国家的指導者はこの絶対「性」を堂々と証しし、お父様の栄光を明らかのできなければならない。

私の学生時代の学舎では反対派が偽証する6マリアとは違うが、もし何らかの彼らが指すことがあるならば、三日行事を示されている主が原理的な根拠もなくなされるはずはなく、摂理的な背景が必ずあるはずだと確信し合っていた。

 

何故 お父様によって立てられた、我らの救い主である亨進様を受け入れることが、宋総会長と徳野会長にはできないのか、それは絶対「性」の基準を未だ受け入れていないからであろう。

 

そんな風なので、本来功労多きお方たちなので、最も早く天がお知らせに来られたはずではあるのに、未だ闇の中を彷徨っておられるのである。

何という悲劇であろうか?

神は よりによって

「宋総会長、おまえもか?」

シーザーよろしく嘆かれておられるのである。

 

お二人はそれゆえ、亨進様に解任されて当然だったのである。

全ての日本人食口お父様から引き離し、地獄に堕とし続け、一向に悟らないからである

クリスチャンはヤコブが理解できない。

 

三代王権・真の御父様に帰ろう!참아버님 문형진님 문신준님 !: 9月20日説教 文亨進師 「バビロンの炎上」 【英語説教日本語訳】

から一部引用する。

私が重視したナイジェリアの証がもう少し詳しく語られてきている。

 

ナイジェリアでの話です。5時の訓読会の直前、5分前頃のことです。部屋中の物をお父様が動かしておられるのです。部屋の中はパニック状態でした。そこにお母様鄭元周(補佐官)もいて、「お父様がおかしくなった!」と言いました、お父様は「気が狂った」と。お父様はベッドに座って「あれをこっちに動かしなさい」「これをあっちに置きなさい」と忙しく指示されておられたのです。私も「はいお父様、わかりました。こちらですね」と言いながら対処していました。「そうだ、そうだ。いやあれはこちらに」という風でした。その後、お父様は「よし、訓読会に行こう」と言われ、訓読会で祈祷、宣布などこなされました。その夜のことです。韓オモニが幹部を集めて、正確に誰を呼んだのかは知りません。しかしユ氏がいたことは確かです。なぜならユ氏はその後私の部屋にやって来たからです。彼は私に「朝の出来事をどう思いますか」と尋ねました。
「もしあなたが宗教学者で土俗宗教の研究でアフリカの村を訪れたとしたら、村の長老に、たとえ彼が死んだ亀の甲羅やビーズ、木の実をいじりまわしていたとしても敬意を払うでしょう。」と私は答えました。彼は「私は文化の違いには思慮深く対応します」と答えていました。
ところが自分の目の前で朝の様なことが起こった時、この世の宗教学者ほどの思慮深さを持てないのかというのです。世俗的宗教学者ですらおかしなふるまいをする村の長老に対して色々な視点から分析するではないですか。それも出来ずに「ああ、気が狂った」とは。
土俗の村の長老にすら払う敬意をメシアには払えないということはあまりにも悲しいことです。その悲しみを味わいました。あまりに痛々しかったのです。ユ氏に言いました「もしあなたがお父様をメシアと信じるのなら、おかしな行いも何か意味と目的があると考えるべきではないですか」。「地上における神様の実体だと信じるのなら、目的ある行動だと見るべきではありませんか」。
今ではその意味が分かっています。お父様は私達の信仰を試しておられたのです。1980年代から幹部の一部はお父様がおかしいとささやくことがありました。お父様はまだ60代70代のときからです。最終的にはお母様もそう信じるようになりました。
「お父様のいうことはきかず、私(お母様)の言うことを聞けというのはルーシェルより怖ろしい」これはサタンよりもサタン的だということです。
「私は一人ぼっちだ。息子の(も?)娘もいない。お母様は自分の好きなようにする。」

 

はじめて亨進様がナイジェリアの訓読会の直前になされた、一見お父様の奇行と見られる行動のお話をされた時には、「ああ、お父様は天の父に絶対信仰の基準を捧げられたように、神と一体化されたお父様にたいしてお母様が絶対基準で一体化されているか、確認をされていたのだろう」と、すぐに思ったのである。

だが、今回もう少し前後の様子を語られた以上の内容によって、

そうではなく、むしろ

お父様はお母様を愛するがゆえに、「お母様がお父様と一体の位置を死守できるよう、お母様にややでも問題があれば蕩減条件を立てさせてあげなければ!」と深刻なご心情であられたのであると感じた。

そうしてかろうじて一体化を護ってこられてきたのである。

このようなことが長年に渡ってなされてきたが、このお気持ちをお母様にわかりやすく翻訳して伝える者が現れなかったのは、あまりにも哀しい。

この奇行や厳愛の見えざる背景を心情を理解する者はなかった。

側近たちの基準の低さは目を見張るばかりである。

 

あっちにやれ、こっちにやれとはてしなく支持されるお父様に対して亨進様は見事であった。さすが真の後継者である。

 

私も「はいお父様、わかりました。こちらですね」と言いながら対処していました。「そうだ、そうだ。いやあれはこちらに」という風でした。

 

これで良し、蕩減条件は成立したとみるや

 

お父様は「よし、訓読会に行こう」と言われ、訓読会で祈祷、宣布などこなされました。

 

宣布をされたというから、真の父母として一体化したある基準に於いて

宣布しなければならなかったことであろう。

 

どなたかこの時の、宣布文を知らないだろうか?

 

そこにも何かが読みとれると思う。

 

あたかもエリアが洗礼ヨハネとして人々の前に現れたように

メシアである聖和されたお父様は、既に亨進様のお姿で帰ってこられている。

だが それに気づく忠実な家令は何処にいるのだろうか?

日本人食口の永遠の命を握る者たちよ!

イエス様はこのように語られている。

 

:42)そこで主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。

:43)主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。

:44)よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう

:45)しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば

:46)その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。

:47)主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。

:48)しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。

ルカによる福音書12章42~48節

 

私はすねに傷があるどころか、複雑骨折をしている者である。

だが そんな愚かな者をしても 

石が叫び出すように仕向けざるを得ない

神の事情と心情がある。

 

:1)さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、

:2)ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。

:3)ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。

:4)彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた

:5)そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである

:6)さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。

:7)サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。

:8)サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。

:9)彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。

使徒行伝9章1~9節

 

 

亨進様を迫害するお二人が

ダマスコの奇跡を体験することを必要とせず

成約の聖徒として

パウロの回心に見習い

パウロ以上の働きをなされることを

神と真の父と共に祈って止まない!

復帰摂理の逆転の王者とならんことを!

アージュ