天一国の王の政に従事したが 自分の業績として残すものがなく終わることがある。
王子に侍り従ったが 自分の利益として残すものがなく始まることがある。
また楽しからずや。
このように、箱舟が完成されたのちに、神は四十日間の洪水審判をなさったが、この審判の目的は何であったのだろうか。創造原理によれば、人間は一人の主人に対応するように創造されたので、淫乱に陥って、既にサタンと対応している人類を、神がもう一人の主人の立場で対応して、非原理的な摂理をなさることはできなかった。ゆえに、神だけが対応して摂理することのできる対象を立てるために、サタンの相対となっている全人類を滅ぼす洪水審判の摂理をなさったのである。
ノア家庭
アダム家庭の身代わり、すなわち代身者として立つべきノア家庭は、アダム家庭崩壊の根本原因である淫乱に勝利して、絶対「性」を確立することによって、神だけが対応して摂理することのできる対象となるべきであった。
神が人類に与えて下さる賜物は、容易に受け取ることができる者としてではなく、簡単には、それどころか絶対に受け取ることができない様相を持ってやって来る。
日照り続きで大雨が降って大洪水になるような兆候は微塵も感じることができず、巨大な箱舟をしかも山の頂上に造れと言う途方もない天意が下され、120年間の精誠を天に捧げられて淫乱聖別と唯神相対の信仰基台をノアは勝利され信仰の祖となった。
ノアの勝利圏を相続する者は、
創世記九章20節から26節までの記録を見れば、ハムは自分の父親ノアが天幕の中で裸になって寝ているのを発見し、それを恥ずかしく思ったばかりでなく、善くないことと考え、彼の兄弟セムとヤペテとが恥ずかしい気持ちに陥るように扇動した。このとき、彼らもハムの扇動に雷同して、その父親の裸体を恥ずかしく思い、後ろ向きに歩み寄って、父の裸を着物で覆い、顔を背けて父の裸を見なかった。ところが、これが罪となり、ノアはハムを呪って、その兄弟の僕となるであろうと言ったのである。
絶対「性」の勝利者であり継承者でなければならない。
それこそが、父と子の心情一体の因縁であるからである。
それでは、神はどうしてこのような摂理をされ、また、裸を恥ずかしく思ったのがなぜ罪となったのであろうか。その内容を知るために、我々はまず、どのようなことをすれば罪になるかという問題から調べてみることにしよう。(罪とは神から離れて、サタンと相対基準を結ぶ条件を成立させることをいうが)サタンも、ある対象を立ててそれと相対基準を造成し、授受の関係を結ばなければ、その存在、および活動の力を発揮することができない。ゆえに、いかなる存在でも、サタンが侵入できる条件が成立し、サタンの相対となって、サタンが活動できるようになったときに、そこで罪が成立するのである。
そこで「善徳女王」のミシル(美室)は
「人を得た者が勝つ」
と言ったのである。
神の代身として立たれるお父様は、完全無欠であられる。
創造されたアダムとエバが、お互いにどれほど親しくまた近い間柄であったか、また、どれほど神に対しても、その前で隠し立て一つしない、水入らずの関係であったかということは創世記二章25節に、彼らはお互いに裸であっても、恥ずかしいとは思わなかったと記録されている事実から推察してみても、十分に理解できるのである。しかし、彼らは堕落したのち、自ら下部を恥ずかしく思って木の葉で腰を覆い、また、神に見られるのを恐れて、木の間に身を隠した(創三・7、8)。それゆえに、彼らが下部を恥ずかしく思ったという行為は、下部で罪を犯し、サタンと血縁関係を結んだという情念の表示であり、下部を覆って隠れたという行動は、サタンと血縁関係を結んでしまったので、神の前にあからさまに出ることを恐れた犯罪意識の表現であったのである。
四十日審判によりサタンを分立した立場にあったノアは、天地創造直後のアダムの立場に立たねばならなかった。ここで神はノアが裸でいても、その家族たちがそれを見て恥ずかしがらず、また隠れようともしない姿を眺めることによって、かつて彼らが罪を犯す前に、どこを覆い隠すでもなく、ありのままに裸体を現していた、汚れのない人間の姿を御覧になって、喜びを満喫されたその心情を蕩減復帰しようとされたのである。神はこのようなみ意を完成なさるため、ノアを裸で寝ているように仕組まれたのである。したがって、ハムも、神と同じ立場から、神と同じ心情をもって、何ら恥ずかしがることなくノアと対したならば、ノアと一体不可分のこの摂理の中で、罪を犯す前、恥ずかしさを知らなかったアダムの家庭の立場に復帰する蕩減条件を立てることができたはずなのである。
問題は常にお父様の側にあるのではなく、
お父様の心情に相対する善の側近とお父様の心情に遠い悪の側近の攻防戦の勝敗にある。
善の側は悪の側を包囲し自然屈服させなければならない。
神もお父様も側近を通してしか何事も成すことができないのである。
韓流の時代劇はそのことを我々に教示している。
ハムはたとえノアが裸になって寝ているのを自分では善くないことだと思ったとしても、(かつての箱舟の建造の場合のように、ここには何か深い訳があるのだということを賢明に悟って、分からずとも)あくまでそれを善いこととして見なければならなかったのである。しかしハムは、自己を中心として(自己の基準で)天の側に立っているノアを批判し、またそのことを行動に表したので、神がアダムから一六〇〇年も待って、四十日洪水審判を行使して立てられたノアの家庭を中心とする摂理は、結局成し遂げられなかったのである。これは、我々が神への道を歩むに当たっては、どこまでも謙虚と従順と忍耐の心がなければならないということを見せてくださっているのである。
ノアの家庭から学べることは、
1,中心人物(後継者)は現実的な最適解の持ち合わせや、この世的な能力によって推薦支持され立てられる者ではない。
2,中心人物(後継者)は、絶対信仰・絶対従順・特に絶対「性」に関する要件と信仰告白が満たされなければならない。
3,中心人物(後継者)は、「裸を恥ずかしがらず、また、それを隠そうともしないという感性と行動とを見せることによって、サタンと血縁関係を結ぶ前の、アダムの家庭の立場を復帰するための蕩減条件を立てなければならなかった。
ノアが「カナン(ハムの子)は呪われよ」と言ったことは
ノアが絶対「性」の基準を立てていたので、叱責することができた。
また、ハムではなくハムの子カナンを呪ったというのは、ハムの失敗が後孫に及ぶことを暗示している。実際カナンの子孫のカナン人は淫乱に乱れている。
:18)箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。
:19)この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。
:20)さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、
:21)彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
:22)カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
:23)セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。
:24)やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、
:25)彼は言った、/「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、/その兄弟たちに仕える」。
:26)また言った、/「セムの神、主はほむべきかな、/カナンはそのしもべとなれ。
:27)神はヤペテを大いならしめ、/セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。創世記9章
セムの後孫がエジプトにはいって、そこを出て主流になり、セム族というのは東洋にも移動しているという。
私は歴史に疎いが、セム族がモンゴルの主流を経て、高句麗や日本に至っているのかも知れない。ダン族が朝鮮の先祖にいたのではということを若い頃よく聞いたが、どうなのだろう。お父様がモンゴルを重視したというのは、何か中心民族の主流と関係があり、お父様のご先祖にも関係があるのかも知れない。
この辺りは根拠のない私の空想である。
ノアは、アダムの身代わりとなって、アダムにサタンが侵入したすべての条件を除去すべき使命を担っていたのである。それゆえに、ノアの家庭は、裸を恥ずかしがらず、また、それを隠そうともしないノアは、アダムの身代わりとなって、アダムにサタンが侵入したすべての条件を除去すべき使命を担っていたのである。それゆえに、ノアの家庭は、裸を恥ずかしがらず、また、それを隠そうともしないという感性と行動とを見せることによって、サタンと血縁関係を結ぶ前の、アダムの家庭の立場を復帰するための蕩減条件を立てなければならなかった。したがって、裸を恥ずかしがらず、また、それを隠そうともしないというかたちでの蕩減条件は、アダムの家庭の代わりに立てられたノアの家庭だけが立てるべき条件だったのである。
4,中心人物(後継者)は、自己の基準ではなく、天の側に立っている者の基準を相続しなければならない。
ハムはたとえノアが裸になって寝ているのを自分では善くないことだと思ったとしても、(かつての箱舟の建造の場合のように、ここには何か深い訳があるのだということを賢明に悟って、分からずとも)あくまでそれを善いこととして見なければならなかったのである。しかしハムは、自己を中心として(自己の基準で)天の側に立っているノアを批判し、またそのことを行動に表したので、神がアダムから一六〇〇年も待って、四十日洪水審判を行使して立てられたノアの家庭を中心とする摂理は、結局成し遂げられなかったのである。これは、我々が神への道を歩むに当たっては、どこまでも謙虚と従順と忍耐の心がなければならないということを見せてくださっているのである。
いささか重複があるが列挙すると以上のようになるのかも知れない。
顕進様の悲劇は、お父様と共に御旨の最前線で活躍され、お支えになられて来られたが、現実的判断をすれば顕進様が100%正しいとしても、お父様の否定を受けられ、現実ではなく神意を尋ね求めなければならない。
顕進様御自身は「この方こそ来るべきお方ではないか」と信徒が期待するほどの天品を持たれ、信徒の希望となっておられた。またその相対者であられる全淑様との理想相対としての有り様も、お子様方を育てられる姿も、決して皇族としての特権を許さず、一般信徒の子供たちと同様に育てられてこられた。
どこを見ても我々信徒と統一運動の希望であり明日の勝利を予感させるものであった。
顕進様は、一旦父と離れるも、御自分の信念の正しさと、お父様に対する孝心を、実績を築いて帰ってこられ、父の御前に献上されて、身の証を立てられる決意であられたのかも知れない。
だが、これがこの世の王朝の中で繰り広げられたものであれば、美談になったことかも知れないが、お父様は王である前にメシアであられる。
メシアの命に服し従わないならば、その行為はメシアとして受け取らないという、信仰告白になってしまうのである。
現実的に見たら最適解であると誰しも思うことが、
信仰的に見たら最悪解であることが存在することを
ノアの家庭は我々に教示して下さっているのである。
神はノアを信仰の祖に立てようと、長い期間を通じて苦労して探し求めてこられたにもかかわらず、その家庭が、いったん、責任分担を全うできなくなったときには、それを惜しみなく捨て、その代わりとしてアブラハムを選ばれたという事実を、我々は忘れてはならないのである。
神の予定は人間の責任分担完遂如何にかかっている。
我々が、神の摂理上決定的重要局面で御子女様を支えうるか否かにかかっている。
父と子の絆を破壊した張本人である我々信徒が、お父様が生きておられる内に、父と子の絆を再び取り戻すことができるよう、天命を受けて全うできていれば、半年1年と離れていた期間も、さらに強い父と子の紐帯を結ぶ事に至るための善の期間として転じたことであろう。
我々は誤った方向に子女様を支えて、父が天に旅立つ日すら引き裂いてしまった。
聖和され天に向かう父に向かって、大地の砂塵と灰をかき集め、天空にまき散らしたものをかぶって、衣を引き裂いて、「アバ父よ」と慟哭して止まない屈辱の日であった。
三代で真の家庭を天に捧げる父の悲願は、もしや一人の男子も勝利することができなくなりかねない、サタンの攻勢に手をこまねいて見過ごすことはできなかった。
モーセの時は中心人物から後退して不信仰をおこすことのない契約の箱舟が与えられたように、後退せず、むしろ前進させるために、信俊様を養子として迎え、二代目が全て責任を果たせなくとも、彼が成し遂げる道を造られ、真の家庭の二世が失敗しない立場に立つ保険をかけられた。
誰か二世が勝利するも良し、さもなくば信俊様が勝利するも良しの万全の体制を構えられた。
延々と続く訓読会も、ひとたび信俊様が現れれば、父は喜びに満たされ動きが止まってしまわれた。
なぜなら信俊様こそは父の心情の対象者であられたからである。
三代王権相続完成者信俊様
文亨進様と一緒に真の御父様に帰ろう!참아버님 문형진님 !: 三代王権正統相続完成者 文信俊様の証
御父様は新しくおうまれになったお孫様をご覧になったあと「この子ではない、先生が待っている孫が生まれてこないと。」と仰っていました。
しかし2004年5月10日(陰暦3.22)にお生まれになった信俊様をご覧になり「ついに生まれた!! 先生でさえもお前たち夫婦にこの孫が生まれるとは思いもしなかった。」と
たいそう喜ばれました。
洗礼ヨハネはイエス様と腹違いの兄弟であった。
イエス様は御自身を「人の子」と言い、多くの人はイエス様のことを父ヨセフの名前を使わずに、母「マリアの子」とした。
ヨセフが絶対「性」の信仰を夢で知らされていた啓示を信じ貫いていたら、ヨセフ自らがイエス様を私の子であるとして大切に育てていたことであろう。
ヨセフの不信仰は、他人にもイエスが不義による子であると思われる窮地にイエス様を追いやった。ヨセフはイエス様を奴隷のように扱ってしまった。
一方洗礼ヨハネも、母エリサベツとイエス様の母マリアが兄弟であり、親戚の関係であり、ヨセフがマリアが誰と不倫を犯してイエスを生んだか調べ、マリアが懐妊したした時にはどこにいたか(エリサベツの所にいた)、またイエスの成長と共に顔が誰に似てくるかなどからマリアの相手を特定していった噂を聞いていたことであろう。
恐らく母エリサベツとマリアの関係がぎくしゃくし、また夫のザカリアともめたかも知れない。そのような家庭環境で、元々は祭司長の子として生まれた信仰の人ヨハネは、父から学ぶのではなく、父のもとを離れ荒野に単身修行に出て行かざるを得なかったことであろう。
しかし、その信仰を神は御覧になられ、来るべき方に聖霊が鳩のように舞い降りることを通して、絶対「性」を信仰で超えよ、勝利せよと激励されたのであった。
:18)ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、
:19)主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。
ルカによる福音書 7章18~19節
十戒には、「汝姦淫することなかれ」とある
この神の御言葉を、絶対「性」で洗礼ヨハネは超えなければならなかった。
我々のように血統転換の秘儀を知らない旧約の信仰でこれを超えなければならなかった。
彼はイエス様と血を分けた有能な兄であった。
生まれた時の奇跡は全ユダヤの隅々にまで伝わり、彼こそはメシアではないかと待望する者も少なくなかったことであろう。
修行生活実践生活は圧巻であり、圧倒的迫力で人々の罪の悔い改めを迫った。
1)皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、
:2)アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。
:3)彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。
:4)それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち/「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。
:5)すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、
:6)人はみな神の救を見るであろう」。
:7)さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。
:8)だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
:9)斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。
ルカによる福音書3章1~9節
「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか」
と言うのだから、洗礼ヨハネには人類始祖の原罪が姦淫であることを知っていたのであろう。イエス様もこの洗礼ヨハネの言葉を引き継ぐように同様の表現をされている。
:33)へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。
マタイによる福音書23章33節
イエス様と洗礼ヨハネが一体化できず離ればなれに行動することになった時点が
神の摂理のターニングポイントである。
地上天国実現から十字架の道への遠因になっている。
これはお父様と顕進様が袂を分かったあたりに似ている。
何故、誰も父と子の絆の修復に奔走しなかったのであろうか?
死を持って覚悟する三弟子が、ゲッセマネの園でイエス様と心情を共にできれば、
自分たちが「主の山に備えあり」の十字架の祭物となり息絶えて、代わりに主に生きながらえていただく道を提供できたはずであったように、
顕進様にはそのような神願う3弟子が存在せず、
従って、お父様の存在基盤である3男子が結集できず、
天使長の謀略の責任を取って聖和されざるを得なくなってしまった。
祝福家庭の使命とは、3双の祝福時の御言葉の実現に侍ることである。
1960年4月16日(陰暦3月21日) ソウル市 龍山区青坡洞前本部教会
金栄輝先生と鄭大和先生、劉孝元先生と史吉子先生、金元弼先生と鄭達玉先生 祝福の儀式は、第一次式「万物復帰の式」、第二次式「子女復帰の式」という順番で挙行されました。「ノアの家庭においても、また、アダム家庭においても、3人の息子とその嫁3人の6人、そこに父母を加えて8人が完全に決定したら、復帰することのできる勝利的な基台は造成されるのです」 (1960年4月16日に語られたみ言)
洗礼ヨハネの使命は
1,メシアを証しする
2,メシアに仕える
3,メシアに繋げる
韓国でのマスコミのインタビューにおいての顕進様のお父様を誰であるかというような質問に対して、我々の期待に反して、メシアである、キリストである、再臨主であるというような信仰告白は為されていない。アメリカでのインタビュー時とさして変わらない。
お父様の命令に従わず、別行動をとられ続けている。
そこで、お父様に信徒を繋げることができずにいる。
何故かくも優秀な子女様がこのような迷いの中に立ちずさんでしまうのであろうか?
それは、洗礼ヨハネの時と同じように、絶対「性」の問題が絡んでいるからである。
子女様たちがどうして様々にお悩みになられることがしばしば起こってきたのであろうか? 極めて優秀でお父様に似ておられる方々が・・・
それは御家庭の中で6マリアの現実を見てきたからであろう。
そこで、誰かが突破しなければならなかった。
ついに亨進様が勝利されたのである。
亨進様は代身者・相続者として予定されていただけで終わることなく、
御自身も絶対「性」の信仰を勝利されたのである。
亨進様は、
絶対「性」によってメシアを証し
絶対「性」によってメシアに仕え
絶対「性」によってメシアに繋げる
後継者としての使命を果たされているのである。
真の父母は一代限りの人類の始祖である。
お父様が持つ権能を与えられ代身になるゆえ
常に父を証し、父に仕え、父に繋げる者が
相続者でなければならない。
真の御家庭は常に側近たちによって翻弄されてきた。
お父様が成そうとされる御旨を、勝手に自分の功績としてしまい盗み、また天の財産を横領して私的所有としてきた。
天一国の王子に仕える者たちは、けっしてその因縁から利益を得ることなく、かえってそれ故に天の伝統の嚆矢としなければならないことだろう。
そこで天は語るであろう。
王事に従うも 成すこと无くして終わり有り
王子に従うも 利すこと无くして始め有り