原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

家庭連合の思考停止教育とサンクチュアリの主体思行教育

随分前に、ピーター・ゼンゲという人が、「学習する組織」(ラーニング・オーガニゼーション)という本を書きました。

組織の上層部によって成員が教育される組織ではなく、各自が主体的に学習していく組織を目指すべきだという内容であったかと思います。

QCサークルというものが会社にあって、会社の中で生じてくる問題や課題を分析して、解決する小グループの活動がありました。

また、ホンダなんかもワイワイガヤガヤと小グループで仕事上のことを討論したり提案したりして、会社の成長と発展に貢献したようです。

こういう日本人の器用な活動の特徴を西洋も取り入れようということで研究したのでしょう。

日本のものがアメリカに行って、また日本に戻ってくるということがあります。

QC(クオリティ・コントロール)というのも、日本のものは最前線の活動ユニットでのことですが、アメリカ人は、トップの経営視点からこれを見直しました。

TQCと言ったと思います。トータル・クオリティ・コントロール

また、日本人は阿吽の呼吸で根回しをします。

これが西洋人にはできません。

そこで、グループ・ウエアというソフトを造ったようです。

 

日本企業は末端の組織の成員が主体的な努力をして、底支えして成長期に貢献してきました。

ところが、われわれの家庭連合においてはどうであったでしょうか?

この世の組織に劣りました。

 

随分前に、工藤公康投手の息子さんがテレビドラマに出た時、実業団の野球チームの投手の役でした。阿須加さんと言います。

息子さんは野球を志して来たわけではないので、投球フォームは素人そのものです。

そこでお父さんの指導を受けたそうですが、

「投球はケツから入るんだ」と言ってやって見せ、本人にやらせます。

アドバイスはそれだけで、1時間、さらにとやらせたといいます。

つまり、自分でやりながら、自分の力でそれをつかめということなのでしょう。

拳に握り隠された答えを、掌を開けてはいこれが答えだよと教えるのではなく、

そう知識としての答えではなく、考えることを教えていたのだと思います。

 

家庭連合ではこれができませんでした。

 

学習する組織ではなく、教育される組織でした。

学習する主人ではなく、教育される奴隷でした。

 

天一国主人ではなく、天一国奴隷です。

祝福の中心家庭ではなく、呪いの底辺家庭です。

 

ところが、サンクチュアリに所属していても

実は家庭連合時代に教会長や教育部長をしてきた人が意外に危ないんです。

知らず知らず癖がついているんです。

自分が面倒見てやらなけりゃと、ひと肌もふた肌も脱いじゃうんです。

これがいけません。

例えばメルマガみたいに、今日の御言葉、今週の御言葉という具合にです。

至れり尽くせり?

その結果、思考停止になっちゃうんです。

善意でやればやるほど、結果は悪くなります。

まあ、初期はいいんです。

ですがこれが伝統になったら、リーダーの御言葉なしには生きていけなくなっていきます。

御言葉を与えられながら、実際は奴隷になってしまったのが、家庭連合の信徒でした。

 

一年に一万人もの食口が出ていったとしたら、

単なる分派活動とは違うと普通ならそう思うはずなんですよ。

 

「こんな大事件が起こっているんだ。

何が何でもこの目で見てきて、この耳で聞いてきて、何が起こっているのか

アメリカまで自分が行かない訳にはいかない。」

 

こう思うなら維新の志士に通じるものがあるのだと思います。

主人ではなく、飼いならされた羊さんでした。

アボジは羊ではなく羊飼いにしたかったはずですが・・・

 

訓読会で教育しなければなりません。教育が訓読会です。それで「黒板に書きながら講義をするな」と命令を下しました。「本でしなさい」と言いました。十回読み、百回読めば、自動的に骨子がすべて分かります。繰り返さなければならないのです。技術者たちも繰り返さなければなりません。有名な選手やチャンピオンも、繰り返して繰り返してなったのです。繰り返しの大王がチャンピオンです。(318−45,2000・3・1)

御言葉訓読と霊界動員 文鮮明

 

あの人にあれもしてやり、この人にもそれをしてやりとずってしていましたら、

とうとう、「あなたのような素晴らしい方のお話が聞けて幸せです」と讃えられ、

いつの間にか自分の王国を造ってしまうことにもなりかねません。

お父様は「お前たち夫婦も王と王妃になるのだ」というのに、

なにやら立派な方の王国の住人になってしまって、

自分たちは王や王妃であることを放棄してしまいます。

 

学習する組織を作らなければなりません。

 

自立か他律か?

独存か依存か?

自信か他信か?

自責か他責か?

主動か他動か?

自分任せか人頼りか?

 

教育とは学習する人をつくることです。

そこで工藤投手はお子さんに見かけ上は不親切な指導をされました。

しかし、長い人生において重要なことを教えようとされたのでしょう。

お父様も、訓読100編意自ずから通ずということでしょう。

 

最後にもう一つ同じ本の中から御言葉を読んでみましょう。

 

 何をもってサタンに勝つことができるのでしょうか?皆さんは、み言をもってサタンに勝たなければなりません。皆さんが原理を知っていると思っても、それを現実の基盤で確定し、蕩減復帰という事実を中心として、サタンが自分に攻撃戦を仕掛けていることを実感できなくなれば、信仰生活とは何の関係もありません。いくらみ言葉を語り、いくら努力したとしても霊界が協助しないのです。

 霊界にいるすべての麗人たちは、天使世界に相当します。ですから、皆さんが再創造の役事をするにおいては、神様が創造されたのと同じように、天使長の協助圏、善の霊界が協助できる内容を提示しなければならないのです。そのためには、原理原則のアダムの位置を守っていかなければなりません。

 原理原則の基盤においてサタンを分別して余りある、サタンが侵犯しない本然の原理原則的な基盤に立脚しなければ、サタンに勝つことはできません。サタンを除去できる基盤に自分が立つまでは、神様が干渉できないのです。問題はそこにあるのです。いつもそれを考えなければなりません。(198−7,1990・1・20)

御言葉訓読と霊界動員 文鮮明

 

 


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