原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 統一思考 イエス様の葡萄園の労働者の譬え と タラントの譬えを巡って①

ここで言う統一思考とは、堕落世界では分離・分裂した事象が互いに衝突し或いは闘争する様相を示す場合が見受けられる。こうした対極の位置にあるものをそこに置かれた現実から解決しようと言うのではなく、むしろ本然の神の世界の円和統一された、一体一如の有様から事象の両極性を見てとるという、二つで一つ、もともと一つのものが仮に二つに見えているという視点から始まる思考のことである。

神の如き円和統一の智慧をイエス・キリスト仏陀は体得されておられた。私は前者の智慧を統一智と呼び仏陀の無分別智と並べてみたいと思うのである。

ところで我々凡人は無意識にそのような智慧を駆使できるほど立派な存在には至っていない。本来であれば体得している者のみが語る資格がある内容である。それをあえて我々のような凡人でも推測でき、ある程度応用が利きそうな次元で考えていきたいと思うのである。

随分以前に羊飼いが100匹の羊のうち迷った1匹の羊を、他の羊たちを置き去りにして探しに行く、イエス様が語られた譬え話を書いた。

これは迷った1匹を残りの99匹と同じほど大切にしたと言うような意味と捉えて神の愛の大きさを表現していると考えるのではなく、神の愛やイエス様の愛の性質が丸ごとであるということに関心を注ぐべきであると思う。

神様の愛の世界では数であるとか量であるとかは問題ではなく、現象世界である我々の肉身生活においてとりあえず必要な概念であると考えた方が良いであろう。

羊100匹をまるごとで見るのである。したがって1匹であれ5匹であれ分けて考えることができないのが、神の愛の世界なのである。

これは罪に関しても同じである。

姦淫の罪を犯した女を非難する者に、「罪無き者から石を投げなさい」と言うのも「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」というのも、罪を犯した回数や程度を人間は問題にしがちであるが、もともと神の創造理想世界では罪のかけらも存在しない世界であって、完全な真美善の表現された世界であり、個人もまるごと正しく人々もまるごと正しい世界のはずであった。

すなわち完全な善の様相以外は多かれ少なかれ罪があればそれは神とは全く関係のない世界である。そこで現実の罪深い人間の姿には一切相対せず、ひとの未だ現されていない創造本然の姿に相対して神は人間と共にあるのである。

イエス様が語られた「葡萄園の労働者の譬え」では、天国とは葡萄園の主人のようなものだという。

その主人は夜明けと共に葡萄園で働く者を探しに行き、労働者と1日1デナリの報酬を約束し葡萄園に送った。その後9時にもぶらぶらしている人を見つけて、相当な賃金を払うことを約束し葡萄園に誘った。その後12時にも3時にも同様に行った。さらには5時に出かけていくとまだうろうろしている者がいた。誰も雇ってくれないと言うその者たちも葡萄園で働くよう誘った。夕方になって主人は葡萄園の管理人に、最後に雇った者から最初に雇った者に向かって順に賃金を払うように言われた。5時から少しだけ働いた者にも1デナリ支払われたのを見て、より長い時間働いた者はもっと貰えるだろうと目論んでいたが、結果は同じ1デナリであった。朝から夕方まで1日中労苦と暑さを辛抱して働いたのに同じ報酬なのは不公平だと訴えた。すると主人はなにも不正はしていない、あなた方とは1日1デナリの約束を果たしている。他の者にも同様にしてあげたいのだ。自分の者を自分の好きなようにするのは当たり前だと思うが、それとも私が気前よくしているので妬ましく思うのかと言われた。

基本的にはこの話の登場人物などは信仰的には以下のように読みとられている事と考える。

葡萄園の主人:神

管理人:キリスト

労働者:罪人

葡萄園:天国

報酬:祝福や恩賜

堕落性誘発の動機:愛の減少感

さて、神の愛というものはまるごとひとつのものである。分割することも程度を調整することもできない全体である。これを1デナリは表しているのである。

仏教において無分別智が説かれているように、イエス様の御言葉を理解するためには、同様に一つの全体としてみる、すっかりまるごととして見る、統一智とでも言うべき智慧を基礎に置いて理解しなければならないと私は考えている。ここに学べば学ぶほどその違いが顕著になると言われるキリスト教と仏教の邂逅の道があるのである。両方を学ばれたキリスト教徒や仏教徒にこの点を指摘する者が皆無なことは実に嘆かわしいことと言わざるを得ない。

神の世界では部分と全体は完全に円和統一されているのである。そこで1匹の迷える子羊を見て、その1匹から全体を見ているのである。また一人の労働者を見て全体の労働者を見ているのである。

統一教会の草創期は1日1杯の素うどんのみを食べて伝道に勤しんでいるような時代であったが、ある時、文 恵師がたまにはみんなにお腹いっぱい食べさせてあげたいと考え、食事に行くことになったという。ところがその途中に見るからに気の毒な乞食と行き交い、文 恵師は有り金残らずその人にあげてしまわれたという。唖然とする信徒に向かって「みんなすまないね。先生は全ての恵まれない乞食の代表としてこの者を愛してあげたかったので、許してほしい。」とおっしゃられたそうである。文 恵師もまた、イエス様の如く一人を全体と見、全体を一人と見て愛されてこられたのである。文 恵師の生涯、すなわち主の路程を知る者にとっては誰でも知っていることであろう。また見過ごして過ぎ去ることができないのが神の心情の世界である。

葡萄園の譬えの中にも主人が職の見つからないぶらぶらしている労働者を見過ごすことができないでいる様子が描かれている。天国とは心情のことなのである。

私は「葡萄園:天国」としたが、厳密には聖書には「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけていくような者である。」(マタイ20章第1節)とある。

つまり天国とは葡萄園の主人の心情と行為にあるのである。イエス様はある住むべき場所を指して天国とは言わなかったのである。不思議な表現である。天国とは上記のような主人のようなものだと言ったのである。

そこで「天国はまさにあなた方のただ中にある。」と言われたのである。天国とは何処か特別な優遇された場所や環境であるというのは、単に現象的な表現であり、本質的にはその環境を表出する本人の抑えがたい心情とそれに基づく行為そのものにあると言えよう。そこで我々の外にあるのではなく、我々の内にあるのだとイエス様はおっしゃられたのである。

文鮮明 恵父が晩年天国という表現を使わず、何故天一国と言うようになったのであろうか?天国には部分と全体の境界が無いのである。天国はまるごと一つの世界である。この連体性をもって相互に関係している有様を、私は有機連体性とよんで、唯物共産主義の説く相互関連性と区別している。

有機というのは神の愛に基づく創造目的を頂点とする合目的性をあらゆる存在は備えており、連体性とは存在物や世界が階層構造を持ちながら、部分と全体が区別が付かないほど一体化している様相を指している言葉である。その有様のことを私は円和統一性と呼んでいる。

天一国はひとつにそのような内容を持った言葉であると言えよう。

さて葡萄園の労働者の譬えにおいて、神(主人)という全体を象徴する方が人(労働者)という個を象徴する存在に驚くべき恩恵をもたらす、全体→個 という奉仕性と奉献性という観点で読み解くと意義深いものがある。

これと比してタラントの譬えでは、個→全体 という奉仕性と奉献性という視点で読み解くと、有機連体性をもった存在世界の実相により迫ることができると考えている。

次回はその辺を国立大学の改革を巡って考えてみたい。

話を労働に戻していこう。

政府による派遣法の改正案では、派遣先での勤務の上限である3年をもって、3つの選択肢を提示している。

1,派遣先で直接雇用する

2,派遣元の会社で無期雇用する

3,他の派遣先を提供する

しかしながら大方の意見では1や2を選択する企業はほとんど無く、ほとんどが3に落ち着くだろうというものである。

派遣社員の立場でその希望や利益を企業が考慮すれば確かに1や2が選ばれるであろうが、企業は企業の立場でその希望や利益を求めてベストの選択をすることは誰が考えても予想できることである。利潤を追求するのが企業というものであり、そのためには利幅を上げるか、購買数量を上げるか、固定費を下げるかしかないのであるから、固定費の内の人件費の削減が常套手段であり続けるのである。

正規社員と非正規社員を分けるボーダーライン上で問題になるのは、見える給料にボーナスがつくか否か(ご祝儀ボーナスは除く)であり、見えない給料としての厚生年金や社会保険の有り無しである。

安倍総理は非正規から正規にキャリアアップしていくための支援を惜しまないと言われている。しかし現実には工場に置いても流通業の小売店に置いても、ホワイトカラーの仕事に派遣された方も、ほぼ正規社員に期待される仕事をこなしているのであり、正規社員にできることが十分にできないというものではないのである。日本に置いては同一労働同一条件の原則が、派遣法によってかえって崩壊され、機能不全を維持する結果となっているのである。

中学生の頃見たチャップリンのモダンタイムズという映画には、初期資本主義社会に置いて人間が機械の部品のように交換可能な部品として描かれ、ひどいもんだと笑った記憶がある。よもや21世紀の日本がモダンタイムズの終着点であるとは想像だにしなかったが・・・

非正規から正規にという方針を捨てるべきである。企業から見れば平等にコストをかけさせるように、労働者の福利厚生、社会保障の平等からアプローチすべきである。

ある時間以上働く労働者に社会保険をかけなければならないと定めれば、それ以下の時間ぎりぎりで企業は働かすものである。したがって働くもの全てに義務づけて皮算用を防止すべきである。もしこうなれば不当な理由で時間が短くされることはなく合理的に決められるであろう。ただ堕落世界ではいきなりは難しいので、段階的にまずはクレームをつけた葡萄園の労働者の考え並みに、労働時間に応じて厚生年金や社会保険が適用されることが望ましいのではないであろうか?

ボーナスと比べるとこちらの方は政府がよい方向に誘導しやすいのは明らかである。

派遣から正社員にではなく、同一の社会保障から整えて行くことが望ましいのではないだろうか?

実は不当に安い賃金によって安価な商品やサービスを国民は享受してきたのである。影の立役者である非正規雇用の人々に今度は還元される時が来たのである。

古来より日本には、「受けた恩は忘れず、施した恩は売らず。」という美徳がある。忘れるべからず.