独生女神学の三位一体はすでに天基2年には、牧会者養成教材として使われてきているという。既に、また今後このような信仰観の牧会者が日本全国に配属されるであろう。また、受講を受けてない者への独生女神学の教育も進んでいるのかも知れない。
独生女神学は単なる一部のトンデモ神学者の学説ではなく、協会公認の教義として活用されていることが明らかになった。
進撃する巨人のように、日本食口が食べられ、永遠の命を落とすことがないように願いたい。
原理講論の創造原理では神の定義に当たる部分がある。
神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。
ここで、「被造世界に対しては、性相的な男性格主体」というような関係性は、通常は文字通り神と被造世界のみの関係性として読むことが多い。
ところが、何故そのような関係性が現れてきたのかと、一歩踏み込んで考えていくと、もともと神自体内においてもそのような関係性が存在したのであろうと推測することができる。
しかもそのような主体と対象の関係性を持ちながら、かつ中和されているというのである。
構造的に頭の中で文章化すればそんな風にもなるが、実際にはイメージとして創造しにくい世界が神の姿である。
このあたりをお父様が説明されていると思われるのが、
天聖経 宇宙の根本 第一章 宇宙の根本秩序 1)神の二性性相の大展開
①神は二性性相の中和的主体 の次のような文章です。
神様は、二性性相の男性的主体だというのです。それでは、その神様は、誰に似ているのでしょうか。私たちに似ていて、私に似ていて、皆さんに似ているというのです。同じなのです。それゆえに、「主体格」という言葉は、必ず相対格位を介在させて成立するのです。そのような概念が含まれています。相対格というものを必要とするために、「主体格」という言葉が出てくるというのです。
何が統一的起源をもたらすのでしょうか。一人でいらっしゃる神様を、統一的位置で何が喜ばせてさしあげるのでしょうか。「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。その男性格位というものが、どのようにして男性格位になるのかを知らなければなりません。男性格位ならば主体でありプラスですが、相対なくしてはプラスはありません。その概念の中で、なぜプラス格位にいらっしゃるのですか。愛ゆえにいらっしゃるのです。絶対的神様も絶対的に服従してみたいというのです。愛には絶対的に従順になりたい、絶対的に一つになりたいというそのような基台がなくなる時には、統一も融合も和合というものもありません。それは、根源がないために分散してしまいます。
神様がアダムとエバを造って二性性相を分立して中和的存在になろうとするなら、何を中心として中和的存在でなければなりませんか。愛を中心として中和的存在でなければなりません。それとともに、格位においては男性的主体格でなければなりません。
神様は何を願うのでしょうか。創造をされて、創造理想を完成して何をしようというのですか。神様御自身も愛をなそうというのです。神様御自身が願うことは何でしょうか。神様は、「原理」でいえば二性性相の中和的存在です。主体的存在です。このように、ぱっと一言で定立します。男性格を備えた主体的存在だというのです。
これを、別の角度からお父様が説明されているのが
天聖経 真の神様 二 無形の神様は体が必要
1,からだをもつためにアダムとエバを創造
アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。
実体をかぶった、神様の体で造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには実体の体がなければなりません。それがあってこそ見たり聞いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダムだというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。それゆえアダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神様の妻として創造されたのです。
そこで、中心人物はアダム(男性)でなければならないのである。
アダムの心情と血統の相続者である男子が後継者になることができる。
女性を中心ではなく
「アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神様の人間創造の目的です。」
と言われるわけである。
女性は神ではないのである。厳密には神の妻なので、神の実体のアダムと一体化したときはじめて、共に神になるのである。
女性は神ではないが、神の妻なのである。
この違いをよくよく理解することが重要なのである。
神の中の男性と女性は同格ではない。
神の女性が主体格で、男性が対象格ではない。
神の中の男性が主体格で、女性は対象格である。
従って神の体ではない女性が
女性に対しては信仰の後継者として祝福することは問題ないとしても
血統と心情の後継者として祝福する権能は与えられていないのである。
独生女神学の正統性のためには、原理講論の都合よく利用できる部分は活用しながら、都合の悪い部分は切り捨てたいために、聖典からはずさなければならない事情があるように感じられる。
亨進様が原理講論も聖典であると強調されるのはこのような背景もあるからなのだろう。
①主体の位置の夫は主体である神と一つになって
その次に妻を完成させる
②対象的位置にある妻は
主体的な夫と一つになって
夫を完成させる
③夫と妻は息子と娘として生まれました。
各自父母に仕えることで成長して完成される。
④従って、夫は自分の母親に侍り、妻に仕え、
妻は自分の父親に侍り、夫に仕える。
この御言葉の核心部分は、太字のところである。
「妻を完成させる」すなわち妻は夫の指導によって完成するが
夫は妻の指導によって完成するのではない。
「主体的な夫と一つになって
夫を完成させる」
そのようにお父様は言っておられるのである。
勿論、その前提が
「主体である神と一つになって
その次に妻を完成させる」
神 ← 夫 ← 妻
絶対従順 絶対従順
神に対する愛で絶対従順している夫に
主体の位置にある夫を神の主体と同一視して
一つになってこそ妻は完成され、
夫も完成されるのである。
ところが、お母様は各位を離れてしまわれたのである。
お母様が対象の位置で一つにならなかったので
真の父母は完成することが一旦お預けとなってしまわれたのである。