原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

キリスト教社会が唯物思想の温床となった如く  分派ができる温床となってしまった教会

 

初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者たちが現れたとしても無理からぬことである。このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。これは甚だ寒心に堪えないことであった

総序 より

 

 草創期の教会の愛が消え、淫乱と財欲の嵐が、全世界の教会を吹き荒らし、霊的渇きに苦しむ多くの信徒が、宗教的貧困から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喚声は、天を代表する正統からではなく地を代表とした分派から聞こえてきたのであった。

 

神の愛を叫びつつ出発した教会が、その叫び声のみを残して草創期の教会の残骸と化してしまったとき、このような無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻すものが現れたとしても無理からぬことであった。

 

かくして教会は分派の温床となったのである分派はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。

 

彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかった教会は、分派が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながら、手を束ねたまま、何の対策も講ずることができなかったのである

 

天の父にとって、これは甚だ寒心に堪えないことであった。

 

 

モグラ叩きのゲームのように、

何故、分派と呼ばれる人々が教会から出てくることが終わらないのであろうか?

それどころか殖えるばかりである。

一体これはどうしたことなのであろう?

彼らの多くは聞くに堪えない教義理解とその誤用及び創作によって成っている。

教会によって批判するために、また信徒が惑わされないようにするために解説されたサイトでの、彼らの主張は聞くに堪えないものが多く、わたしは触りぐらいを知る段階で気分が悪くなり、それ以上は前には進めない。

時間の無駄である。

だが、人によっては大変魅力的な内容だという。

それなら、いっそのこと好きなようにさせてはとまで思うことさえあるのだが、

はたしてこのような現象が、彼らだけの問題に帰せられるべきものなのか、

それとも本家本元にこそもっと悔い改めるべき問題が潜んでいるのか。

じっくり考えるべき時が来ている。

否、遅まきであるという指摘も多いことであろう。

そんなことを思い巡っていたら、突然思い起こされてきた聖句が

上記の原理講論の総序の内容であった。

 

つまり、分派には分派の問題があるとしても、教会自体も根本的な悔い改めが為されることなく、今日に至っているので、いつまで経っても収束に向かわないのである。

一般信徒は、いちいち彼らの主張とそれに対する教会の批判など覚えておれないだろう。

 

このようなことは多くの教会員の知るところでもある。

人間は居心地の良いところに隠れる性質がある。

「わかちゃいるけどやめられない」

というのは居心地がよいからである。

核シェルターをお持ちでないにせよ、人はみな各自のシェルターを持ち

逃げ込む習慣があるのであろう。

だが、植木等のように

スーダラ節を歌って済ませるわけにはいかない。

若い人には分からないかな?

 

善進様が主体格の主礼として行事を為された。

誉進様を始め、右側に立ち主動する主体格で重要な場面で現れる女性の子女様がいたことであろうか?

お母様の時代になると、あたかも霊的女性集団の時代の如く、女性が祝福を与えることが、二代によって為され、伝統に成っていきそうな気配さえ感じる。

既成事実化を計っているのではと疑う者が出てきても不思議ではないほどである。

 

お父様が、三天使長を祝福されたように

お母様は、エバ国家のメンバー5人を含む3カップルを特別に祝福された。

ここから、新しい摂理が始まるのであろうか?

 

亨進様と宋総会長と徳野会長はいずれも温厚な人柄で、人とトラブルを起こすような感じには見られない。

ところが、彼らの決断と実行は随分違っている。

 

亨進様は絶対的基準によって、多くの人を先ず解任通告された。

泣いて馬謖を斬る」どころではない。

ばっさり、容赦なく為された。

一方、お二方はお家芸の修練会送りをして、2月復帰をさせる予定であるという。

三人とも優しそうな、敵を作ることの少ない人柄であると察せられるのだが、こうも決断と実行が違うのは何故であろう?

それは、亨進様が現状打破の路線であるのに対して、

お二人は現状維持の路線だからである。

亨進様は根本的な変革が教会には必要であると考えるが、

お二人は漸次改善することが大切だと考えられている。

それでも宋総会長ほどこの教会の体質改善に真剣に取り組んだ方はいなかったことであろう。

だが、改善で事済むのか?

甘くはないか?

変革・イノベーションはゼロベースでの抜本的な改革をするので、リーダーシップが不可欠である。

管理・改善は既にあるものを存続させ、少しずつ問題を解決していこうというもので、

管理が基本となる。

 

今や崖っぷちまで来ているこの時に

大量のネズミが海に向かって死の行進をするように、また

方向転換することなく

氷山に向かう船のように

哀れな末路をもたらさぬように

強力なリーダーシップが願われているときである。

 

お二人にはもう手が終えないところまで来ているのなら、

正直にご報告して

「どうか真の御家庭がご家族揃って3日間お話ください。

美しい景色の環境をご用意いたします。

そこで皆様が充分にお話しされ尽くして、決定されたことは

我々信徒が従いましよう。

それまでは言葉は適切ではないかも知れませんが、ストライキです。

それは、皆様方真の御家庭にとってそのような場が3年もないことが、

我々信徒の胸の痛みであり、

問題を複雑にしていると思えるからです。」

 

場の設定だけでもご提案されては如何であろうか?

叱責をされ、不忠であるという焼き印を押されることを

怖れぬのであれば・・・

 

確かに聞き留めてはくれないのかも知れない。

だが、大切なことは信徒の総意としての意思表示を示すことである。

 

さもなくば、温床となり続けることであろう。

神の御心から大きく離れて・・・