原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

体験があって初めて言葉に生命が吹き込まれる     文鮮明 恵父の御言葉と石田慶和 「大拙さんの浄土教理解」

 

私のブログを書くペースは精々週に1~2度更新がいいところというのが実情であるが、更新がないにもかかわらず多くの方が訪問されているのにひどく恐縮する次第である。

しかも、依然と神山問題に関心がある方が非常に多いので、どうしたものかと考えていた。

そこで、神山批判をした際に、覚えておいでであろうか、私が神山氏には「体験」が感じられないと言うような旨を語ったかと思うが、この辺を皆さんと考えてみたいと思って、筆を進めることにした。

「体験」とは何か?

勿論、宗教的体験ということである。

真の父 文鮮明 恵師は、「御言葉は各自が自分の問題として復帰しなければならない。」というような内容を語ってくださっている。

つまり、読んだだけで、理解できるようなものではない。理解できたとしてもそれは頭の中で表層的に分かっただけなのだということである。

私が不思議に感じてきたことは、何故か神山氏の言動や信仰観から、横的で人間的な印象を強く感じることである。わたしが原研出身であり、超越跳躍を期待されてきた環境を間引いても、消えることのない疑問である。

以前にも指摘したが、ある霊の子女が「自分は神山氏に尽くされなかった」と言うことを伝え聞いて、「あの兄弟にこそ、一番自分は尽くしたのだ。」と弁解されたことである。

この思考パターンはお母様に対しても、同様に行われていると見ることができる。

自分は長年お母様を愛してきたんだと言って、泣かれる姿のことである。

ところがお母様自体は神山氏の言行の報告を受けて、たいそう胸を痛められておいでなのである。そこで神山氏の後輩が「謝罪してください。」と繰り返しているのである。それをものともせずマイペースでさらにお母様の批判を続けている。どう見ても独りよがりで独善的な立ち振る舞いをなさっていると言える。

お母様や統一信徒には「私がお母様を心から愛していることが分からない。」とでもいうかのように、講演で泣かれる。お涙頂戴である。

まるでその心理はストーカーに近いものがある。

わたしがこんなに愛しているのに、分かってくれないのは相手のせいだ。わかってくれない霊の子女や御母様に問題があるという結果に、この思考は行き着くことになる。

これが理解できていない。誠に残念至極である。

ある信徒が言うに「指導者であればあるほど、自分を客観視する能力がなければならない。」と。至言である。

神山氏を見るに、今自分が置かれている状況を天上からスポットライトを当てて、「客観視」することができないようにお見受けするしかないのである。

それは「体験」がないからではないかと推測される。

「体験」とは勿論、宗教的体験のことである。

ここで言う「体験」というのは、一つに霊的体験があり、一つに神の心情復帰がある。

霊的体験については、お父様の御言葉があるので引用しよう。

地上生活と霊界 合本 P245

 

 聖書を見れば、パウロが14年前に見た第3の天について述べています。14年間パウロはどのように生きてきたのでしょう。第3の天を見たこと、それが力になって、14年間を生きてきました。

 パウロは、それ以上のことを知ったために、パウロは第3の天のことを述べても、また行くことができたのです。(62-47)

 

 使徒パウロが霊界の第3天の世界を見て体験したことは、彼が14年間絶えず宣教活動をし得る原動力になったのです。分かりますか?そのような体験がなければなりません。先生もそれと同様です。(27-128)

 

同書P229~P230

パウロのような人も、知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があるということを感じたために、全部否定して尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手となったのです。

 

久保木初代会長の証では、山頂で火の玉が口に飛び込んできた霊的体験があり、「十戒」の映画で十戒が石版に刻まれるシーンのように、圧倒的な迫力だったそうである。

空海もぐ求聞持法の修行に際して、明けの明星が次第に大きくなって口に飛び込んできたと証ししている。

有名な話ではそういったことである。

わたしは「ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。」というところに注目する。気が狂ってしまったとはどういうことか・・・

体験がないとここはわかりにくいところである。

ルターも落雷に遭い感電死するところであったが、この現象から神の啓示を受けとめて大きく転換するのである。

 

もう一つは、神の心情復帰であった。「神の」とつく以上これは、お父様にしか分からない世界である。そこで特に御生涯の主の路程に見られる局面を研究して、どのような情況において、どのような判断と実行によって、文鮮明 恵師が天に如何なる心情を捧げたのかを尋ね求めて、自らの信仰の路程に遭遇した情況と、オーバーラップさせて、その心情に共鳴するよう歩みながら、お父様が行かれた復帰の道に身を置いて精誠の限りを尽くすということである。そこに心情を垣間見ることができる

お父様が見たり体験した心情を、そっくりそのままではないが、神がモーセにカナンに至ることは許さねど、遠く遙かな地よりカナンを望むことが許されたように、我々もまた神に捧げられたお父様の心情を垣間見ることが許されているのである

すなわち、お父様が語られる。「事情を通じて心情を得る。」心情復帰の道のことである。どこまでも果てしない青天井の心情の世界があり、心情の境がある。

生涯かけてもこの世界の門を遙かに遠くから仰ぎ見ることしかできない世界がある。

そこに先駆けて歩み来られたお父様の足跡がある。

当然、我々が如きレベルの者に、お父様と同様な事情を設定して御旨を歩むことなどできようはずもない。しかしながら、小さな者がそういう気概を持って御跡を訪ね求めることを、決してお父様は無視されることはないであろう。

お父様は完全投入して我々を愛してくださった。それはただ第二のご自身を我々の姿に見出したいからである。ただただ神様のために真を捧げる、そのような父のに似姿に、いつか我々が辿り着くよう、全身全霊を持って愛してくださったのである。

何のことか分かるであろうか?

多くの兄弟は主の路程は、お父様の特別なことと考えていることであろう。

だが私は、お父様は振り返られ、後に続いてきなさいとおっしゃられているようにしか思われないのである。

興南の刑務所で、全人類を救う大切な身でありながら、ご自分の食べ物を惜しげもなく差し上げてしまった我が主。平壌で死が迫り来るも最後まで、弟子の永遠の命に責任を持った我が主。大男を見捨てず背負って逃れていく我が主。北韓の侵攻をを単身凍り付く河に身を投じ祈祷される我が主・・・・・・・・・。

一体このような主が天に捧げた心情を、我らは如何にして共有することができるのであろうか?共有することによって実子に至ることができるのであろうか?

それは「事情を通じて心情を復帰する」その道以外にはあり得ないと信じるものである。

そのような「体験」が統一信徒としての存在価値を問われるところである。

イエス様「我よりも、汝の父母を思うものは、我に相応しからず。」と語られた。

再臨の時代においては同様に、「文鮮明 恵父の父や母に兄弟、また子女様に御孫様よりも、汝の父母兄弟や相対者や子女を愛する者、主に相応しからず。」

問われているのである。

主が最も近しい方々の永遠の生命を顧みることなく、かえって我々が購われるための代価として差し出され、買い取られた我々の生命であるならば、そのご心情に即、我らが反応し報恩することは、ただ一つしか思い抱かないであろう。

母が危篤の報に私的に狼狽える道があり、否、一切の私的な感情を持たず、それを契機として、思いは遙か北韓の地を駆けめぐり恵師の御母様に駆けめぐる文鮮明 恵父に初めて神の愛を実感する道は、偉大なお母様によって切り開かれている。だが、恵師のお母様には一切の情も御言葉も御旨も説明されることなく、我々の永遠の命が蘇生されるために、あっさりと捨て去られてしまった、そのお母様のことで胸が一杯になり張り裂けそうになるのが、あたりまえ至極当然ではなかろうか?

同様に、我が子を失った時どうして私的な涙を流すことができよう。主の偉大な御跡を慕って「これは喜びの日である」と微笑んで心情の境で主に相見えたいのである。

信吉様の誕生を迎えて、歴史上はじめて3代理想の出発の時を迎え、誠に険しいお顔をされたお父様が、天宙の孝子 孝進様と共に 祭壇信吉様を置かれ 特別な祈祷をされたのである。後にその御孫様を、神と人類のため お父様と孝進様一心一体至福至誠で天に捧げる日を持ったのである。

その御聖恩をどうして忘れることができようか?

 

天国に召された子女が地上の親を見て、「正しく送ってくださった」と親たちを誇るであろう。

かって、相対者を失った姉妹が証してくださった話に「お父様ですら祈ることができない時があったという意味が私には分かりました。」と言われた心情復帰こそ、我々がお父様に恩返しする道であろう。

統一教会を「こんなものか。」と思うのであれば大変な間違いである。

統一教会は真のお父様が造られたのである

以上話したことが少し理解しにくいと言われるかも知れない。

 

そこで、石田慶和先生「これからの浄土真宗」という本に学びたい。「鈴木大拙全集」 第10巻 月報11に記載された、大拙さんの浄土教理解」という文章である。体験とは何か。

 

 ひとことで言うと、大拙さんはいつも仏教の根本の立場から、同時に仏教全体を見渡す視野で、浄土教を考えておられたと言ってよいだろう。たとえば、「仏教における浄土教理の発達」(『鈴木大拙全集』第11巻所収)では、「原始仏教又は仏陀自身の人格・言行の中から、一体、どの程度の浄土思想が演繹できるのか。云い換えると、原始仏教や仏陀の人格・言行のなかには、どれくらいの程度の浄土思想があったのか」という問いを立て、「古代インドの思想文化に関する現段階の知識では、この問題に納得のいく、明解な歴史的解決を与えることはできない」という見地から、それについての論述は「仏陀という一人の宗教的人格と、その後継者たちが経験したの宗教的体験哲学的解明」すなわち「浄土教理というものを、仏教という宗教生活の中で、長い間にわたって発展してきた一種の宗教体験として、解説することになる」と言って詳しくそれについて論じている。

 浄土教所依の経典は浄土三部経であるが、大拙さんは「経典の外的権威というものはあまり当てになるものではないのであって、宗教の生命を与え、それに生き生きとした内容吹込んで行くのは、経典を内から理解してゆくところの個人の宗教体験の事実である」という。

*太字は私が強調したものである

 

さて、神山氏統一原理の理解が稚拙である。

また自分の主張の都合のいいように引用するがあるようである。

それは体験が伴っていない信仰だからではないであろうか?

御心配申し上げる。

 

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 以下のリンク先に教会の公式見解がある。今一度確認されんことを。

せっかくなので、そのまま転記させていただく。

 

【第2弾】神山威氏の講演内容(2014年9月21日、東京)の誤り | 真の父母様宣布文サイト

 

 

 

神山威氏は、2014年6月18日のプサンでの集会をはじめ、9月13日、14日、16日にも韓国で集会を開き、その後、日本において東京、名古屋、福岡で「講演会」を開催し、天一国経典『天聖経』の批判、真のお母様に対する批判、および「天の父母様」の呼び名に対する批判などの〝自説〟を述べ、教会員の一体化を損ねる行動を取っております。

すでに、神山威氏の言説の誤りについて、「神山威元会長の講演文(2014年6月18日、プサン)の問題点」を第1弾として公表しましたが、今回は、東京における神山氏の講演、および会場で配布された資料に基づき、「【第2弾】神山威氏の講演内容(2014年9月21日、東京)の誤り」と題して、その問題点を指摘いたします。

 

(一)「天の父母様」の呼び名は、お父様の思想と食い違うのか?

 

 神山威氏は、2013年天暦1月13日(陽暦2月22日)の「基元節」を期して、神様(天のお父様)の呼び名が「天の父母様」に変わったことに対して、次のように批判します。

 

「神様を天のお父様と呼んでいた昔からの伝統を変えて真のお父様の聖和以降に、天の父母様と変えて祈るようにしなければならなかった、その動機は・・・?真のお父様が『天のお父様』と涙で祈祷されておられたので、そのままでよかったではないですか。何故変える必要がありますか?…………

天のお父様と呼ぶほうが自然であり、もっと近くに感じます。神様を天の父母様と呼ばせる今の組織に違和感を感じます英語ではHeavenly Parents日本語に訳すと天の両親となります。天の父母様を英訳するとHeavenly ParentsかParents of Heavenとなります。二性性相の中和的主体である神様を父と母に両親に分けてしまっています。この様な考え方がお父様が主張する思想でしょうか?」(神山氏の講演会「配布資料」35~36頁より)

 

 上述のように、神山威氏は、「神様を天の父母様と呼ばせる今の組織に違和感を感じます。……二性性相の中和的主体である神様を父と母に両親に分けてしまっています。この様な考え方がお父様が主張する思想でしょうか?」と不信感を露わにし、批判します。

しかし、この「天の父母様」の呼び名は、真のお母様が勝手に語っておられるのではなく、すでに真のお父様が神様に対して用いておられた呼び名です。

 

(1)「天の父母様」は、真のお父様が使われた〝呼び名〟

 

 八大教材・教本『天聖経』には、「天の父母様」「天の父母」という言葉が24回登場します。

 

 「6000年間も準備して訪ねてこられた神様がアメリカを離れられたら、どこに行きますか。神様さえ正しくお迎えすれば、家庭問題、倫理問題、青少年問題、人種問題は自動的に解決されます。五色人種が一つに相まみえて生きていくアメリカは、地上天国のモデルなのです。

この時、私たちみんなが一致団結して、人類が進むべき道を開かなければなりません。『長子の国』であるアメリカが先頭に立って、天の父母様に侍り、世界各国を神様の前に導く先導者的な使命を完成すべき時です。この歴史的な課業を完遂するために、共に同参してくださるようお願いいたします」(『真の神様の祖国光復』332頁)

 

 この御言は、2000年1月22日、米国ワシントンDCにおいて、真のお父様が「終末時代に人類とアメリカが進むべき道」と題して語られた講演文であり、八大教材・教本『天聖経』の中に収録されている御言です。

また、八大教材・教本『天聖経』には、次のような御言があります。

 

 「堕落したという事実は、長男長女を追い出したということと連結されます。長男というのはひとり子です。長女はひとり娘です。アダムとエバは、神様の億万代のひとり子、ひとり娘として生まれました。……皆さん、息子を一人、娘を一人もっていて、息子一人が死んだというとき、父母の痛みはどれほど大きいでしょうか。……億万代のひとり子を失った神様がそれを再び取り戻すためには、億万代の苦痛を越えずしては取り戻す道がないというのです。そのような天の父母がいたということを(人類は)知りませんでした」(『罪と蕩減復帰』103~104頁)

 

 このように、真のお父様は、ひとり子、ひとり娘を失った神様の苦痛の心情について、それを「天の父母」という呼び名を用いて切々と語っておられます。

 神山氏は、「二性性相の中和的主体である神様を父と母に両親に分けてしまっています」と批判しますが、「天の父母」とは、真のお父様が唯一なる神様について用いられた呼び名であって、一つの概念です。神山氏が批判するように父と母に分離させ、二つに分けて語っておられるのではありません。

 神山氏は、『原理講論』に「神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。……神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給う」(47ページ)と論じられているのに基づいて、「天のお父様と呼ぶほうが自然であり、もっと近くに感じます」と語ります。

 また、神山氏は、真のお父様の御言から次の一節を引用します。

 

「神秘的な境地に入って祈るとき……宇宙の中心は何かと尋ねれば父子の関係だという答えが得られます。宇宙の中心は何か?……父子の関係だというのです。これを普通の人は自分を産んでくれた母親と父親のことだと思っています。……そうではありません。……神様と人間が父子関係の情を中心として一つになっている、その位置が宇宙の中心だという結論が出てくるのです」(『み旨にかなった子女指導』より)

 

 この「宇宙の中心は、父子関係」であるという観点から見て、神山氏は神様を「天のお父様」と呼ぶほうが自然であると考えているようです。

ところで、ここで明確にしておかなければならないのは、父子関係とは「父と息子」の関係に限らず、「父と娘」の関係も父子関係であるという点です。

 確かに、私たちは、伝統的に神様に対して「天のお父様」と呼んで祈ってきました。それは、神様が「被造世界に対しては、性相的な男性格主体」であるという観点から見たとき、正しい呼び名です。

しかし、それでも神様は「本陽性(男性)」としてのみおられるのではなく、「本陰性(女性)」でもあられます。神様には、女性の性稟が〝ない〟のではなく、〝ある〟という点を理解しておかなければなりません。

 神山氏は、『原理講論』に基づく概念から、神様を「父」として捉え、「天のお父様と呼ぶほうが自然である」といいますが、真のお父様ご自身が執筆された『原理原本』の中で、真のお父様は、神様に対して「天の父母」という呼び名を17回使用され、次のように述べておられます。

 

 「神様の体として一つになった一つの夫婦の出現成就の時の祝宴が、すなわち小羊の婚宴というものである。それゆえ、人間が根本父母を取り戻して侍る最初の出発日が、すなわち再臨成就の重要点になっている。……それゆえに、今まで神様を父なる方として、母のいない父として歴史を通してきたことを人間は知らなければならない。母のいない父なる神様であった……それゆえ天の父母の成立がなされてこそ、子女の家庭組織成就が始まることができるということが目的であるので、聖徒や天の人間はこの一日を長く待ち望んできたのであった」(『原理原本』第三編「復帰摂理」の第四章より。注:暫定訳

 

ところで、以上のような「神概念」の問題を考えるとき、神様はいつ「天の父母の成立」をなされ、いつから「天の父母様」と呼ばれるようになられるのでしょうか。それを理解するには、「神の成長」という概念について知らなければなりません。

 

(2)神様の願いは、「天の父母様」になることであった

 

真のお父様は、人間の成長過程と人生の目標について、次のように語っておられます。

 

「幼児が成長したのちに結婚をするということ、これは、夫婦の位置を尋ね求めていくことであり、父母の位置を尋ね求めていくことです。神様と一体になる位置を尋ね求めていく道です」(『真の家庭と家庭盟誓』174頁)

 

 この人間の成長が、神様とどう関係しているのかを理解しなければなりません。真のお父様は、次のように語っておられます。

 

 「人間創造とは、神様御自身が成長してきたことを実際に再度展開させてきたものです」(『宇宙の根本』95頁)

「神様も赤ん坊のような時があり、兄弟のような時があり、夫婦のような時があり、父母のような時があったので、(人間を)そのように創造されたのです」(同、96頁)

 

 従来の神学では、神様を〝永遠不変〟〝絶対者〟としてのみ捉え、「神の成長」という概念を知りませんでした。しかし、「わたしと父とは一つ」(ヨハネ10・30)と語られたイエス様は、聖書を見れば分かるように、幼児期、少年期、青年期、成人と成長していかれました。

「神様と一体になる位置を尋ね求めていく道」が人生であるなら、神様とイエス様の願いは、さらに結婚して、人類の真の父母になることであったと言わざるを得ません。

 真のお父様は、アダムとエバの結婚式は「神様の結婚式」でもあったと語っておられます。

 

 「横的な父母であるアダム・エバは神様の体であり、縦的な父母であられる神様が心なのです。神様は、アダム・エバの心なのです。ここで心と体が一つになって愛するとき、アダム・エバの結婚式は〝体〟的な父母の結婚式であると同時に、〝心〟的な神様の結婚式になるのです」(『ファミリー』1999年1月号、22頁)

 「アダムとエバが真の愛で完成することは、まさに神様が実体を身にまとう願いが成就するのです。……アダムとエバが善なる子女をもって真の父母になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定(することです)」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』29頁)

 

 ここで、「神様が永存の父母の位を実体的に確定」すると語っておられるように、神様の願いは「天の父母様」になることでした。

 天一国元年(2013年2月)、神様の呼び名が「天の父母様」になりましたが、それは、真の父母様が「最終一体」を成し遂げ、摂理の「完成、完結、完了」を宣布する勝利圏を立てておられたがゆえに可能だったのです。

 真のお父様は、これまで、神様を「囹圄(れいご)の神」「鼓子(コジャ)の神」と語っておられましたが、神様は解放され、さらには、人類子女たちに対する真の父母としての責任を果たされることによって、ついに「天の父母様」となられたのです。

 また、真のお父様は、神様の血統の出発について次のように語っておられます。

 

 「アダムとエバが神様を中心とした真の愛の夫婦となれば、神様は理想どおりに、ご自身の実体であるアダムの体の中にいましたまいながら、エバを愛されるようになるのです。さらには、アダムとエバは神様の実体をまとった真の父母となって、善なる愛、善なる生命、善なる血統の出発となったことでしょう」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』、31~32頁)

 

 「四大心情圏と三大王権を完成した家庭が理想的な家庭です」(『真の家庭と家庭盟誓』192頁)とあるように、三大王権(三代圏)の完成が理想家庭であるならば、「理想家庭」とは、男女が結婚して夫婦となり、子供ができて父母となり、さらにその子女が結婚して孫が生まれ、祖父母となって、その孫が結婚するまでを含めて、真の家庭の〝三代圏の完成〟を指します。

 しかし、『原理講論』に「イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった」(268頁)とあるように、イエス様は〝個人路程〟を歩まれましたが、結婚できなかったため、家庭路程を歩むことはできませんでした。

 それゆえ、真の父母様が歩まれた1960年陰暦3月16日の「聖婚式」から2013年天暦1月13日の「基元節」までの神様の摂理は、真の父母様が「真の父母」として成長し完成していかれる〝家庭路程〟、ひいては〝天宙的路程〟であったと捉えることができます。同時にそれは、神様が「天の父母様」になられる成長過程だったと言えるのです。

 「基元節」は、その神様の結婚式を祝賀し、そこから実体の天一国が出発する起点です。したがって、「基元節」を期して、神様を「天の父母様」と呼ぶようになったのは、神様が長い歴史において切望してこられたその願いが叶ったことを意味しています。

 神山氏は、「神様を天の父母様と呼ばせる今の組織に違和感を感じます」と批判しますが、これは「神様が永存の父母の位を実体的に確定」することを願い続けてこられたおかたであることを理解していないために生じた批判です。

 

 

(二)「三度目の結婚式は成されていない」という批判について

 

 神山威氏は、真のお父様が、第三次「真の父母様聖婚式」を成すことができなかったと決めつけて、次のように批判的に述べます。

 

「神様の結婚式がなされなければならなかった。お父様が蘇生、長生、完成と最後の神様の結婚式を真のお父様がどんなにその時を待ったと思います? 2013年の1月13日の基元節を・・・・。

……第三次「真の父母様聖婚式」(は)計画されたが条件がないとされ、急遽、金婚式に変更され、第三次聖婚式は2013年1月13日に延期されると発表された。……基元節は1月の13日と言いましたよ。神様の結婚式は1月13日。しかしお父様が待ちに待ったその日を迎えられず霊界に行かれました。どんなに無念だったと思います?モーセもカナンの地を見ながら入れなかった」(神山氏の講演会「配布資料」48~50頁より)

 

 神山氏は、第三次聖婚式は「計画されたが条件がないとされ、急遽、金婚式に変更……延期されると発表された」とし、条件がなかったと批判的に述べています。確かに、2010年天暦3月16日(陽4月29日)、天正宮博物館において挙行された式典は、「アベルUN定着戴冠式および金婚式」であり、第三次聖婚式ではありませんでした。

 しかし、真の父母様が歩まれた「生涯路程」を注視しなければなりません。神山氏は、この「金婚式」を批判的に見ますが、真の父母様は、その10日後の天暦3月26日(陽5月9日)に、今度は米国・ラスベガスで「アベルUN定着戴冠式・金婚式および昇華祝祭」を挙行され、その後、同年天暦5月8日(陽6月19日)と同年天暦5月15日(陽6月26日)の2日にわたって、真の父母様の「最終一体」を宣言しておられます。この「最終一体」宣言がもつ意義は、摂理的に極めて重大なものです。

 真の父母様は、この「最終一体」宣言から12日後の天暦5月27日(陽7月8日)、天正宮博物館において「天地人真の父母定着実体み言宣布大会」を開催され、「韓国を神の祖国」と発表されました。これを皮切りに、全世界に向かって「最終一体」宣言を告げ知らせながら、多くの大会を開催されました。

 真のお父様は2011年天暦1月1日(陽2月3日)に、この大会の御言こそが「先生が生涯全体の結実として宣布したみ言です」(『トゥデイズ・ワールドジャパン』2011年天暦1月号、11頁)と語られました。その生涯全体の結実と言われる御言において、真のお父様は、次のように語っておられます。

 

「すでに真の父母様ご夫妻は最終一体をなして、完成、完結、完了の基準で、全体、全般、全権、全能の時代を奉献宣布されたのです」、「人間始祖の堕落によって引き起こされた夜の神様、昼の神様、万王の王、そして、真の父母、このように四大代表王たちの歴史的な葛藤と闘争も、ついに天地人真の父母様によって、完全に解決されました。万人が兄弟国になって、『ワン・ファミリー・アンダー・ゴッド』の世界が皆様の目の前から展開されています」(『トゥデイズ・ワールドジャパン』2011年天暦5月号、20頁、韓国・仁川)

 

真のお父様は、「最終一体」を宣言された後で、「蕩減復帰時代圏を抜け出し(た)」、これから「神様と真の父母様を中心とした勝利圏の太平聖代だけが永遠に続くようになるでしょう」(『トゥデイズ・ワールドジャパン』2011年1月号、11ページ、ニューヨーク)と言われ、「私たちはすでに神様の直接主管圏時代に進入している」(『トゥデイズ・ワールドジャパン』2010年9月号、通巻第500号、13ページ、清平修錬苑)とも語っておられます。

 

このように、真の父母様は、基元節を迎える前に「最終一体」を成し遂げ、「完成、完結、完了」したと宣言され、「天地人父母様時代」が到来していると言われています。

すでに「神山威元会長の講演文(2014年6月18日、プサン)の問題点」でも述べましたが、真の父母様は内的・実質的な3度目の結婚式である「最終一体を成し遂げ」ておられるのです。

だからこそ、聖和される前に基元節「聖酒」まで準備しておられたのです。

 

以上のように、真のお父様は「蕩減復帰時代圏を抜け出し」、すべてを「成し遂げた」と宣言され、「再臨主としての使命」を全うされました。

ところが、神山威氏は「神様の結婚式は1月13日。しかしお父様が待ちに待ったその日を迎えられず霊界に行かれました。どんなに無念だったと思います?」と述べ、真のお父様ご自身が「全て成した」と語っておられるご心境と根本的に異なる見解を述べているのです。神山氏の見解によれば、まるで真のお父様は失敗したと言わんばかりです。

神山氏は、真のお父様が「最終一体」を成し遂げ、「完成、完結、完了」したと言われたその御言を、信じておられないのでしょうか。

 

 「基元節」の式典では、外的・実体的な「神様の結婚式」である3度目の結婚式が成されました。まず、式典で、最初に文(ムン)善進(ソンジン)様と朴(パク)仁渉(インソプ)様ご夫妻がお父様のための紫のローブと聖冠を、お父様の「宝座」にお捧げすることで、神様と完全一体となっておられるお父様が壇上において神様と共に待っておられ、その「宝座」に向かって、真のお母様が、結婚式で共にバージンロードを行進する子供である「花童(ファドン)」の4人のお孫様を従えてバージンロードをゆっくりと歩いていかれました。

その際、結婚式で登場する38人の介添人(トゥルロリ)がバージンロードに並び、真のお母様の行進を見守っていました。この様子は結婚セレモニーそのものでした。これは、すでに真のお父様と真のお母様が「最終一体」を成し遂げておられたがゆえに、行うことのできた結婚セレモニーです。そして、壇上の中央にあった大きなバラの花(天一国の花)をレリーフした装飾は、真のお父様のご臨在を表現していました。そのバラの花の所にある「宝座」に座られたときに、真のお父様と真のお母様の外的・実体的な3度目の結婚が成立したのです。

その土台の上で、真のお母様は完成した「真の父母」として「即位式」をされ、「天一国」を宣布されました。

 今、天一国時代を迎えた私たちは、真のお父様が「私たちはすでに神様の直接主管圏時代に進入している」(『トゥデイズ・ワールドジャパン』2010年9月号、通巻第500号、13ページ、清平修錬苑)と語っておられた御言を、もっと真摯に受け止めなければならないと言えるでしょう。

 

(三)真のお母様は、「お父様と一体化していない」という批判に対して

 

 神山威氏は、ラスベガスで目撃した出来事について語り、真のお母様が、真のお父様に従わずに逆らい、真の母としての勝利基準を立てておられないかのように述べて、次のように批判します。

 

「ラスベガスで責任者を集めての訓読会ありました。そこに70~80名の人達が集まって居りました。……その時、お母様はお父様の隣の席に座って居られました。

『どこに行くんだ、ここにいるんだよ』

『トイレに行ってきます』

『ここにいなさい。糞(くそ)でも小便でもここでしたらいい!』とお父様が怒鳴る!

でも振り切ってお母様は出て行かれました。お父様を振り切って。私は本当に驚きました。強いショックと衝撃をうけました。お父様が『お母様を早く呼んできなさい』と。一人の責任者がお母様を迎えに行きました。お母様が戻られないのでその人はお父様の所に戻ってくることが出来ません。また一人の人。そして一人の人を送ったのですが、誰も戻ってきません。お父様が急に大きな声で『神山!!お母様とお父様とどっちが正しいんだ!どっちが正しいんだ』と聞かれたのです。……お父様は、お母様が来るのを待っている時間・・・本当に寂しそうでした」

 

 このように、トイレに行こうとされる真のお母様に対し、お父様は「糞(くそ)でも小便でもここでしたらいい」と語られ、それを振り切って出ていかれたお母様に対し、神山氏は「強いショックと衝撃をうけました」と述べています。

 このような場面に遭遇したとき、さまざまな観点から深く考えさせられるでしょう。真の父母様は、その生涯路程において、いろいろな場面における「真の夫婦」の接し方、そのモデル的夫婦のあるべきお姿を、私たちに教え示しておられるのだろうと思われます。

 神山威氏は、「私は本当に驚きました。強いショックと衝撃をうけました」と自分の抱いたお母様に対する不信感を表明し、そして「お父様は、お母様が来るのを待っている時間・・・本当に寂しそうでした」と主観的判断をもって、その感想を述べます。

 しかしながら、真のお父様に50年以上も連れ添い、いついかなる時においてもお父様をお支えし、神様のみ旨成就のために献身して来られた真のお母様ほど、真のお父様を深く理解しておられるおかたは他におられません。

 真のお父様は、真のお母様と「最終一体」宣言をしておられる事実こそが、そのことを最も雄弁に物語っています。

 真の父母様と四六時中、行動を共にしてもいない私たちに、一体何が分かるというのでしょうか。真のお父様ご自身が、真のお母様に対し、どのように受け止めておられるのか、その事実こそが重要です。真のお父様は、お母様に対して次のように語っておられます。

 

 「アダムを中心として女性を創造した時と同じく、天の男を中心として女を再創造するのです。個人的女性完成圏、家庭的女性完成圏、氏族的、民族的、国家、世界的女性完成圏を代表した一人を中心として創造するのです。それを成してこられたかたがお母様なのです。先生の後にぴったりとくっ付いてきたのです」(『真の父母の絶対価値と氏族的メシヤの道』77頁)

 

「お母様がサタン世界の最高クラスを中心として、巡回講演を通して80か都市で勝利の覇権をもって戻ってきたので、お母様は、お母様としての責任を果たし、初めて神様が公認した位置に、サタンが公認した位置に、人類が公認した位置に立つようになりました。……それで、この場で文総裁がお母様に対して、韓鶴子女史に対して表彰するのです。ですから、これからは対等な位置に立ちます」(同、87~88頁)

 

「これからは先生がいなくても、お母様一人でみ旨に何の支障もないというのです。今までは、女性が天地を代表する摂理の代表者として立つことはできなかったのですが、父母の愛と一体的理想を中心として、はじめてお母様を中心とする女性全体の解放圏が地上に宣布されたのです。それが今朝行われた『女性解放圏』宣布の式典でした。……ですから、先生が一人でいても真の父母様の代身であり、お母様が一人でいても真の父母様の代身です。ですから、先生が第一教主、その次にお母様は第二教主だということです」(同、115~116頁)

 

お母様は私の影のようです。ついてまわる影のようなので、私は実体をもった主体の教主であり、お母様は対象の教主です。それで、私は第一教主、お母様は第二教主です。何を中心としてですか。愛を中心としてそうだというのです」(同、116頁)

 

 「お母様を中心として皆さんが一体になっていかなければならない時が来ました。もう先生がいなくても、お母様が代わりにできる特権を許諾したというのです。お父様がいないときは、お母様のことを思わなければなりません。そのように理解して、先生の代わりにお母様に侍る心をもち、祈祷もそのようにするのです。今までは先生を愛してきましたが、これからはお母様を愛さなければなりません。……先生が第一教主であれば、お母様は第二教主であると世界的に宣布し、天地に宣布します」(同、116~117頁)

 

「先生が霊界に行ったとしても、お母様が地上にいれば、霊界と地上界の統一圏ができるので、いつでもお母様がいる地上に来て一緒に暮らすことができるのです」(同、117頁)

 

 このように、真のお父様は、「お母様が一人でいても真の父母様の代身」、「お母様は私の影のようです」、「先生の代わりにお母様に侍る心をもち……お母様を愛さなければなりません」、「いつでもお母様がいる地上に来て一緒に暮らすことができる」と語っておられます。

 それほどまでに、真のお父様とお母様は一体になっておられるというのです。お父様は地上に来られ、真のお母様と一緒に暮らしておられると言われるのです。真のお父様を「愛している、信じている」と言われるならば、そのことを信じなければなりません。

真のお父様は、2005年2月14日の「天宙統一平和の王戴冠式」祝賀晩餐会の御言で、後天時代(天一国時代)は「調和、協力、相応、和解、統一の時代」であると、次のように語っておられます。

 

「『先天時代』は、対立、闘争、相克、不和の時代でしたが、『後天時代』は、調和、協力、相応、和解、統一の時代です。『先天時代』には、葛藤を助長し、分裂を起こして支配しましたが、『後天時代』には、このようなことが、これ以上、許されなくなります。和解と調和、平和、統一を志向する個人、集団、社会、国家が中心となって主導していく環境圏になります」(「ファミリー」2005年4月号、22ページ)

 

 このような〝分裂行動〟は、真のお父様を悲しませることであるのを神山氏が早く悟り、真のお父様と一体となっておられる真のお母様を中心に、実体的な天一国創建に向けて、兄弟姉妹と共に歩まれることを願ってやみません。