原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

直接的啓示と間接的啓示

真の御父様は、「地上生活と霊界」において、『霊的体恤の過程』として、暗示の段階→啓示や指示の段階→黙示の段階→臨示の段階(臨示という言葉を文鮮明 恵師は使われていない。編集者は「君臨(実体役事)」という見出しを付けている。段階という表現はないが、それがあることが説かれている。適切な漢字一字が見つからないので、神が自己の内に臨在され住まわれるという意味で「臨」を用いてみた。)

臨示については神によって直接的に主管を受け直接主管圏内で生きなければならないと語られている。

 天が直接的に現れて、関係するのです。神様の直接主管圏ということです。神様が現れても、皆さんは分からないために、先生が現れて代身になるのです。そのように直接主管を受ける圏内で生きなければなりません。(91-184)

詳細は「地上生活と霊界」を参照してほしいが、表題の直接的啓示とは師の言う「啓示や指示」を、また間接的啓示は「暗示」を指している。

この御言葉を意識して区別してきたわけではないので、言葉が違ってきているが、師の正確な教えを記すことが妥当であると考え、念のため引用することにした。

極めて重要な内容だからである。

自分の霊性の開発がどこにあるのかの指標になるかも知れないからである。

かって李想憲先生がお父様の御言葉を基に勝共理論や統一思想を築き上げるようになった経緯を証されたことがあった。そのようなものを誰かが纏めなければならないというようなお話があって、ご本人は一般的なお話だと受けとめていたが、ある信徒に「あなたがしなければならないということですよ」と指摘され、悟られて執筆作業を始められたという。

その際に悟られた内容は、メシアが直接的に指示した者が結局結果が出せなかった際には蕩減を負うので、間接的な表現を使われて、本人の5%の責任に置いて悟って始めさせる事によって、このリスクを回避できるように配慮されておられるということである。

原理講論や統一思想・勝共理論の構築ともなれば、通常の指示とは桁違いに難易度が違ってくる。そこで万一のためにご配慮されたのであろう。

文鮮明 恵師の愛の凄さは、本質的な愛であればあるほど隠されるということが一つの特徴であるのかも知れない。

この貴重な証を動画を通して学ばせていただき、自分なりに啓示に関して応用してきたことが、直接的啓示と間接的啓示である。

現在はお父様をはじめとして、御子女様や多くの信徒が霊界におられ、霊界の様相は一変したと思われる。

しかし、興進様が天に召される以前に置いては、霊界はほとんどがサタンが主管する世界であったと推測される。なにしろ、地上生活を経て旅だった人々が霊界の住民であることから、つまり神様の心情を体恤して霊界に移り住んだ人などいないし、ほとんどは罪や堕落性に汚染された堕落人間が、そのまま霊界に行ったわけであるから、ほとんどそこからの情報は当てにできないと考えていたのである。

言ってみれば霊界のほとんどが悪霊人の住む地獄であるということである。

お父様は否定はしないが、瞑想を積極的には勧めていない

思うに、無我になり、絶対対象に立つと霊界が絶対主体になる。つまり簡単に霊界に主管されてしまう情況になる。

しかも、そこは基本的にはサタンが君臨する世界である。

問題なことには、第一にサタン先行。つまり血統的因縁もあり、善の勢力より先に悪の勢力が人間に働きかけることができる。第二に似善含偽善の天使を装って、善の言葉に偽の言葉である悪を忍ばせて語りかけてくる試練がある。

霊的体験を経て試行錯誤してみなければ、容易には真偽をを判断できかねるというわけである。

そこで、李想憲先生の証から、直接的啓示を受けることに価値を置くよりも、われわれ平信徒に置いては、間接的啓示をもっと意識し有効に活用すべきであると考えたのである。間接的啓示は森羅万象に現れうる。鳥の羽ばたき、ひとひらの木の葉が舞い落ちる様子、他人の何気ない会話、新聞やテレビ、歌、電車の轟音、水面に浮かぶ月影。というように何でもなりうる。

例えば「易」や「ノストラダムスの預言」なども間接的啓示として捉えると良いのではないかと考えている。

霊界と地上界それぞれにその記述が知られている。この動かすことのできぬ事実を双方が用いて、霊人は地上人に伝えたい内容を、また地上人は霊人に伝えてほしい内容を5%の自己責任において成果を得ようとする授受作用、すなわちコミュニケーションをとるための一つのお膳立てであると見ることができる。

例えばノストラダムスはその暗示的表現によって本人が語りたかった個別的なものを表現したのであろうけれども、地上人の個別的要請に応えてノストラダムス或いは別の霊人が有益とおもわれる暗示をもたらすために働いていると考えることができる。

ノストラダムスといえば「人類滅亡の日」がよく取りざたされてきた。だがもう人類はとっくに霊的に滅亡しているのである。

そこで、イエス様は「あなたがたは生きているというのは名ばかりで、実は死んでいる。」とおっしゃられたのである。

我々信徒に置いては、そのようなことは論外、とくに外的現象として捉える滅亡などというものは、ある意味どうでもよいことであり、内的本質としての滅亡、すなわち永遠の生命問題こそ関心の対象である。

それ故、ノストラダムスを学ぶも、そのような姿勢が望まれると考えるものである。

ついでに、地上人の個別的要請に相対して、直接的啓示が本人ばかりか、別人によって為されることもあり得ることに言及する。地上人を激励するために他人の名を借りて協助することがある。

このあたりは善悪の判別がしにくいところになる。

例を挙げると、インドに仏教徒一億のトップに立つ 佐々井秀嶺 ( ささいしゅうれい )がいる。龍樹と名乗る者から啓示を受けてタイよりインドに赴くこととなる。しかし、よくよく考えれば龍樹を名乗った者はアンベードガルではないかということになる。

私見では、龍樹は信仰、つまり悟りを開く途上の人に協助することは得意であろうが、実体、つまり地上を福地化し地上天国実現の運動を展開することは不慣れなのであると考える。

そこで、共通の意識を持っている佐々木氏に激励の意味をもって龍樹を名乗り、カーストに喘ぐ人々の解放のために、アンベードガルが働きかけたと見てほぼ間違いはなかろう。

大切な点は、一時的に霊人は地上人を主管することがあっても、その後脇役として対象の位置に戻り、地上人を主体に立てて共助するならば善霊とみてほぼ間違いないと思われる。

善霊は協助し、悪霊は支配する。

善霊は自発的動機をもたらし、悪霊は悪霊の動機で操作する。

誰しもだまされながら学んでいくことになるのであろう。

地上の生活と同じ事である。

 

インドに仏教を広める日本人・佐々井秀嶺上人

 

間接的啓示とはいえ、決して侮ることができない体験もある。

どのような感覚であるかというと、間接的啓示を受けた際に脊髄に電気が走るような衝撃が走る。その結果、無信仰であっても「神様、確かに受け取りました。」と無意識に思わず呟いてしまうことが起きてくる。

 

蕩減を負わず、霊界に依存し過ぎることのない、自己責任による間接的啓示の活用をお薦めしたい。

 

ヨセフやマリアは直接的啓示がありながら道を間違えた。

マザー・テレサも直接的啓示がありながら神を見ることが難しかった。

それとも、間接的であったのか?

われわれ凡人は間接的啓示を有効に活用することから道を求めたい。

つまり文鮮明 恵父がおっしゃる最初の段階を充分に体恤してから、次に段階に進んだ方が良さそうである。

マザー・テレサは聖女になりたかったのであろうか?

決してそんなことはないであろう。

たとえ50年にわたる信仰の苦悩の告白が日記によって明らかにされようとも、

よくも、そのような試練の中で生涯を奉仕生活に貫いたものである。

見事である。

彼女以外の誰が為し得ようか!

真実を求める中での苦悩は輝きを放つことであろう。

それは永遠に変わりはしない。

心からマザー・テレサを敬愛申し上げる。

 

武田吉郎氏の「再臨主の証明」という本の後書きから以下に引用する。

サム・マシラモニー牧師が神学を学んでいる時に、校長からマザー・テレサの手伝いをしにインドに行くよう言われた。1960年代は彼女の活動はあまり知られておらず、そこで共に7年活動されたという。

 

 彼はある日マザー・テレサに、「レバレンド・ムーン(文牧師)を知っていますか」と尋ねた。それは当時、文師が多くの人々を集めて結婚式をしているという話で持ちきりだったからである。その時マザー・テレサは、「レバレンド・ムーンは預言者である」と答えた。さらにマザー・テレサは、「あなたは注意深く、レバレンド・ムーンの言うことを聞かなければなりません」と言われた。さらに語られたのは、次の言葉であった。

「もしすべての宗教を一つにすることができる人がいるとすれば、それはレバレンド・ムーンです」

サム・マシラモニー牧師はその後どうなり、何を悟られたのか?

それは以下の本をお読みくだされ。

 

再臨主の証明