先日霞が関であるご婦人に、もうブログは書かないのですかと尋ねられ
ああ信仰のことだなと思った。
その方が背中を押してくださったので、この頃は重い腰をあげている。
以下に紹介する文章はかなり時代がかっている表現や表記法また助詞の選び方などで幾分読みにくいが、カトリックの修道者がどのような精神の試練を受ける中で、神やキリストと出会い、天の御座に引き寄せられて行ったのか、実に味わい深いものがある。
少し前にiPS 細胞の山中氏が部下の論文にデータを改竄していたことについて会見をされていたが、客観的が売り物の科学の世界でも、相変わらず人間の主観的心の世界が主体として対象たる科学を振り回し得るというのは、今も昔も変わらぬことのようだ。
聖書の言葉も、原理講論の言葉も、天聖経の言葉も、
われわれはうっかりわかった気になってしまう。
ところが、カルロカレットの証によれば
限界状況に立った体験の末に死にきってこそ復活体の新しい自己に会えると言う。
そのとき初めてキリストの言葉の真意を知ることになると言う。
先駆けられた兄弟が、われわれ後に続く者たちと
貴重な預かり物をシェアしようと書き留めてくださったことに感謝したい。
お読みくださった皆様に神の平安が訪れんことを!
アージュ。
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善人の反乱
私が、召出しとして一番低い席をえらんだこと自体は、大したことではない。大切なのは、その席に生涯の日々ふみとどまることなのである。
それは、おそろしく困難なことである。
人の心の奥底には、年をとるにつれてふくれてくる腫物のようなものがある。それを「犠牲者根性」と呼ぼう。この腫物はさけられない。ずっと年老いてから、霊魂はそれに気付く、神の助けがあればそれを根から取り去ることもできよう。
「犠牲者根性」は隣人との関係に正義だけを求める旧約時代からある、生活態度なのだ。
ここで、世間のどこにでもある家庭を考えよう。苦労はみな分配されているわけではなく、家族のだれかに、多くの場合母親の肩にばかりかかっている。
何年ものあいだその荷をになってきた肩は、労苦にかがみ、その犠牲によって、家族の他の者はどうにか平和に生きることができた。
ところが、その肩の下にもう一つの心がある。その心の中に次第に「犠牲者根性」が根をはり、沈黙の長い生活の間にそれがひろがっていく。
ある日、大変な努力の結果か、あるいはだれかの針にするどくさされたか、その腫物が破れ、全身に毒がまわる、
「もういやだ、これ以上は! 今まで女中のようにやって来たが、だれもそれを気にもしてくれない。お前たちが遊んでいる間に、私だけがせっせと苦労するのは、もうこりごりだ・・・・・」
こういうことは、修院の中でも、信心家の団体の中でもおこる。その時の嵐はひどく、建物のかべさえ、くずれ落ちるかもしれない。
それが、「つまづき」の時代である。全身にまわった毒ははげしく、愛さえも麻痺させてしまう。
それにしても、この母親のいい分は正しいといわねばなるまい。正義の千にそって考えれば、確かに家族のために彼女は犠牲になったのだといわねばなるまい。
家族の他の者は、自由に気楽に生活していたのに、彼女はそうではなく、苦しみ、働き、集め、守り、愛をそそいできたのだ。
そればかりではない、人の心をつきさすのは、「私を理解してくれない、私の犠牲にふりむきもしない」ことなのだ。沈黙の中で流される彼女のかくれた涙に気付いた人はいなかった・・・・・
ここにいたると、だれでも、自分の私生活の一頁を語れるだろう。例外なくだれでも、「私がその母親の立場だった」だれかのあるいは何かの犠牲者だったと感じるのは、奇妙なことである。愛情のない幼時をすごした、仕事に似合った賃金を受けとらなかった、会社の昇給に不満があった、大臣になれなかった、罪がないのに捕らえられた、司祭からみとめられなかった、会長の席をやめさせられた、修道院の院長になれず台所仕事に追いつかわれた・・・・これらの不満が語られるだろう。
だが、妙なのは、その時一人一人が、もっともな正しいことをいっているのだと思っていることである。
私たちはどんなジャングルの中で生きているかを考えたことがあるだろうか。長い一生の内には、だれかから、無礼や不正をうけ、爪にひっかかれたり、ピストルで打たれたりすることがあるであろう。
そうすると、そのとき人は、受けた不正におしつけられ、悪い他人からうけたことを苦にして床につき、「犠牲者根性」を「しみじみと」味わいはじめる。
それは耐えがたい苦痛であろう。私たちの一部ではなく、心の奥底まで痛めつけ、神との関係と人との関係まで手のひらを返すようにかえてしまうほどの打撃である。
毎日、私の苦労のおかげで生きていたのに、侮ったり無視したりする兄弟をどうして愛せよう?私の価値を知らず、手柄を見向きもしてくれない家の中で、どうして平気で生きられよう?
無能な人間を上につけ、単調な日々を私に強いる仕事を、なぜはげまねばならないのか?
ああ、それはできない。本当にもう愛せないし、愛することができなくなってしまった。
愛さないこと、もう愛せなくなったこと、それが大変なのだ!それをいいかげんに聞きのがしてはおけない。
愛することは、私の生活の目的であり、いつもあきずにくみ上げる唯一のよろこびである。
愛さなくなった時から、喜びは去り、平和もなくなる。
ねむれない夜、私の心を虫ばんでいる虫がいるのだと感じ、心の迷宮に毒が上がるのが、麻痺してくるのがわかる。祈ろうとするが、祈りは苦しく、無意味なことに思われる。
天はもう私に答えてくれなかったのだ。正義を乞い願う叫びに答えるものはない。
天の彼方で何かが変わってしまったのだろうか?昔の律法を支えていたものが、もう正義の神を動かさなくなったのか。
そうだ、その通り、正義の神はもう永久に正義の頁を閉じたのだ。それは、美しい真実な頁であったが、すべてではなかった。そこには爆発的な神、無限性の神はなく、出口のない罪の道にふみ迷った人間にとって正義と真理という原理だけでは救いがなかった。それ以上の何かがいった、それが、「世々代々かくれている神」(コロサイⅠ、26)であった。
こうしてイエズスが来た。
だが、「家の人々」はイエズスをうけいれないばかりか、犠牲の雄山羊をひくように、かれを砂漠へ追いやった。
イエズスを打ち、つばきし、憎もうとして、全人類がおそいかかった。
ただ一人罪がない人であったそのイエズスは、全人類に打たれて頭を垂れ、正義に訴えることもせず、その体と心とで、人類の罪の価値を払ったのである。
その瞬間から、正義をはるかにこえるゆるしと、あわれみと、愛の律法が宣言された。
カルワリオ(ゴルゴタ)の事件が終わって以降、もう、真理の剣や法の裁きではなく、イエズス・キリストにおいて「罪」となった神の、ひきさかれた心を、平和が通っていくのである。
犠牲者根性の時代は終わった・・・・イエズスから、いけにえの子羊として、いけにえであることをうけいれ、愛の炎で不正のかすをやきつくすいけにえである。
「神は、喜んで与えるものを愛する」(コリント9、7)と聖パウロがいっているが、いけにえとなる人とは、その「喜んで与える人」のことである。
神は、キリストにおいて「喜んで与えるもの」となり、いったん与えたものを取り戻そうとはしない。すべての罪を永久にゆるし、失われた純潔をたて直し、罪人のつかれた骨に活気を与え、娼婦をマグダレナ・マリアに変え、蕩児をアッシジの聖フランシスコと変えたのである。
その時以来、生命は死に勝ち、春は、地の肥料からその活気と美とをくみ上げる事となった。
「私はこの世に勝った!」とイエズスは、いけにえの時に叫んだ。こうして、喜びが再び、うれいに沈む人の心によみがえるのだ。
そうだ、正義をこえて、私は行こう!
犠牲者根性の癌をすてるために、このけわしい山を登らねばならない。イエズスにならって、この苦しい坂道をあえぎつつ上がり、勇気をふるい立てて、兄弟のほうへと下らねばなるまい。
兄弟たちのほうへ・・・・私の病んだ近視の目が、わざわいの原因はそこにあるといっているその兄弟たちのほうへ・・・・。
それ以外に道はない。真の平和とイエズスとの友情をかちとるには、それ以外に道はない。
自分を弁解して時間をついやしているあいだは、何の利益も上らず、イエズスの御心を知るという真のキリスト教の外に立ちつくしているだけである。
もう事故弁解はよそう。そんなことをしても、やはり事故弁解する他人とぶつかるだけである。
ゆるすことは、他人が私に向けてした悪を、丁度私にふさわしいものとして受け止めることである。そして、黙々として苦しむことはよいことなのだと確信するがよい。
イエズスがいったように、至福が与えられるのは、正義のために迫害される人々である。人間らしい傲りや高ぶりのために、それが与えられる機をのがすのは、おろかなことではあるまいか。
もしイエズスが、自分を蹴りつけた人に向かって、
「お前は私が何ものかを知っているのか?」と怒鳴られたのをきいたら、カルワリオまでイエズスについて行こうとする人は、どうすればよいのだろう。いや、イエズスは、自己弁護することも、侮る人々にふりむくこともしなかった。自分を十字架につけた群衆に向かって、「私が何者か、私がどんなことをやったか」を説明しようともせず、かれらが地獄におちるのを「それ見よ」ともいわなかった。イエズスの愛の新鮮さはそこにある。彼は、それを教えた。ルカが書き残しているのはそれである。
「さて、それでは、この話を聞いているあなたたちに言おう。あなたたちは、敵を愛し、自分を憎む人に善を行い、自分を呪う人々を祝し、自分をざん言する人のために祈れ。あなたの頬を打つ人には他の頬も向け、マントを取る人には上衣もこばんではならない。」(ルカ6.27〜29)
イエズスの精神はただ一つ、他には比べるものがない。
彼の精神の最良の解釈者であったパウロは、神の前と人の前で、キリスト者のとるべき態度を説明して、フィリッピ人への手紙にこう書いた。
「たがいに、イエズスの心を心とせよ。彼は本性として神であったが、神とひとしいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の姿をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた。その外貌は人間のように見え、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくしてしたがわれた。」(フィリッピ2.5〜8)
すべての完徳と徳の要点がこれである。
「イエズス・キリストの心を心とせよ!」
イエズスの「心」、父にしたがい、人を救うために「無となる」ことへの渇望こそ、キリストの愛の頂点として永久にのこるであろう。
真理と正義とは、だからこそ足りないのだ。そこからもう一歩ふみ出さねばならない。
「イエズスにならうために、卑しくなりたい。」
そうのぞめばのぞむほど、謙遜を知るようになり、平和が心にそそぎ込まれるようになる。
今いった何行かのことばに、この世における人の徳の問題の解決がある。
「砂漠からの手紙」カルロカレット
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問題はただ覚悟である。
カルロカレットを偶像にして拝んでばかりいては
彼は気の毒なピエロになることだろう。
覚悟、覚悟、覚悟である。