昔のリーダーは何故かくも凛々しいのであろうか?
豊穣な物質文明を享受して育った戦後の日本人は、かっての日本人の腰骨であった儒教の精神を軽んじて西洋に技術や思想を求めて来たが、一体どれほどの人物が育ってきたことだろうか?
西洋から学ぶことは至極結構なことではあるが、彼らの腰骨であるキリスト教精神は日本に根づくことはなかった。
日本は従来の腰骨を捨て去ったにも関わらず、代替を持つことなく、形状的な文明の輸入に明け暮れ我を失ったかのようである。
昭和天皇には日本の民主主義が単なる西欧の借り物ではなく、明治天皇の五箇条の御誓文に基礎を置く日本独自のものであるという自負があった。
市丸海軍少将の言葉の背景を者がったていると思われるのが戦後の昭和天皇のこの言葉である。
新日本建設に関する詔書
ここに新年を迎う。顧みれば明治天皇明治の初国是として五箇条の御誓文を下したまえり。いわく、
* 一、広く会議を興し万機公論に決すべし
* 一、上下心を一にしてさかんに経綸を行うべし
* 一、官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ人心をしてあぐまざらしめんことを要す
* 一、旧来の陋習を破り天地の公道にもとづくべし
* 一、知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし
叡旨公明正大、また何をか加えん。朕はここに誓を新にして国運を開かんと欲す。すべからくこの御趣旨にのっとり、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民拳げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生の向上を図り、新日本を建設すべし。
大小都市のこうむりたる戦禍、罹災者の難苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は真に心を痛ましむるものあり。しかりといえども、我国民が現在の試煉に直面し、かつ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束を全うせば、独り我国のみならず全人類のために、輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。
夫れ家を愛する心と国を愛する心とは我国において特に熱烈なるを見る。今や実にこの心を拡充し、人類愛の完成に向い、献身的努力を効すべきのときなり。
おもうに長きにわたれる戦争の敗北に終りたる結果、我国民はややもすれば焦躁に流れ、失意の淵に沈淪せんとするの傾きあり。詭激の風漸く長じて道義の念すこぶる衰え、ために思想混乱の兆あるはまことに深憂に堪えず。
しかれども朕はなんじら国民と共にあり、常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。朕となんじら国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説とによりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神(あきつみかみ)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念にもとづくものにもあらず。 朕の政府は国民の試煉と苦難とを緩和せんがため、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は我国民が時難に決起し、当面の困苦克服のために、また産業および文運振興のために勇往せんことを希念す。我国民がその公民生活において団結し、相倚り相たすけ、寛容相許すの気風を作興するにおいては、能く我至高の伝統に恥ぢざる真価を発揮するに至らん。かくの如きは実に我国民が人類の福祉と向上とのため、絶大なる貢献をなすゆえんなるを疑わざるなり。
一年の計は年頭にあり、朕は朕の信頼する国民が朕とその心を一にして、自ら奮い自ら励まし、もってこの大業を成就せんことをこいねがう。
御名御璽
昭和二十一年一月一日
「朕となんじら国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説とによりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神(あきつみかみ)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念にもとづくものにもあらず。」
この文章は、神として君臨していた天皇がそれを放棄し人間となった証拠として引用される箇所であるが、この時点でそのような変化が天皇にあったと言うものではない。
もともとジョージ五世を尊敬していた天皇は絶対君主ではなく、制限君主、立憲君主を理想として胸に抱かれていた。
「神」をゴッドと同値とするのは本来無理がある。
山本七平は「昭和天皇の研究」で昭和12年の「文部省通達」を紹介している。
天皇を表す現御神とはご先祖様の意向が顕れたカミ、すなわち御上のことであった。
もとより絶対者の意味を持ち合わせてはいないのである。
まあ、そのように使って天皇を利用したものはいたのであろう。
・・・天皇は、皇祖皇宗の御心のままに我が国を統治したまう現御神であらせらる。この現御神(明神あきつかみ)、あるいは現人神(あらひとがみ)と申し奉るのは、いわゆる絶対神とか、全知全能の神とかいうが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民、国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。
昭和12年の「文部省通達」
おそらく明治憲法の成立にそのようなリスクがあったのではあるまいか?
伊藤博文は外国の憲法を調べていく中で、どうやら西欧世界の諸制度が機能するにはキリスト教の背景があり、キリストの存在があることを感じ取った。
しかし、我が国はキリスト教国家ではない。
そこで着目せざるをえないのが天皇の存在であった。
このことは悲劇にも天皇の御心とは関係なく、天皇を絶対存在として要求する力が日本国の形成に働くようになったのだろうと想像する。
天一国憲法夢想 アメリカ憲法偽相 4,明治憲法は非民主的か?天一国と天一国憲法への示唆は? - 原理講論を読む
山本七平が書いた本に「」の中から昭和天皇の言葉を拾ってみたい。
・・・戦争に関して、この頃一般で申すそうだが、この戦争は私が止めさせたので終わった。それができたくらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのかという議論であるが、なるほどこの疑問は一応の筋は立っているようにみえる。如何にも、もっともと聞こえる。しかし、それはそうは出来なかった。
申すまでもないが、我が国には厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、責任を負わされた国務大臣がある。
この憲法上明記してある国務各大臣の責任範囲内には、天皇はその意志によって勝手に容喙し干渉し、これを制肘 することは許されない。
だから内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重になって審議を尽くして、ある方策を立て、これよろしいと裁可する以外に執るべき道はない。
もしそうせずに、私がその時の心持ち次第で、ある時は裁可し、ある時は却下したとすれば、その後責任者はいかにベストを尽くしても、天皇の心持ちによって何となるかは分からないことになり、責任者として国政に就き責任を取ることが出来なくなる。
これは明白に天皇が、憲法を破棄するものである。専制政治国ならばいざ知らず、立憲国の君主として、私にはそんなことは出来ない。
(藤田尚徳著 『侍従長の回想』中公文庫)
だが、戦争をやめた時のことは、開戦の時と事情が異なっている。あの時には終戦か、戦争継続か、両論に分かれて対立し、議論が果てしないので、鈴木(貫太郎、当時の首相)が最高戦争責任会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。
個々に私は、誰の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を、初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである。
・・・この場合に私が決裁しなければ、事の始末はつかない。それで私は、この上戦争を継続することの無理と、無理な戦争を強行することは皇国の滅亡を招くとの見地から、胸の張り裂ける想いをしつつも裁断を下した。これで戦争は終わった。
しかし、この事は、私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、この事が出来たのだと思っている。
(藤田尚徳著 『侍従長の回想』中公文庫)
爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ
いくさとめけり 身はいかならむとも
<御製> 昭和20年8月 「聖断」による終戦を迎えて
山本は、天皇が戦前に御自分の心持ちを吐露した珍しい例を紹介している。
「出先の両大使がなんら自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか」
昭和14年4月の発言である。日本への致命傷となった日独伊の三国同盟の交渉の際、大島駐独大使(陸軍中将)と白鳥伊大使が、陸軍の意を受けて、独伊が第三国と戦う場合は日本も参戦するとの意思を表明した。これでは、もし独伊が英仏と戦争状態になった場合、日本は自動的に参戦することになってしまう。こういう重要な問題を本国の訓令も受けず大使が勝手に行うことは、少々異常である。もちろんその背景に陸軍が、ということは板垣(征四郎)陸相がおり、これを支持している。
「元来、出先の両大使が何等自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか。かくの如き場合に、あたかもこれを支援するかの如き態度を取ることは甚だ面白くない。また閣議ごとに逸脱せることを言うが如きも、甚だ面白くない。」
軍部は事あるごとに、「統帥権干犯」「大権干犯」を持ち出したが、これは天皇の意思とは無関係だから、天皇は何も言っていない。一方、天皇自らがこの言葉を口にしたのは、きわめて珍しいし、当時の常識で言えば、天皇からこう言われれば辞職ではすまない大変な結果になるはず、「大権干犯」といえば、すぐ一人一殺の右翼がすっとんで来ても不思議ではない。
ただ当時は、軍部や右翼が天皇から直接に「天皇の大権を犯した」と言われても、何の問題も生じていない。そして板垣・大島・白鳥の三人は、罷免もされず辞職もしていない。
一方、三国同盟の方は、突如、独ソが不可侵条約を締結、平沼首相が「複雑怪奇」の言葉を残して内閣総辞職となったため、一時、棚上げとなった。この場合の天皇の言葉は完全に無視されている。
そして、山本は天皇がファシズムについてどのように思っておいでだったか、そのお言葉を紹介する。
「自分があたかもファシズムを信奉するが如く思わるることが、最も堪え難きところなり、実際あまりに立憲的に処置し来りし為にかくの如き事態となりたりとも云うべく、戦争の途中において今少し陛下は進んで御命令ありたしとの希望を聞かざるには非ざりしも、努めて立憲的に運用したる積りなり・・・」
(昭和20年9月29日 『木戸日記』)
天皇は御自分が立憲的でなかった時を以下のように語った。
「2.26の時と、終戦の時と、この二回だけ、自分は立憲君主としての道を踏み間違えた・・・」
2.26事件のときには、総理大臣が生きているのか死んでいるのか分からない。川島陸相は反乱軍に同調的、内大臣も生死は不明、そこでやむなく天皇は立憲政治を守るために、立憲君主の立場を逸脱せざるを得なくなった。矛盾することをせざるをえなかったのである。臨時首相代理を任命し、暴徒を鎮圧させることになる。
ここに絶対君主と在り方をはっきり別にして、憲法の制限下に服してきた天皇の苦悩があったという。
山本によれば、天皇は現御神とか現人神と呼ばれるが、その「カミ」という言葉は、西欧のゴッドとは無縁の内容で、明治憲法には「天皇は国家ノ元首」とは規定されるも「現人神」とは規定されていないとと言う。
要するに「御上」である。日本国の人がつくる組織の頂上に立つ者を西洋はゴッドと勘違いすることになる。
「カミ」について、山本は本居宣長や津田左右吉の言葉を引用して説明もしているが、ここでは触れないことにする。
また、現人神については、山本は先駆的な研究をしている。
天皇の神聖については、西欧社会から日本人が学ぶなかで、キリスト教の比重が重いことを知ったことだろう。
ざっくり言えば、我々が知っている王権神授説が中世に出てきて「王権は神から授けられ、神のみに責任を負う」という世から、やがて「王は君臨すれども統治せず」の世になる。
各国憲法には国王の神聖(holy)が述べられ我が国の憲法にも記載されていることを知り、「天皇は神聖にして侵すべからず」ということになるというわけだ。
ウィキペディアの王権神授説の説明には面白い解説がある。
王の二つの身体(霊的王権から政治的王権へ)
中世前期、皇帝派の著述家たちはしばしば王が霊的な権能を有していることを主張した。カロリング朝時代、カスウルフはカール大帝について次のように述べている。
「我が王よ、汝は汝の王たる神の代理人であることをつねに頭にとめておかれますよう。…(中略)…司教は二次的な地位にいるに過ぎません。」[6]。
また、同時代のアルクィンはカール大帝を教皇やビザンツ皇帝よりも上位に考えている。
それに対し、教皇派の著述家たちは王権の聖職者としての性格を拒否した。王は純粋に世俗的で肉体的な自然的身体を持つ一方で、王として塗油された瞬間から他の世俗的権力者を超越する霊的身体を持つと考えられ、皇帝派によって大いに喧伝された。12・13世紀の皇帝派はむしろ塗油をすでに重視しなくなっていた。彼らによれば、皇帝は教皇が存在する以前から存在し、この世のあらゆる権力は神に由来するのであるから、古代の皇帝は塗油で聖別されずとも完全な権力を有していたことになる。したがって、彼らにとって塗油とは皇帝を教皇が承認する行為に過ぎず、皇帝権は教皇権に由来するものではないとされた。中世後期には、法学理論によって武装した皇帝権は帝国勅令「リケット・ユーリス」によって、その神聖性を確立する。この勅令によって、皇帝の権力は神のみに由来し、皇帝は選挙によって選出された瞬間から教皇の承認や追認なくして権力を行使することができるとされた[7]。教皇派は「王に対する塗油が、司教に対するものと違って、魂に何の影響も与えない」つまり何の秘蹟的影響も王にもたらさないため、王の聖性の根拠にはならないという意味。これはヨハネス22世がエドワード2世に述べた言葉。しかし、ローマで行われる皇帝の戴冠式以外に教皇は影響力を及ぼすことが結局出来ず、イングランドやフランスでは伝統に従って塗油がおこなわれ、むしろ中世後期には儀式における典礼的・神秘的な洗練は強められた[8]として、前者の考えを否定した。
中世後期にいたると、王の霊的権能のほとんどは名目的な称号や役職へと退化していたが、それでも著述家たちは王が単に世俗的な支配者であるに留まるわけではないことを強調した。これには中世に発達した法学の影響がある。王権は叙任権闘争の過程で失った聖職者的性格を、新たにローマ法哲学によって回復するに至った。このことはルッジェーロ2世が1140年に出した法令の序文に如実に表現されている。「神へのこの奉献により王の職務は、自らに司祭としての特権を要求する。このことにより、或る賢者や法学者は、法を解釈する人々を『法の司祭』と呼ぶのである。」[9]中世の多くの法学者が、法を扱う裁判官や法学者自身を、司祭になぞらえており、それらの職業を神聖視するに至った。そして世俗国家に新たな聖性を付与することに成功した[10]。
王はあらゆる法的義務から超越し、正義の源泉であると考えられた。その過程において、王権は王個人と区別して観念されるようになった。法学者たちは、王には自然的身体と政治的身体の二つの身体があり、自然的身体は可死的な王の生まれながらの身体であるが、政治的身体は不可死かつ不可視で、政治組織や政治機構からなり、公共の福利をはかるために存在していると考えた。
イングランドでは1534年の宗教改革によって英国国教会が組織され、国王に帰属されたために、王は政治的身体のほかに霊的身体も獲得した。テューダー朝からステュアート朝にいたる絶対王政のなかでイングランド王権の象徴権能は強化されていったが、やがて清教徒革命によって共和政が樹立されると、政治理論における正統性を徐々に失っていった。名誉革命によって立憲君主制を目指す方向性が定まると、王の身体は王権の象徴としての意味を失い、王権はイギリスの法によって規定され直された。ヴィクトリア女王の時代には王権は「国民の統合の象徴」として観念せられ、家庭的イメージや母性的イメージを付加されていくことになる[11]。清教徒革命時には王個人の行動が政治的身体である王権に反するものであるとして、議会の王への反抗が正当化された。彼らは「王 (King) を擁護するために王 (king) に対して闘え」と叫び、さらにチャールズ1世を「大逆罪」で処刑することもできたのである。
さて、現代の象徴天皇という概念がでてくるのだが、今上天皇もおっしゃっていたが、生涯この言葉の意味を求めて試行錯誤の旅であったと言う。
思うに、この象徴天皇の「象徴」とは、天皇を規定する政治的な言葉ではなく、宗教的な言葉なのであろう。
それゆえ、厄介な問題が生じてくるのではあるまいか?
天皇は霊的な国家と肉的な国家の双方の元首としてあることが、本来の日本の天皇の在り方だと考えると、「象徴天皇」とは霊的王国と肉的王国の間に綱渡りしているようなものなのかもしれない。
どちらの王国の元首でもないような立ち位置を守らなければならない苦悩の日々を送られているのではないか?
「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を日々模索しつつ過ごして来ました。」
そこには、天皇の人権の欠落が生じてくることになろう。
このお言葉は天皇にその意図はなくも、結果として天皇のやわらかな人権宣言のように私の心に響き渡った。
本当に、日本国民のため身を粉にしてお勤めくださった。
昭和天皇のころよりずっと多くの公務をこなされてきたと言う。
お心を察して誰かが同じことを言っても、天皇陛下に対して無礼だという意見も沸き上がってきただろう。
もはや、天皇自らが憲法の則を超えて率直に訴えるしか方法はなかったのであろう。
大変お気の毒なことである。
天皇にも人権が認められるべきではないのか?
認められないというのは、やはり現人神であるからか?
歴史の授業に出てくるの天皇は神道より仏教と密接な関係があることを我々は学んできた。
国家の安寧のための行事もあるかもしれないが、一般の国民かに例えるなら、神道は天皇家の先祖崇拝に当たることだろう。
天皇がキリスト教を学び信仰しようが、天皇が仏教を学び信仰しようが、基本的人権が天皇に認められているなら、ごく自然に受け入れられるべきではないのか?
国家の守護に仏教を選んだ天皇の存在は広く知られている。
泉涌寺である。
http://kyonara.xyz/archives/70868192.html より写真を引用
我が国の今上天皇が譲位されるこの時、
象徴天皇が憲法にどのような位置づけで現在に機能するよう受け継ぐべきか?
あるいは、変更すべきか?
天皇を本来の日本国民の上長、御上としての現御神としてお戻りいただいてはいかがであろうか?
わたしは国体という言葉の使い方には注意すべきであると考える。
天皇の基本的人権を侵害する方向に人々を誘導する可能性があると考えるからである。
長くなるので、印象の話で終わるが、保守系の団体で左翼が敵視する日本会議というものがあるようだ。
これも神道系の勢力が母体になっているように見える。
保守的な良き運動をされている面もあれば、危うさもあるように思う。
神道は宗教ではないはずだが、国家神道に変貌した時は違うようである。
わたしは単純に天皇の人権を尊重したいと思う。
もっと、普通の人の普通の生活も享受してお幸せになって欲しいと思うのである。
現人神については浅見絅斎やら会沢正志斎などが研究されているようだ。
亡くなられた西部邁のゼミナールをどうぞ。
会沢正志斎については面白そうな本がある。
一寸時間がなくて今は読めないが。
目次
口絵 会沢正志斎肖像
はじめに
一 会沢正志斎の誕生とその家庭
二 藤田幽谷に学ぶ
三 青藍舎の教育
四 彰考館に仕官
五 父母の逝去と結婚
六 イギリス人、大津浜上陸事件
七 『新論』の執筆
八 名藩主・斉昭の登場
九 天保の改革
十 弘道館の創設
十一 弘化甲辰の変
十二 正志斎塾の隆盛と将軍の表彰
十三 開国、ペリーの来航と斉昭の幕政参与
十四 継嗣問題と修好通商条約の調印
十五 勅諚(戊午の密勅)降下
十六 安政の大獄
十七 桜田門外の変
十八 「時務策」を著し開国を論ず
十九 晩年の正志斎
おわりに
[付録]
一 正志斎関係年譜
二 参考文献等
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