お父様も、李相軒先生も、大母様も、興進様も皆、霊界に旅立たれても思うことは、我々地上の祝福家庭の堕落性の克服と罪の精算によって、個性完成をして永遠の世界で天国生活を送ることであった。
清平での役事と修練会も、結局のところ個性完成と創造理想の家庭を造ることを願われていた。そして天地にそのような祝福家庭を繁殖して行くことを願われた。
霊界と地上界は、神の心情とみ旨を中心にして、和動しながら責任を達成することが重要であることを、興進様は教えてくださったのである。
そこで、真のご家庭においても、霊界では大母様や忠母様や大兄様にご子女様方が一つになって御旨を邁進することに呼応して、地上においても一体化を促進化する工夫と精誠が為されなければならないというのである。
興進様は御自身の場合を例にされて、お父様の御言葉をこのように語られた。
真の父母様は、「単に、私とイエス様が一つになることを越えて、統一教会とキリスト教が一つになるためには、霊界でまず一つになり、地上もそのように統一的な道をゆくことができるようにしなければならない」通っしゃいました。
興進様が、何故このような御言葉を強く意識されたのかというと、「深い心情的なつながりが弱かったので、イエス様や聖人との関係の中で、私が、どのようにしなければならないか、躊躇していました。」と語られている。
聖和されて霊界に来られ、お父様によって霊界の総司令官に任命された当時は、堂々と仕事をすることができる雰囲気ではなかったと語られている。
霊人たちの間では、地上で信じてきた宗教が、それぞれ違うので、自分の知っている宗教的な意識と基準だけで、すべてのものを判断しようとし、自分の宗教の内容のみに関心を持っていました。非宗教圏でも同様で、地上で生きてきた自分の考え方と慣習のみに執着して、他のものに対する関心を持っていませんでした。
現在の統一家も同様に、3つに分かれ、
「自分の知っている原理的な意識と基準だけで、すべてのものを判断しようとし、自分の原理観の内容のみに関心を持っていました。」
というように言葉を置き換えてみると、同様の混乱があり、またそれぞれの組織内においてもさらに同様の問題を抱えていると言わざるをえない。
このような問題を生きているときに解決できずに霊界に行けば、様々な支障を来すことになる。
実際に、地上で考えるのとは違って、霊界では、ある所から別の所に簡単に行くことができないので、真の父母様のそのような宣布(総解怨式)と愛がなかったならば、霊界で私が仕事をするのは、本当に困難であったことでしょう。
霊界は、心の世界と同じなので、ある考えや意識で一度、固まってしまうと、簡単に変わりません。ですから、ある宗教を信じている霊人が、集まって暮らしている所から他の宗教を信じている所に行くということは、非常に難しいことなのです。
「ある信仰観を信じている霊人が、集まって暮らしている所から他の信仰観を信じている所に行くということは、非常に難しいことなのです。
このまま行けば、統一家の中でも霊界にいくつものグループができてしまうおそれがある。一体これをわれわれは神様のために、どのようにして地上で解決しなければならないのであろうか?
み言葉の背後にある心情を復帰するためには、私自身が堕落性を如何に脱ぎ去り、罪と関係のない生活をすることができるか否かにかかってくるであろう。
結局のところ、自分の課題と真剣に向き合って、一日一日信仰生活を重ねていく他に安易な道などあろうはずもない。
原理にもあるように、霊界へは、誰がか送ってくれるのではなく、自分の霊人体の成長の程度によって自ら訪ねていくので、そのような基準で地上の生活を振り返ってみれば、これからどのように生きていかなければならないかわかるでしょう。・・・・
ですから、地上で祝福を受けたのちに、悪霊を分立して堕落性を脱ぐことが、どれほど重要か分かりません。それは、霊界での自分が暮らすことのできる環境の変化を決定するからです。
亨進様によって先祖解怨をしていただいとということは、今度はわれわれ地上人が責任を果たさなければならないということである。
実際に、地上の祝福家庭は真の父母様の勝利的基台のみに頼ったまま、自分の体と行いを深く振り返ることをおろそかにしていました。「もしかしたら、サタンが自分に侵入し得る条件を立てるようなことをしいないだろうか?」「そのような堕落性をもっていないだろうか?」と、深く振り返ることができませんでした。ですから今からでも、自分を完全に浄化させ、創造本然の真の子女の姿に生まれ変わる努力を傾けなければなりません。
そこでヒントになるのが以下の興進様のみ言葉である。
「善神の業と悪神の業」を信仰生活にどう応用するかがカギを握っているのである。
地上人の体の中に、多くの悪霊がついているということは、自分が犯した自犯罪と、先祖の罪が受け継がれて現れた結果を意味しています。罪は、堕落性を通して、サタンとの相対基準を結んで、天法に違反した結果なので、罪には事情があり、関連した者がいるようになっているのです。
日常生活のある情況下で 、ある人との交わりの中で、生じてくる感情を如何にコントロールできるか、これを日々訓練しなければならないということである。
かって清平では悪霊分立の役事が為されてきた。その時の参加姿勢は、
他人を見物するようにおこなうのではなく、「自分の内面に潜在している悪なる性禀と堕落性を、少しも残さないで取り除こう」という自主的なものでなければならないと、興進様は語られた。
さもなくば、「時が流れるとともに、悪霊を分立した人と、そうでない人の人生は、確実に違っていくことでしょう。」というのである。
さて、表題とは直接には関係がなさそうな事柄から書き始めてきたことは、訓母が堕落したこともわれわれが今後試練を受けて同様な危機に陥るのも、共通する心情問題であると考えるからである。
人事では済まされなくなることも大いに考えうるのである。
サンクチュアリでも家庭連合でも霊通するかたは、それぞれ次元は違うにせよ現れているであろう。
霊眼が開けることは別に悪いことではない。
ただし、お父様は「真の愛でもって霊眼が開かれなければならない」とされた。
さて、そのあたりのことを興進様は絶対善霊の説明をされる中で語られている。
ところで、絶対善霊には、悪霊がつくことがでじません。悪霊は、絶対善霊の明るい光に対することができませんが、絶対善霊は、悪霊を具体的に見ることができるので、彼らを抜き取ることができます。
このように、悪霊が接し得ない絶対的な善霊が地上に臨在されるようになったのは、サタンが、地上で恨みをもった霊人たちを動かして、自分の思いどおりに支配した役事を、これ以上できなくなったことを意味します。
またさらに、悪霊を整理して、絶対善霊に変えてしまわなければ、「あなたは主である」という啓示を受けた霊通人たちが、自分の環境と位置、特性、知能、心霊の程度を分別できないまま、偽りの役事をする悪霊にだまされて、多くの混乱を招く可能性があります。
霊眼が開かれたといっても、霊界すべて知っているのではありません。「霊を見た」ということがすべてではなく、その霊が、善霊か悪霊かを正確に鑑別することができて、初めて危険でなくなるからです。
時には、悪霊が、善霊のふりをして、仮面をかぶって現れるので、それを鑑別し得る霊的五官が開かれなければなりません。
霊的五官が開かれるためには、単純に霊眼のみ開かれればよいのではなく、堕落性を捨てて、神様の創造の心情世界に入ってこそ、それが可能です。自分の内面に堕落性がなくなり、一生懸命に罪を精算し、生まれ変わる道を行くためには、神様と真の父母様の心情圏と一体とならなければなりません。
そうなっていれば、キリスト教が一人のお方であるイエス様を信じながらも、お互いに違った見解をもって、教派が分かれ、敵対関係となってしまうというような混乱を招くことを、防止することができるのです。
ですから、真の父母様を中心として、天宙大家族を形成するためには、霊界と地上において、同時に役事できて主管できるように、偽りのまねをする可能性のある要素をみな、除去しなければならない責任が、私たちにあるのです。
金孝南は、大母様が神の道具として訓母の役目を果たしていたが、そのことと本人が抱えている罪や堕落性の克服の責任は依然として彼女に残っていたことに対する認識が希薄であった。
そこで、自分自身の霊人体を通して興進様によって語られた御言葉を地に落としてきたのである。
悪霊が善霊のように近づくような、
悪魔が天使のように近づくような、
試練を受けるどころか
自分自身が生きた悪霊、生きた悪魔となって
お母様を騙し協会を大混乱に導いた
本物の大淫婦であった。
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