原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 位置と価値を意識して考える生活習慣

星野リゾート代表取締役である星野佳路(ほしのよしはる)氏が茂木健一郎との対談を番組でしていた。

日本の観光を「ヤバく」する必要があるという。

本人は今までの観光事業イメージを一新する大胆な変革を為してきた人である。ところが子供の頃から心配性で母親からも「お前そんなことを気にしていたら人生生きていられないぞ。」との指摘を受けてきたそうである。例えばスキーをするときにも骨を折ったらどうしようとか、怪我をしたらどうしようとか、迷子になったらどうしよう、電車に僕だけ乗り遅れたらどうしようときりがないほど心配性だったようである。

この心配性はかえって物事の両面を必ず見るという習慣に結びついたように思われる。

観光事業には普遍性が存在している。これを彼は定石と言い重んじている。しかしそこからはずれるときには自ずとリスクが生じてくる。そこでまず定石の部分とそれ以外の部分を仕分けして、リスクが問題として顕現しないように分析し細心の注意を測ると言うことのようである。

大人になってからこの心配性を逆手にとって、いわゆるポジティブにとらえて活かしているようである。

物事はそれ自体が問題であるよりも、その事に対する捉え方に問題があることが多いものである。

「温泉と日本食というだけだとどの温泉も同じになってしまう。」

「わざわざ違った場所、違った温泉に訪ねて貰うには、その地域ならではの魅力を創って発信するということがすごく大事なんですよね。」

その中で彼の組織論の一端が示されていた。

星野リゾートの会議は誰でも意見が言えるフラットな場であるそうだ。

「人間関係に上下を持たない。フラットな組織と僕は言っているのだけれど、自由な意見というものが自然に出てくる文化なんですね。ですから誰がものを言っているからではなくて、何が話されているかっていうことで。自分の意見を出していくというか、情報発信していける。これはにすごく大事なことなんですね。私たちの業界は特に・・・。」

自分が考えたアイデアが本当に正しいのか心配なので多くのスタッフにどんどんの視点を提供してほしいようで、その事により修正したり廃止したりあるいはもっと良い案があれば採用して取り替えていき、リスクを回避できて安心を得ることができるという。そういう会社の風土を築くために、社内では役職の名称で呼ぶことは禁じているそうである。

星野リゾートでは「魅力会議」というものがあるという。自動車が何年置きにかリニューアルされ、ファッションが季節ごとにリニューアルされているように、リゾート事業もお客様が新しい魅力を求めており、それに対応する必要があるという。リピート客は毎年毎年訪れる際にはまた何か違った魅力を期待して訪れるので、その期待に応えることができるように、「魅力会議」が誕生したというのである。

人は何故旅をするのだろう?旅をするというのは同じところに行くのではなくて違ったところに行く。遠いところもあれば近いところもある何故人間はそういう行動を取るのだろう?結局のところそれは地域らしい魅力に惹かれるからであり、それを味わいたい感じたい、また個性を知りたいと言うことが旅行する人のモチベーションの原点であると星野氏は考えている。そこにアピールしていこうというのが「ご当地楽」と定義し、ご当地ならではのおもてなし楽しみを形にしていこうということだそうである。

星野さんの話は相対思考では普遍性と個別性(特殊性)や共通性と異質性などにも関係している話であった。

さて位置と価値という言葉を我々の教会に照らし合わせて考えてみよう。

堕落人間は位置即ち地位に価値があると考えている。ある位置に就くということはその位置に相応しい価値を実現せよとのことで、そのまま価値があるのではない。この当たり前のことがなかなか分からないのが我々凡人の日常である。

例えば日本の統一教会の会長に就任したとする。会長室が与えられ、かってのスタッフ仲間の仕事をする部屋にはほとんど顔を出さず話もすることがなくなったとしたらどうであろうか?

たくさんの輝かしい公的な役職をさらに歴任したとしても無形実体世界、すなわち霊界にいいた時に会長と言って多くの信徒に慕われるであろうか?

私の内に価値があるかどうかが問題であり、私の外にある位置そのものには価値はないのである。正確には未定と言うことである。

毎週日曜に為される教会での礼拝では協会長が話されるのが普通である。それ自体は問題ではない。しかし様々な職場環境や生活環境の全てを一人の人が体験できるわけではなく、そこに現れる神に出会い、神を証すことは難しい。

そこで、先ほどの星野氏の語られたことを受けて話すなら、「誰が語るかではなく、誰に神が語られ、あるいは誰を通して神が我らに語りたいとお考えなのか。」という観点が重要であるように思われるのである。

学生時代には校内にチャペルがあり、集会の時間に学生も説教をすることができた。我らが信徒も参加し好評を得ていた。

さて、八百屋には八百屋にしか出会えない神があり。工場で働く人には工場でしか知り得ない神がいる。また主婦として姑や近所づきあい子供の学校関係の人づきあいなどでしか分からない神もある。

それぞれの信徒が出会った神の恩恵を分かち合うべき場としての礼拝という位置づけもあって良いかと思うのである。

これが基本となると如何なる身分の高低にも拘わらず、神のメッセージを掴み取ることができるようになる。

人間ばかりではない上場企業であれば全て立派な企業と思うこともなくなる。上場という位置に囚われてはならない。会社の大小で社長の価値が決まるのでもない。年を重ねていくごとに少しずつ余分な柵を削り取って、生まれたときのように裸一貫で天界の主に相見え、神に栄光と感謝を捧げたいものである。