原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

幼少時代における真のお父様の学び      堂蒙先習 明心宝鑑 小学 大学

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書堂の様子がわかります。

 

ドラマ「ホジュン」で主人公のホジュンが幼い頃に書堂で、蒙堂先習や明心宝鑑の漢文の意味や暗唱また習字を学んだように、真のお父様もやはり書堂で、例えば明心宝鑑から一度に名文6つほどを学ばれたことを、文昇龍氏が語ったと武田吉郎氏は「聖地定州」で紹介している。

 私は来年で還暦である。

子供が生まれた頃、それより前からシュタイナー教育に関心があり、高橋 が次々に著作を出していくのが楽しみであった。

霊性の教育にたいして何らかの示唆が与えられるかも知れないと考えたからである。

現在ではたくさんの書物が、ルドルフ・シュタイナーの理論を実際の教育現場で応用実験し成果を報告している。

年月を経て再びいくらかそのような研究を除いてみようとは思うが、当時の読書の実感では、霊界が暗いということ。霊界が混沌としているということ。霊性を扱う基底の思想がどうもヘレニズムのような感じがすることなど。

あまり成果はなかった。

アーサー・E・パウエルの神智学に関する本もいくらか目を通したが、当時の自分には統一原理の理解や応用に役立つ示唆を得ることができなかった。

 

何故、こんな話しを始めるかといえば、

再臨主として、神の思想を携えて降臨された、真の父である文鮮明恵師の偉大な思想が、全くと言っていいほど、未だに教育に活かされず手つかずのままになっているからである。

シュタイナーですら日本人においても多くの信奉者が実践を重ねて真の教育は何かを追い求めている。

勿論、我々の先輩方も何もしていなかったわけではない。

私は地方から東京に上がってくることがあると、できる限り愛美書店に寄った。

今、手元には「統一理論研究」という雑誌が5冊ある。

5号と6号が合併号で、それ以降は休刊になったまま終わったのかも知れない。

だが、せっかくの試みは形を見るまでには至らなかった。

創立何十年を祝うより、その間に復帰した実績を祝うべきである。

 

統一思想院であるとか、アカデミーであるとかが存在したことが、広く一般信徒に恩恵が還元されていないように思われる。

また、全国には保育園や幼稚園の保母さんや学校の先生などの信徒がおられるはずである。ところが、彼らには横の繋がりがない。神の思想を如何にして教育に活かそうかという試行錯誤の歩みを授受作用して発展させるネットワークがない。

科学技術者の中にも、ノーベル賞受賞者クラスも受賞している有名な賞を頂いている方や、先端技術の国家プロジェクトの責任者をする方もいる。

それぞれお忙しいことだろうが、心情文化の創造とうたい文句はいいのだが、社会的な機能をはたせるような、教会の支援や場の整備などがない。

歴代の日本統一教会会長者は、統一文明を築く旗手として立って頂きたいものである。

 

 さて、教育だが、若い頃から

お父様にはメシアの器が元々あったにはせよ、

メシヤとなるべく成長されるためには、それなりの相応しい教育環境が

神によってもたらされていて不思議ではないにもかかわらず、

我々が短絡的に連想するようなキリスト教の背景というものは、イエス様にお会いされる直前の数年でしかなかった。

これは一体どうしたことであろうか?

神様は必ず充分な準備をされる方である。

むしろ、今日は独生女神学の根拠の一つにされかねないことが

お母様の生い立ちである。

お母様の方がキリスト教という観点から見れば

お父様とは比較にならないほど名門であるかのように感じたとしても

仕方ないほどである。

 

神の人間に対する教育は堕落した人間を復帰する形に歪められたにせよ、

復帰原理が創造原理を応用したものであるように

創造本然の教育の何らかの道筋を見せているものと考えることができる。

 

蘇生旧約時代→長成新約時代→完成成約時代

このような人類に対する教育の過程を

そのまま個人の成長過程に対応して重ね合わせてみると、

幼少期の教育に最も必要なものが

道徳規範教育であるのではないだろうか?

 

その実際的な教育方法は

日本で言えば四書五経等聖賢たちによって説かれた内容や、それらに啓発されて書かれた多くの修養書あるいは善書と呼ばれるものの、素読暗唱やそれによって培われた個人の志漢詩にしたため実行に邁進するということであったことだろう。

 

韓国では書堂において、修養の教育が為されたが、日本には今はもう見る影もない「明心宝鑑」や「堂蒙先習」が中心のようである。

明心宝鑑はベトナムに広く伝わり活躍しているようだ。

 

韓国人の教区長や、何人かの韓国人に「明心宝鑑」について聴くと、道徳だという答えがとんできて、それほど重視していないようである。

わたしは道徳ではなく修養の書とみたほうがよいとおもう。

 

書にしたためたり、くりかえしくりかえし復唱し暗記して、潜在意識に善の精神が蓄積される。

おそらくこれが人物を作る一つの必要事項なのであろう。

勿論ユダヤの教育と比較しながら研究する必要があることだろう。

明心宝鑑の訳は現在ない

ハングルの本を手にため息を吐くばかり。

ハングルができる方で、漢文の読み下し文ができる方は

翻訳に挑戦して頂きたい。

 

さて、統一教会も、漢文の精神文化の中から、気高い精神修養に最も相応しい短い文章を集めて、子供のための精神修養訓読集を編纂すべきかと思う。

日本の高僧には10才になる前に志を立てた方が多い。

一桁の歳で親元を離れ出家しようというのである。

こんな子供には、祝福子女であっても敵わないことであろう。

 

我々が目指すものは神才教育である。

神の心情を持って天賦の才能を人と世のために顕す者を輩出することである

その基準は真のお父様である。

お父様がどのような教育を受けてこられ、メシアとしての修養を身につけられてきたのか。書堂教育は重要な何かがあるはずである。

明心宝鑑などの記述のなかで、時代性に拘束されるものは除くことがあっても、

現代にも通じる普遍性のあるものは、子供たちに、お父様を慕って学ぶことができるよう環境を整えなければならない。

 

最後に陽明学者の岡田武彦先生の「ヒトは躾で人となる」から引用して筆を置きたい。

祝福二世がお父様の行かれた道を歩んで心情の王者になってほしいからである。

 

ヒトは躾で人となる

ヒトは躾で人となる

 

 

  心身未分化の時にすべき躾

 回帰の思想は東洋人の特色

 さて、ここで改めて何故幼児から、あるいは少年の時から躾をしなければならないのかを考えてみます。それは、前にも申しましたように、幼児や少年は心身が未分化であるからです。この未分化の時に躾をするということに、これまた特別な意味があることを忘れてはなりません。

 本来哲学というのは、物の未分化を悟り、これを身に付けるということであり、同時に人間の本来の生き方を求めるということでもあります。

 ところが、身と心が分化するにしたがい、この未分化の世界というものはなかなか探りにくくなってくるものです。つまり、だんだん年を取るにつれて身と心が分化し、それぞれが複雑な要素をもってくるからです。

 それでは分化したあとでは、躾もできず、哲学を求めることもできないかというと、そうではありません。分化した身と心をさらに分化させ、それぞれ研究していくと、分化しているはずの心と身がどうしても分化できず一体化していることが分かってきます。

 結局、分化を究めれば、未分化の世界に行くということです。ですから、この未分化の世界を求めていって、はじめて人間は究極のところに達することができるのです。

 現実問題として、これはなかなか容易なことではありませんが、要するに人間というものは未分化の世界から分化の世界に行って、また未分化の世界に帰ってくる。いうならば、「未分化から分化し、やがてまた未分化に帰る」、これが人間の正しい生き方です。これを私は「回帰(きわ)の思想」といっていますが、この回帰の思想を持つのが

 東洋人の特色なのです。

 この回帰で非常に大事なことは、未分化の幼児時代に、その核になりものをしっかりと養っておかなければならないということです。すなわち、躾の本来の意味である自己の生命力を発揮する根をしっかりと身に付けさせておくことです。それをやる前に、心とは、身とは、といって分析してやってはならないのです。それをやっては養うべき核は育ちません

 

蘇生期の幼児期は善悪未分化の本能によって生きている。(本能)

長成期の青少年期は理性によって分析的に物事を見ている。(分別智)

完成期の壮年期は全一的に物事を見ている。(無分別智)

 

岡田先生は知行合一を教育的観点から語っておられるのであろう。

統一原理を頭だけで理解しても無駄である。

心と体で覚えるべきである。