日本の食口は形式ばかりに目が行く事が多いようだ。
2月28日に向けて、どのような形式、どのような手続きということには熱心に関心を持つが、その日の意義とそれが現実の私とどのような関わりがあって、否むしろその意義が自分の内に落とし込まれるか、そのような霊性の刷新や飛躍にはとんと無頓着なようである。
もうわれわれはお父様の権威に戻っているとか、聖酒を頂いたとか、祝祷してもらったとか、それで大安心というわけである。
自分がその恵みにあって如何に変容することができたか?
ウェスレーのエピソードは、われわれに重要な何かを共有するきっかけを与えてくれると思うのだが。
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八週間にわたる航海のうちに起こった出来事はジョン・ウェスレーに深い印象を残した。何回か暴風雨に遭遇したが、その都度彼は心の落ち着きを失い、死を怖れた。彼はモラビア派の人達と友人になったが、彼らの穏やかで愛情に富んだ心、またすぐれた生活態度にはいたく惹きつけられるものがあった。また彼等が柔和であるとともに勇敢であることを知った。ある日の夕方、丁度、ドイツ人達が詩篇を讃美しようとしていた時、突然、嵐となり、海は湧き立ち、主帆は裂かれ、片々となって船に落ちた。海水の淵が人々を呑もうとしているかの如くに、デッキの間に流れ込んで来た。英国人達は恐れの余り悲鳴をあげたが、ドイツ人達は平静に歌い続けた。あとでウェスレーは一人のドイツ人に尋ねた、
「恐ろしくありませんでしたか」。
「感謝なことには、別に恐ろしいとも思いませんでした」。
「婦人方、子供さん達はどうでしたか」。
「はい」彼は穏やかに答えた、「私どもの女、子供は死ぬることを怖れてはおりません」。
その日の日記の終わりに、ウェスレーはこうしるしている、「今日は、わたしが今日までに経験したうちで最も栄光に輝く日であった」。
1736年2月6日、シモンズ号はその乗客達をジョージアに上陸させた。ウェスレーは知り合った人びとの一人、モラビア教徒の牧師、シュパンゲンベルクに導きを乞うた。かのドイツ人は言った、「兄弟よ、私は二、三、お尋ねせねばなりません。あなたはあなたのうちに証をお持ちでしょうか。あなたは神の子であるということについて、あなたの霊とともに神の御霊が証しされるでしょうか」。ウェスレーは答える所を知らなかった。彼の躊躇を見た伝道者は言った。
「あなたはキリストをご存じですか」
「はい、彼は世の救い主であられます」とウェスレー。
「その通りです。しかし、彼があなたを救われたことをご存知ですか」
「私は彼が私の救いのために死なれたことを望みます」
ウェスレーの答えにシュペンゲンベルクは重ねて尋ねた、「あなたには自分自身というものがお分かりでしょうか」
「分かっています」とは答えたもののウェスレーは日記に「その言葉が虚しいものではないかと恐れる」としるした。このような霊魂に関する試験をうけたことはウェスレーにとっては初めての経験であった。その会話は大洋を横切って行った彼の労に豊かに酬いるものと言わなくてはならない。電光は一瞬閃いて彼を暗黒の中に捨て置いた。彼はヘルンフートのモラビア教徒達について多くのことを尋ねた。
戦う使徒ウェスレー 著者 メソジストの一伝道者 発行 福音文書刊行会
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モラヴィア兄弟団(モラヴィアきょうだいだん、チェコ語:Moravští bratři)は、共通の体験、交わり、分かち合いを回復することによって教会の革新を目指す共同体運動の一つ。ドイツにおいてはモラヴィア教会(Herrnhuter Brüdergemeine)と呼ばれた。
1722年ツィンツェンドルフ伯爵の領地にモラヴィアから逃れてきたフス派、兄弟団の群れが、ヘルンフート(主の守り)と呼ばれる共同体を形成した。各地で迫害されていた敬虔派やアナバプテストも逃れてきたが互いに権利を主張しあって問題が絶えなかった。しかし、1727年8月13日の聖餐式で全員が聖霊の力を経験して、その結果として財産共同体が発足した。1737年にニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフが監督となる。
文鮮明先生がメシアであり救世主であり真の父母であると言うなら
「お父様があなたを救われたことをご存知ですか」
わたしたちの霊性の成長には、先駆けて歩まれた多くの兄弟の体験を共有することから
恵みを得ることがなんと多いことか!
偉大な神の子ら、神の使徒らに感謝。