水島氏もこの動画での発言のように、野党ばかりか自民党や政権内部に存在する公明党の問題点を指摘し、ついに保守政党を立ち上げることにしたようです。
小池新党が国政選挙にてボロ負けしすぎて、一部保守系の国民が期待していた、保守系政党の政策連携の夢は崩壊してしまいました。
みんなの党や維新に期待していたものを担ってくれないかと言うものでしたが、
人材やブレーンがあまりにも乏しかったこともあって、小池氏は都政に専念することになったようです。
公明党は「宗教はアヘンである」という共産主義が理解できず、中共が法輪功やイスラム教徒を虐殺することに目をつぶり続けている。
それどころか、彼らは自民党にできないことを我々がして中共との友好関係に貢献していると考えている。かって学会員はそうわたしに語っていた。
アジアをとりまく環境は、世界大戦当時のように韓半島を中心に動いているかに見える。
韓国の善良な国民と日本の和を重んじる国民の共生は、文在寅従北傀儡政権によって、
両国の友好関係を分断する工作に徹するようになった。
思いつくままに隣の国の様子を上げてみようか。
1,韓国では現在文在寅政権 によって共産革命、主体思想革命が進行している。
2,文在寅は、メディア、軍部を含めた行政と立法、司法を私物化した独裁政権を樹立する。
軍部を掌握したのでクーデターは不可能な状態である。
ヒトラーがデモクラシーの暴民を利用して政権をとり、権力を奪取してからは法改正によって独裁国家を築いたことに似てる。
3,抗日運動で始まった韓半島の共産主義運動は、韓半島の赤化統一は通過点であり、
日本の侵略と資源をもくろんでいると思われる。
4,既に朴槿恵政権時には、左翼によって議会承認なしには戒厳令をだすことができなくなり、最後の切り札も残されていなかった。朴槿恵は売国奴の罠にハマってしまった。
5,共産革命に無くてはならない「血の粛清」を文在寅は「積弊清算」と表現する。
朴槿恵時代の最高裁長官は6年間その職にあったが、朴槿恵の有罪を引き伸ばした罪で捕まった。
第三次世界大戦のトリガーになってきている。
少し考えただけでも、韓半島で南北統一共産革命がほぼ完成した事がわかる。
もはや、自由主義陣営の友国ではすっかりなくなったのである。
レーザー照射事件は、この事実を両国の国民がはっきり知る機会を与えてくれた。
日本と韓国の国民の共通の敵が、文在寅である。
反逆者、売国奴、国民を奴隷にする暴君である。
5つの権力の角を持った怪物である文在寅を両国国民は
法の裁きに受けさせなければならない。
レーザー照射事件に関しては、以下の記事によくまとめられている。
韓国駆逐艦はどこにいた…謎が深まる中、米U-2S高高度偵察機が日本飛来 - FNN.jpプライムオンライン
ありとあらゆる角度から多くの方々が韓国サイドの主張の矛盾と捏造を暴いてくださってきた。
丸腰の飛行機が万一低空で飛行してきてビビるほどの軍艦なら、
広開土太王などと名前をつけないほうが良いだろう。
彼が陸の王者なら、パットンのように戦車にでもつけるのが普通だと思われる。
中共と仲良くやっていけると思っていた香港もいまや大変な状態であると言う。
以下の動画をご覧くだされ。
香港に新たな海外移住ラッシュが到来か【禁聞】
2019/01/18 に公開
アジア情勢の中、日本は万国対峙の中で生き抜くために祖先が何をしてきたのか、
今一度教訓として学び直さなければならないだろう。
はじめて「国家」と出会った日本
歴史を振り返ってみると、日本という国が大きな変化を遂げているのは、外国からの脅威があったときである。この150年ぐらいの間でいえば、1853年のペリーの来航にはじまる開国がそれだ。それまで各藩主がそれぞれの領地を治めていたのが、この時代から、ひとつの国家としての国防を考えなければならなくなったのである。
じつはこのときの日本の独立は非常に危うかった。当時の知識人の危機感の背景にあったのは、阿片戦争である。1842年の第一次、1860年の第二次阿片戦争の配線によって、中国が賠償金支払いを課されたうえに香港を割譲させられていかからである。
日本もそうなるのではないか、と恐ていた人々のなかでも開明的な人々 ー 佐久間象山をはじめ、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬らは、海防の大切さをいちはやく指摘した。
じっさい、日本が中国のように領土を割譲させられなかったのは、運がよかったというしかない。1858年、日本は日米修好通商条約を締結したあと、イギリス、ロシア、オランダ、フランスと同様の条約を結ぶことになるが、これれはひどい内容であった。来日する外国人はすべて治外法権に等しい特権をもつのにたいして、日本には関税自主権もなかった。また各国にたいして最恵国待遇を与えるいっぽうで、日本は最恵国待遇を与えられない、というじつに不平等な条約であった。
明治の日本人は、この不平等条約を改正するのに大変苦労をした。ようやく改正が叶ったのは、1894年(明治27年)に日米通商航海条約を結んだときだったが、それでもまだ対等とはいえなかった。日本が関税自主権を回復してアメリカと本当に対等になったのは、日露戦争に勝利したあとの1911年(明治44年)のことである。
明治以降の日本は、西欧列強がアフリカやアジアの植民地分割をはじめているなかにあって、統治するほうに回るのか、統治されるほうになるのか、という二者択一を迫られていた。自由と民主主義を標榜するアメリカですら、フィリピン、ハワイへの進出をはじめようとしていた。明治の国民は、なんとか独立を守らなければ、列強の植民地になってしまうという危機感を共有していたのである。
我が国は極東の共産革命の嵐の中で、いかにして独立国として存在するかが問われている。
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