原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 自立と依存を意識して考える生活習慣 「明日ママがいない」を巡って

子役の芦田愛菜鈴木梨央がでているドラマ「明日ママがいない」が話題になっている。

ポストに捨てられた子供のニックネームがポストであるとか、ロッカーに捨てられた子がロッカーであるとか、役柄のニックネームがかなり酷だという意見がある。

ドラマ自体は親に捨てられたり、親が育てられない境遇の子供達が里親に巡り会えるまで預かる施設を舞台に、けなげに生きているドラマである。

確かにこの施設の責任者は子供をペット扱いして里親も飼い主と捉えている。ひどい言葉遣いもする。しかしこの足の不自由な男性は杖をつき、性格や動作の演出はかなり強調的で現実感は少ない。多くの人はこんな感じの人がそのまま施設にいるとは思わないであろう。

このドラマの放映の時間帯が午後10時からとなっている。つまり普通に考えるならば子供達向けのドラマではなく、大人向けのものであろう。

本当の親とは何か、親子とは何か、家族とは何かを視聴者の大人の方々と一緒に考えたいという風にも受け止められるものである。

放送以前に全国児童養護施設協議会や里親に関する団体や慈恵病院からクレームがあったが放送はなされ、第一回放送を受けて反対の記者会見を施設関係の方が4人が行った。

その会見でテレビ局や番組制作会社会社から取材協力を要請されていたのが、これらの記者会見に臨んだ方々であったことが分かった。

放送は行われ、それを受けて上記の二つの団体が抗議のための記者会見をしたのである。

ドラマを見た子供の中には自分の過去の出来事をフラッシュバックしてしまい傷ついたものがでた。登場人物のニックネームがひどい。子供達はペット扱いした言葉や態度で接する施設の責任者がひどい。等の意見であった。

会見では問題が生じた事例の数を正確には把握していないように見える。一人でも傷つけば問題にするには十分だと考えているのかも知れない。このような組織をもっているのであれば、記者会見までするのであるから、組織をフル活用して一体どの様なケースが何件生じたのか、また里親に対するアンケートの協力をお願いし、例えば8000に出したら5000人から解答があり、それぞれの質問事項に対してこのような結果が出ましたというような、客観的事実を提示してそれを踏まえた判断がわれわれの今回の主張だと訴えるべきであったと思う。

何故なら里親の中にもこれはフィクションなのだから問題ではないと考えている方もおられていることを認めているからである。

印象として感じたことは、子供達が傷ついたことに対する怒りと言うよりも、むしろ良いドラマを創るので協力してほしいと言ってきたので、取材に応じてきたのに良いドラマどころか、ひどいシナリオのドラマだったので裏切られたというのが本当の気持ちであるように感じた。

私が先ず驚いたのは会長らしき人が初めに会見の動機を短く話したが、私はドラマを実際には見ていないので副会長に質疑応答をして貰うとことわったことである。後にシナリオは見ていたことは会見から分かったが、この発言には副会長も面食らっていたように見えた。会見の様子ではドラマは確認して見ることができるようなのにしていないという体たらくである。

会長は早く譲られては如何かと思う。人情には厚い方なのであろうが、記者会見を招集する準備やリーダーシップには疑問があるように見受けられた。

さて昭和で児童文学といえば小公女や少女パレアナポリアンナオリバー・ツイストフランダースの犬などが読まれた。通常子供達は両親の愛に育まれ、家庭に守られ少しずつ、厳しい現実に適応できるようになり、やがて一人で自立していくが、これらの物語は何の防壁も持てず過酷な現実に直面しながらも、次第に環境に適合し、また克服していき自立して大人に育っていくストーリーであったと思う。

テレビドラマの児童達は実に立派な洋服を着ていて、お洒落っ気たっぷりであり、ある意味血の繋がった家族よりも仲の良い一体感がある。ドラマ作りには一定の配慮があるとも言えるのではないか、子供達に境遇以外の外的なみすぼらしさは見あたらない。

私は現代の日本人が使う「ケア」という言葉が妙に気になって仕方がなかった。震災にあった方々の心のケアが重要と様々なメディアで多くの人々が繰り返し強調して止まない言葉である。

欧米の人の使うケアとは本当に同じものなのであろうか?

お世話や気配りを否定するものではない。それによる癒しも重要であろう。

だが、自立のためのケアであるべきだと私は考えている。もしその優しさによって意図には反して自立が遅れたり阻まれるようであれば、そのようなケアは見直されるべきであろう。

私が二十歳の頃初めて伝道した方は同じ学生であった。

彼は家庭の事情で一家は離散し、兄弟はいくつかの親戚などに預けられたり様々な道を行かざるを得なかった。預けられたところでも目の上のたんこぶのように扱われ、いろんなところをたらい回しにされたそうである。そんな彼が大学に進むためには新聞配達をしながら学費と住まいを確保し勉強する方法だった。

食事を3日間与えられずに、苦しくて這って外に出て行き、隣の家の前で気絶しているところを助けられた事があるという。おとなしい性格で主体性がとりわけ秀でたタイプではなかった。

そんな人も現実に不満はあるかも知れないが、自分のやるべき事自分ができることに注目して自立に向かっていた。

人生は甘くはない。第三話では両親のある足の不自由な子の相手にとお試しの訪問をする話が出てくる。芦田愛菜演じるポストは少女が親の愛や関心を受けるために治ろうとするのを拒んでいると見て、本当はもう治っているのではないかと疑い荒っぽいことをする。治ってはいなかったが治ろうとはしていなかったのである。自立しようとせず、依存していたのである。

心を決めて車いすから離れ一人で歩こうと努力し遂に報われた。その報告を両親にしたら二人は安心して子供に離婚を告げたのだった。

ポストは両親がいても幸せになるとは限らない事を知った。また仲間に自分たちは家族なんだとうったえて感謝された。

20年ほど前に出会った少年が将来の見通しもなくバイトをしていた。だんだん心を開いていろんな話をしていると、大工になりたいという。そのために大工の職業訓練学校があり、1年か2年かは忘れたが入学して技術を習得したいという。両親は離婚していて母親と暮らしていたが、母親は子供の稼ぎを取り上げ男に高級腕時計を買って貢いだりで、子供を食い物にしていた。

口座を開設して入学の費用を少しずつ貯めるよう勧めると喜んでいたが、母親に詰め寄られ銀行で解約の手続きをさせられたのである。それまで口座の解約というものがあることを知らなかった。デビ婦人の応援演説ではないが、子供を食い物にする親の話を耳にすることがしばしばある。

血が繋がっているだけでは本当の家族とは言えない。

仏教では物事自体が問題である以上に、その捉え方の方が遙かに問題であると教えている。人や環境に振り回されず、仏心を宿し自立しなさいと言う。

福祉施設や里親に関する団体においても、子供達の自立を支援することが基本にならねばならないだろう。ハンディのある人を健常者の如く接するノーマライゼイションの必要性は随分前から説かれている。

人間は神の原理に基づき、自由意思と自由行動によって公的な実績を残す責任を賦与されている。自立。そこに人間の尊厳がある。

このドラマの内容が人情的な人によって変更に追い込まれ、つじつまの合わないドラマになってしまうことを危惧するものである。

参考に全国児童養護施設協議会の記者会見の動画と慈恵病院の見解のホームページを示す。

 

http://www.youtube.com/watch?v=S8wsI-o-kMU

 

http://jikei-hp.or.jp/tv_mama/