原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

吉田松陰の「一君万民」思想と天一国の「一帝万王」思想

主君たる天皇を 支えるのは、ある種の階層や組織や地位にあるものを通してなされていて、身分の差異がありましたが、吉田松陰は君主一人が別格の存在であって、他は皆民という一つのくくりで平等であるという思想を持ちました。

「一君万民」と表現されています。

 

われわれサンクチュアリが目指す世界をこの表現になぞらえてみるなら、

再臨主「万王の王」をとりあえず「帝」という漢字で示せるとすれば、

「一帝万王」の思想が、天一国の思想です。

 

一君万民とは、使われ方によっては危険な思想に豹変しました。

一君万民とは吉田松陰の思想ですが、李氏朝鮮にはそのような言葉はないが、類似性があり、またいくらか相違点もある思想があると原武史氏は「直訴と王権」に著しています。

 

 

直訴と王権 朝鮮・日本の「一君万民」思想史

直訴と王権 朝鮮・日本の「一君万民」思想史

 

 

 

本の題にあるように、国王が自ら王宮から出て直接民と交わり、民の窮状や懇願などの直訴を聞くことがあったといいます。

幾つかの王の時にそのようなことがあります。

朝鮮では奴隷が多かったですが、平民だけではなく、奴婢たちからも直訴を王が聞いたというのです。

 

これを知って、まるで二代王と国進様が質問を一般信徒から受けている様子を思い浮かべました。

直訴もありましたでしょうか?

記憶力が弱くて思い出せません。

 

この「一君万民」の思想は「国家神道」と結びついておかしくなります。

 

吉田松陰も水戸学を東北方面に出かけた時に知ったようです。

尊王思想に感化されたのでしょうか。

その時は脱藩して出かけていきましたから、ある意味では主君(藩主)

との縁は切った立場です。

当時の徳川幕府の下にあった政治体制は地方分権でした。

ちょうどアメリカ合衆国に似ています。

合衆国政府があって、各州が独自の州法を持っているように、

幕府があって、各藩には各藩の法がありました。

 

ですから、維新とは地方分権から中央集権に移行したということです。

ではなぜかといえば、歴史の授業で習ったように、万国対峙がありました。

帝国主義国家による植民地政策がありました。

侍の国日本では、ひとつの藩でも外国と戦うところも出ました。

長州藩鹿児島藩でしたね。

 

アメリカのペリーの黒船が来て、日本中が騒然とします。

お上は身分を問わず、日本中の民の意見を募集しました。

天下の一大事が起きているのにじっとしておれぬものかと松陰は、横須賀に馳せ参じます。

この目で見ないでなるものか、ということでしょう。

 

わたしは、共産主義者がバックにいるグローバリズムと戦うには、

中央集権は必要だと思っています。

彼らの勢力があまりにも大きいからです。

少なくとも教会は分権的に、救国は中央集権的に戦ったほうが良いと思ってきました。

 

全国で展開している救国運動は分権的でいいと思っていますが、

それとは別に中央集権的な運動が必要だと思いました。

その運動は、保守政権を支えるための世論の形成のためのものです。

 

アメリカにはインフォウォーズがあります。

https://www.infowars.com/

YouTubeFacebookTwitterなどから締め出されたようです。

洗礼ヨハネ的働きをされました。

INFOWARSは、メディアとは違った情報で世論を形成したことに価値がありました。

単なるデモで支援した。集会で支援した。街頭演説で支援した。

そうではなく、「世論形成」、これがポイントでした。

我が国でも今片山さつき議員がメディアにバッシングを受けている。

何か問題があれば、それを管轄する機関が対応すればいいのです。

 

我が国では震災などの災害地に、我が国の王であり王妃とも言うべき天皇陛下と皇后さまが慰問の旅に出かけられることが常です。

王でありながら、王妃でありながら、平服を身にまとい、体育館などで避難生活をしている国民のそばで跪かれて話を聞かれ励まされます。

このようなお姿を多く見てきていますから、マルキシズムに侵されていない国民であれば、天皇皇后両陛下を敬愛してきました。

 

王冠の摂理が来て、我々は皆王冠を被りますが、

問題は、お互いに相手を王や王妃として感じることができているかだと思います。

天皇皇后両陛下が、ご夫婦として仲睦まじくされていると同時に、天皇陛下美智子様皇后陛下として敬愛し、また皇后陛下も夫としてだけではなく、天皇陛下として敬愛されているように、われわれ祝福家庭もそういう意識や実感がなければ、ピエロにすぎません。

 

サンクチュアリに来てからは、めまぐるしいほどの恵みの連続で、自分が変わっていくのがわかります。

最近は遅まきですが、相対者を神が深く愛していることが毎日の生活でよく分かるようになりました。

自分の情とは違う情が、私を流れるのがはっきりわかります。

恥ずかしい話ですが、何十年も一緒に暮らしてきているのに、まったくわかりませんでした。

 

 さて、李氏朝鮮の 時代の善王は、宮中から出ていって民と直接会って直訴を受けたという。平民どころか奴婢たちつまり奴隷たちからも聞いています。

階級制度は厳然としてあるが、王は慈悲を持って奴隷に対しています。

 

エデンの園には、アダムとエバと天使長がいました。

堕落がなければ、アダムとエバの子女が直接父母に接していたように、

子孫もまたそのように接することができたことでしょう。

やがて氏族や民族が編成され、アダムとエバは初代の王と王妃になる。

人類始祖アダムとエバが万王の王や王妃になれば、その子女たちである善男善女も王と王妃になったはずです。

 

堕落世界にも、アダムとエバの模擬的な王と王妃が誕生して、

王のもとに両班の官僚組織ができる。

それが天使長です。

李氏朝鮮の善王が民のため三審制度を作っています。

王は民が正しく裁定されるために、そのようなおふれを言い渡して終わります。

あとは両班たちが担当するが、奴隷や民が有利になれば自分が損をする。

だから、姑息な手段を使って王の意図を骨抜きにしていった。

 

 

王 ⇒ 貴族 ⇒ 民

宰相 ⇒ 大臣や議員 ⇒ 民

 

構図が西欧や東洋で覆されてきた。

王の代わりに民が選んで代表を立てるようになったりした。

 

キリストの血族である民は、もはや平民ではなくなった。

キリストの直系が王族なら、民は皇族となった。

キリストが万王の王ならば、民も王となった。

この思想は、社会思想史の中でもっとも革命的な思想です。

 

マトリックスの中に生きていた我々は、本来の姿が王であるとは夢にも思わなかった。

 

 アダムとエバ(万王の王と王妃) ⇒  万民(王と王妃)

 

天使長によって悪なる主管を受けない時代がやってくる。

ドラマ「広開土太王」を見ると、天使長が堕落してサタンとなって王の座と王子の座を奪おうとするのかがよく分かる。

国進様が政府は天使長だという意味がよく分かる。

お父様が通過された道が見えるようにわかる。

 

王には王を支える善の天使の基盤がサタンの基盤よりしっかりしていないと、

やられてしまう。

万王の王も同様で、実際には善の天使と悪の天使の戦いなのです。

ちょうど、天においてミカエルが堕落してサタンとなった天使長ルシファーと戦ったように、万王の王やその代身には善の基盤がなければならない。

 

 

 

 


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