原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

信俊様は成約時代に我らを救う契約の箱舟   天聖経石版の心情実体!相対者候補を守護せよ! 

ノアには天宙を表す契約の箱舟

モーセには神の子を表す契約の箱舟

我々には最も父に似た信俊様という契約の箱舟

 

ノアの箱舟も モーセ契約の箱

英語では同じARK

契約の箱は堕落世界を表す苦悔から我々を切り離し聖別して下さる契約の箱舟である。

契約の箱と契約の箱舟とは、ほぼ同じ事を指している。

原理講論の正統な講義においては、それぞれ別個にその真意を解説されてきた。

しかし、これらはちょっと考えれば繋がって出てきたものであることが分かる。

復帰摂理上で登場する場面が違うし、言葉も違うのであるから厳密に言えば違うと考えるのが普通である。

だが、民の不信がなければ方舟は必要なかった

民の回心があれば洪水審判は必要なかったのである。

方舟に関して原理講論は

(2) 信仰基台を復帰するための条件物
 ノアが「信仰基台」を復帰するための条件物は、箱舟であった。それでは、その箱舟の意義はどのようなものであったのだろうか。ノアがアダムの身代わりとして、第二の人間始祖の立場に立つためには、アダムの堕落によってサタンの側に奪われた天宙を、蕩減復帰するための条件を立てなければならない。したがって、新天宙を象徴する何らかの条件物を供え物として、神の前にみ意にかなうようにささげなければならなかったのである。このような条件物として立てられたのが、すなわち箱舟であった。
 箱舟は三層に分けてつくられたが、その理由は、三段階の成長過程を通して創造された天宙を象徴するためであった。また、箱舟に入ったノアの家族が八人であったのは、ノアがアダムの身代わりの立場であったので、既にサタンの側に奪われたアダムの家族の八人家族を蕩減復帰するためであった。箱舟は天宙を象徴するので、その中に主人として入ったノアは神を象徴し、彼の家族は全人類を象徴し、その中に入っている動物は、万物世界全体を象徴したのであった。

天宙を象徴することに重点を置いて説明が為されている。

原理講論では方舟ではなく箱舟となっている。

ヘブル語では別々の言葉であるらしいが、英訳は同一のARKである。

ノアの時代はまだ御言葉が与えられなかった。

そこで御言葉や御言葉の実体を象徴することができなかった。

ただ、神と人類と万物を代表するもので天宙を象徴することが可能であった。

 

復帰摂理の講義には教訓がまとめられている。

以前に物事を考えるにはフレームワーク(考え方の枠組み)で考える方法と、

ケーススタディ(教訓)で考えるという方法の二つがあると語った。

統一原理にはいくつものフレームワークがあり、これを習得し活用するコツを覚えることは大変有意義である。

原理講論だけではなくヨハネ先生の牧会の書物から、フレームワークを抽出することも可能であると思う。

中間位置と条件などを使われるようである。

講論では四位基台であるとか、創造・堕落・復帰であるとか様々である。

 

話しを戻そう。

ノア家庭の教訓とは

また、ノアの家庭を中心とした摂理は、み旨成就に対する神の予定の在り方と、人間の責任分担の遂行いかんで神がどのような態度をとられるか、ということを私たちに見せてくださったのである。ノアの家庭は、神が一六〇〇年間もかかって求めてこられたのであり、また、ノアが箱舟をつくって四十日の洪水により、全人類を犠牲にしてまで立てた家庭であることを、我々はよく知っている。しかし、ハムの小さな過ちによってサタンが侵入するようになると、神は復帰摂理の対象であったその家庭全部を惜しみなく捨てられ、その結果、ノアの家庭を中心とする摂理は、失敗に帰してしまったのである。また、ノアの家庭を中心とする摂理は、人間に対する神の予定がどのようなものであるかを我々に見せてくださった。神はノアを信仰の祖に立てようと、長い期間を通じて苦労して探し求めてこられたにもかかわらず、その家庭が、いったん、責任分担を全うできなくなったときには、それを惜しみなく捨て、その代わりとしてアブラハムを選ばれたという事実を、我々は忘れてはならないのである

 

亨進様はハムの過ちを我々が犯してはならないとして、

6マリアを堂々と語られ絶対「性」の本質を語ってくださった。

お父様はタマルが切り開いた絶対「性」を完結する天道を歩まれ、天宙公認の勝利を果たされた。

その偉大な勝利を失墜させるべく、人間的な同情と哀れみで全てを木っ端微塵に破壊する者が出てきた。

 

アダム家庭のカイン・アベル・セツの3人を表す

セム・ハム・ヤペテは、さらに彼らを表す

顕進様・国進様・亨進様にバトンを渡された。

真の御父母様の2人と3人の子女様とそれぞれの相対者3人の合計8人が

心情一体の祭物として神の御心に適って捧げられなければならなかった。

この8数を持って真の御家庭が新しい段階に至って、神の祝福が地の果てまで広げられようとしていた。

ところが、我々お母様を支え、子女様を支えるべき者に問題が生じて、お母様は深刻な病になられ、3人の子女様の御家庭は奸臣どもに追放されてしまった。

我々も何がなんだか分からず、お守りすることができなかった。

役立たずだったからである。

 

ノア家庭の教訓は、この失敗をお父様と共に蕩減復帰された宋総会長などの方々に対する使命を明白に語っている。

父の心情に一体化できるよう3子女様を支えることである

天使長である弟子によって父と子が引き裂かれ、母と子が引き裂かれたのであるから、

蕩減復帰は弟子によって父と子が、また母と子が一つになることができるようにしなければならないのである

それによって父と母はまた一つになられるのである

この問題は真の御家庭の問題である前に

それを支える我々の問題として起こってきたものである

ノアの家庭は神が1600年精誠を尽くされて立てられた家庭であり、全人類を犠牲にしてまで立てた価値ある家庭であった。

真の家庭は、そのような家庭ですら比較することができない、神の心情の対象である。

お父様と共にノアの家庭を蕩減復帰した基準が、外的レベルか、内的レベルか、心情的レベルか。

それは、6マリアを中心とする絶対「性」を絶対信仰する亨進様と心情一体化できるか否かに現れてくる。

心情とは何か。

心情は抑えがたいと言う。

抑えがたいから、行為にならざるを得ないのである。

つまり、心に思っていてもそれだけでは心情とは言えないのである

これが内的基準か、心情的基準かを分けるのである。

神は常に御心に適った人物を立てて摂理されてきた。

そのような人物が信仰を表せなかったのである。

 

お父様は、朝、「兄弟がけんかしてどうするのですか。」

と言われ、

「たった一つの家庭でいい。」と絶叫された。

もう9年になろうか清平に行った時のことであった。

 

私は訪韓する前に神秘的な体験をしていた。

若い頃に、主の路程を聞く中で自殺した者のために1週間お父様が泣き続けたという話を聞いたことがあった。

そんなことがあるのだろうかとさっぱり理解ができなかった。

しかし、この証はずっと私の脳裏に強く残っていた。

数十年経って、神様の純粋感情の中にいるような体験をした。

この体験は十数時間に及び、一週間後に再び同じ経験をしたのである。

何故、純粋感情というかといえば、想像を絶する感情だからである。

まるで霧がしだいに我々を包み込んでいく。

その中心にある心情に相対すると、恐らく発狂するのではないかと思うほどである。

ずっとその心情に相対しないように必死で逃げて、やっとその感情の中から脱出できるのに十数時間かかったのである。

初めから最後まで逃げまくったが、それでもはっきり伝わってきたのは、とほうもない「悲しみ」である。

その悲しみは、誰一人としてお父様を支える者がいないという神の悲しみであった

 

そんなことをすっかり忘れていたら、清平でお父様が絶叫される姿を見た。

控え室に機材があったので、今、別の場所で語られているお父様を見ることができないか、あえて兄弟に頼んでみたのである。

兄弟は何とかなりそうですと機材の準備をしてくれた。

そこで映し出された映像を見て、私はびっくりしたのである。

これだ。これは自分が体験した神秘的体験そのものだ

自分たち信徒だけではなく、御子女様もそうなのか。

 

それからどれほどの年月が経ったか覚えていないが

ある時お父様が信俊様を養子にされたことが分かった。

私は、お父様は保険をかけられたのだと思った。

三代が重要であった。

二代の者たちが、信徒たちの不信仰に巻き込まれて、お父様の信仰と心情をたとえ誰一人相続することができなくとも、その時はお父様にうり二つの信俊様に託して、二代目が失敗した立場に立たないようにするためである。

 

かってノアの時代には不信仰をする民から切り離し神が臨在することのできる家庭を求めて神による契約の箱舟が用意されたように、

 

かって民の不信仰が極まり 信頼するモーセまでも倒れるかも知れないことを感じ、

ノアの時代にはなかった御言葉とその実体として歩む摂理をあえて後退させ、

それ自体が不信仰することのあり得ない契約の箱を立て、たとえモーセが不信仰に陥っても、この契約の箱を信仰する者があれば神の摂理を進めることができるように施されたのであった。

 

 大変不謹慎でこのようなことを語るのは恐縮であるが、

支えるべき信徒たちの不信仰によって、万一子女様のうち一人も神の願う絶対基準で信仰と心情を体恤することができず、2代目が成就しなかった時に備えて、信俊様を養子にし、2代目とする道も別途用意されたのであったと思われる。

 

民の不信仰が確立 → 中心人物までもと心配 → 契約の箱

 

しかし、契約の箱は 御言葉の実体としての中心人物から、御言葉への後退であった。

そこで、お父様は、後退ではなくさらに前進するためにご自分にそっくりの信俊様を選ばれたのである。

聖教の実体として選ばれたのだといっても間違いではないであろう。

 

それでは契約の箱とはいったい何であろうか。契約の箱とは、至聖所に安置する律法の櫃であって、その中にはイエスと聖霊、すなわち天と地とを象徴する二つの石板が入っていた。そしてまた、そこには荒野路程におけるイスラエル民族の命の糧であり、また、イエスの体を象徴するマナが、神の栄光を表象する金の壺に入れられて安置されていたのであり、また、イスラエルに神の能力を見せてくださった、芽を出したアロンの杖が入っていたのである(ヘブル九・4)。このような点から見るとき、契約の箱は、大きくは天宙の、そして、小さくは幕屋の縮小体であると見なすことができる。

 

もしイスラエル民族が不信に陥らなかったならばモーセの家庭幕屋の代理であり、モーセ石板と契約の箱の代理であり、また、モーセの家法は、天法を代理するはずであったから、彼らには、石板とか契約の箱とか幕屋とかが必要ではなく、そのままカナンに入って、神殿を建てるはずであったのである。ゆえに、石板と幕屋と契約の箱は、イスラエル民族が不信に陥ったので、彼らを救うための一つの方便として下さったものなのであった。幕屋はイエスと聖霊の象徴的な表示体であるから、神殿を建てるときまで必要だったのであり、神殿はイエスと聖霊の形象的な表示体であるから、実体の神殿であられるメシヤが降臨されるときまで必要だったのである。

 「モーセの家法は、天法を代理するはずであった」と書かれている。

我々で言えば、家庭盟誓がそのまま天一憲法であるということである

基準の低いものが付け足せば付け足すほど、かえって心情が薄められていくのである。

 

我々信徒がお母様を支えきれない時に、奸臣が現れた。

御子女様を支えきれない時に、暴徒が現れた。

問題の本質は信徒の側にあるのであって、真の御家庭にはない。

サンクチュアリ教会もお母様のお写真の取り扱い方には細心の注意をすべきである

決してサタンのように印象操作をしてはならない。

お父様であれ、目を患っておられるお母様であれサングラスをかければ

人相が良くなるはずはない。

もし、お疲れであられ、椅子を深くして座らず、幾分ずらして座わり、サングラスをかけたところを、写真にすれば、ふんぞり返っているかに見えることだってあることだろう。

お母様は我々の不忠によって深い病になられておいでなのであるから、意識的に印象操作をすることは勿論、無意識のうちにもそのようなことがないよう願いたいものである。

亨進様が語ることは亨進様にしておっしゃることができるものである

むしろ、亨進様にここまでお母様について語らしめてしまい、それまで放っておいて何もして差し上げられなかった我々の罪を問うべきである。

亨進様と共に行くなら、何よりもお母様をお救いすることを志とすべきである。

 

さて、私がサタンなら、誰も気がつかぬうちに、信俊様に相応しい相対者候補をたたきつぶしていくだろう。

また、一方では信俊様ではない御孫様の台頭を計ることであろう。

これらのことに我々は用心するに越したことがない。

宮中では、何時の世も、神とサタンが血統を巡って争いを為した。

我々も例外ではなかったのである。

 

昨日見たチャングムでは、とうとうチャングムの愛する王妃が王の願う世継ぎを葬り去るようチャングムに要請する。

王と王妃を共に深く愛するチャングムは王妃にむしろ殺して下さいと懇願する。

にっちもさっちもいかない道。

誰かと共にあるというのは、形だけの方便のようなものである。

大したことではない。

チャングムのように

「むしろ殺して下さい」という心情で、生きて仕え、真の御家庭を取り戻すべきである。

なにしろ、我々信徒の不祥事によって、謂われなき罪を負い、引き裂かれた御家庭であるからである。

 

親孝行の顕進様が一刻も早く国進様や亨進様と共に御旨を推進させて下さることを祈って止まない。

聖和されたお父様に政治的リーダーシップを期待されているのは、顕進様だからである。

王はお父様である。

支えるべき三足が子女様である。