先生のためなら、自分の腿の肉を売る女だと言われたのが聖進様のお母様でした。
見事な女性でした。
家事は完璧にやってのけます。
お父様が見ても感嘆するほどです。
お父様に通じる、何か似ている面のある方だったのでしょう。
若い頃に
一体,
自分の腿を切り落として売ってでも支えたい心情
というのは,
いかなるものだろうかと空想しましたが
一向にイメージが湧いてきませんでした。
ただただそのような心境があるのだという事実に敬服するばかりでした。
主の路程を学ぶごとに、ただただ憧れる心情でした。
それから数十年どれほど思い出しては尋ねてきたことでしょう。
起きていながら譫言に出るほど悩まされました。
そういう心情世界が確かにあるということだけで、
眼前に巨大な直立した岩山が立ちはだかるようでもあり、
あるいは、やはり眼下に底なしのように深い絶壁に立つようでもありました。
神は私に問いかけられました。
「お前にその心情のあるや否や?」
「神様、未だ知ることができない心です。」
神は私に語られました。
「それは情けないことだね。」
そこで恥ずかしい思いを打ち明けました。
「それでも、その方のそのような心情の傍らに私は立っていたいのです。」
お父様を思う心は果てしないほどのものでしたが、そのお方は余りにもご自分のものとしてお父様を見たということでした。
残念ですが、公的な人類の母として腿の肉を売るのだという思いまでには至らなかったといいます。
もっとも、お父様がみ言葉を語って差し上げることができた立場ならそんなことはなかったでしょうに。
かってブログに雪舟の「恵可断臂図」についてひかえめに書いたことがありました。
雪舟の「恵可断臂図」に見る 雪舟と恵可の信仰における相対基準 - 原理講論を読む
本当のところを言えば、高々自分の悟り、自分の救いのために切り落とした腕など、
なんだというのでしょうか?
寒山に学ぶ僧たちには、そのように思う方も多いでしょう。
大乗への信心を起こさせる書である「大乗起信論」の冒頭にはこのように書かれています。
高崎直道による現代語訳を示します。
⑴ 十方のかぎるを尽くす、すべての、最勝のわざをなす〔仏たち〕ー 遍く〔世間を〕知り、無碍自在な身体をもち、大慈悲をもって世を救護するかたがたと、
⑵ その〔仏たちの〕身体の本性をなし、海のごとき、量り知れない徳性の宝庫たる法のありのままのすがたと、〔その徳性の完成に向けて〕如実に修行するかたがたとに、帰命する。
⑶ 〔この論典を述作するのは、ひとえに〕世の人びとが〔仏の教えに対する〕疑念をはらい、誤った執着を捨て大乗への正しい信心を起こして、仏教の伝統を絶やさないように努めることを望むからである。
続いてこの本の述作の動機について八点が述べられています。
まず第一に、ー これは仏典述作の一般的な動機であるが ー 人びとがあらゆる苦悩から解放され、究極の安楽(すなわち涅槃)を得られるようにするためである。決して〔著者自身が〕世間的な名声や尊敬をうけるためではない。
第二に。如来の教えの根本義を解説して、人びとが正しく理解して過たないようにさせたいと念願するからである。
第三に、すでに修行を積んで善根が成就した者たちに対しては、彼らが大乗の教えを身につけて、不退転の信心が得られるようにするためである。
第四に、まだ修行が未熟で善根を積むこと少ない者たちに対しては、かれらが信心を起こし、〔それを完成すべく〕修行するようにしむけるためである。
第五に、〔右の第四の目的を果たすために、まず〕準備的な修行法(方便)を示して、〔人びとが〕悪業の障りを消し、善くその心を護って、無知と高慢を離れ、邪見の網から脱け出せるようにしむけるためである。
第六に、〔すすんで大乗修行の正道としての〕止観の修行法を提示して、〔大乗の修行者たちが、無信心な〕凡夫たちや、〔利他の実践につとめない)二種の実践道(二乗)の修行者たちの心の欠陥を克服するためである。
第七に、〔右のような準備行や止観の実践に堪えられないと思う心弱き人びとに対して)心にひたすら〔阿弥陀仏を〕念ずるという方法を示し、そうすれば、その仏国土に往生して、必ず不退転の信心を得ることができる〔と教える〕ためである。
第八に、〔この教えから生ずる〕利益を示し、修行を勧めるためである。
以上のような諸点を目的として、この論典は述作された。
自利(自分の悟り)と利他(人びとの悟り)が一体不可分だというのです。
清々しい表明です。
さて、「腿の肉を売ってでも尽くしたい心情」ですが、
もし、そのような心を訪ね求めてありありと
腿の肉や腕を切り落として捧げる現実感あふれるイメージを繰り返し繰り返し週十回、数百回と重ねて来た後に、いつでも突然、天の声が「奉げよ」とあっても躊躇することなく静かに速やかにできる準備ができているなら、その心情は胸に宿っているといえるのかもしれません。
神とキリストの知られざるところで
神も主にも知られぬ遠いところで
誰よりも熱く御心を思う
朝まだき高山の寺に霧は立ちこめ
昇る陽は壁下に霧を追いやり
雲海は下界の町並みを遮っている
悪人逆賊と罵られ故郷に帰る道も断たれて久しい
今は乞食も寄り付かぬ見すぼらしい姿で野に朽ちようとしている
潤國先生が密かに埋めた心情は腕一本であっただろうか?
神も父にも知られぬ遠いところで
誰よりも熱く御心を思う
夜深き秋山の寺に鈴虫は鳴き
満る月は下界の町並みに光を注いでいる
この身の無力さに愛想を尽かして海を渡る
幼い子供たちを残し南北統一に奔走する果てに天を仰ぐ
道半ばで命を絶えていくこの身をお許しください
心一女が密かに埋めた心情は腿の肉一片であっただろうか?
何も知らぬ天地よ!
せめて彼らの傍らに僅かな花を咲かせてはくれないか!
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