我が家の理想相対から、「あなたは何故ブログを書かずに、韓国ドラマばかりを見ているのですか?」と尋ねられた。
その時はにっこり笑って説明しなかったのだが、相対者が床につく際に、何も言わないのは他人行儀かと考え直して一言告げた。
「神様が見るようにお命じになったからだよ。」
ところがこんな言い方で益々困惑したようである。
何を見るように指示があったかというと
名前は知っていたが見たいと思ったことがない。
また、私が見た韓流ドラマは実に数少ない。10本に満たない。
今回、途中まで見たところ「やはりそうか」と思った。
神は惻隠の情を私に示したかったようである。
惻隠の情というのは、通常,相手の立場に立って同情し哀れに思うことであるが、惻は哀れみ痛むことで穏は陰ながら心配することを指している。
しかし、私がここで言う意味はこの意味ではない。
さすがに主の国韓国だけあって、ドラマに出てくる特殊な「惻隠の情」のことである。
「大いなる遺産」の主人公が、自身が生きていくことができないような絶体絶命の窮地に至っていたとしても、目前に困った人がいることを知った時に、これを見過ごすことができず、過ぎ去って行くことができない心情とその発露としての哀れみ深い行為のことである。
チャングムを見始めたところだが・・・
宮廷女官の友人が不注意から中国の皇帝管轄のもとに育てられた特別な金鶏という鳥を逃がしてしまう。これが発覚すれば罰を受け宮廷を去らなければならない。
この鳥は朝鮮の君主の誕生祝いにはるばる運び込まれたものである。
そこで別の金鶏を密かに宮中を出て探し求めねばならない。
しかし、宮廷女官は王の女である。王の妻のような位置にある。
宮廷を勝手に出ることは追放を意味する。
このように大変な事情に陥った友人を見過ごすことができず、チャングムは鉄柵が壊れているところを案内し、友人と共にタイムリミットが目前に迫る情況を打破しようとする。時間がないのでそれぞれ別行動をして探して、ある地点で合流するすることにする。両者共に代わりの金鶏を得ることができたが、チャングムが待ち合わせのところにぎりぎりまで待っても戻ってこない。友人のために宮中を出るのも命がけであったはずのチャングムは、待ち合わせの場所に戻る途中で、韓国の情勢や地形の情報収集のため密かに活動をする倭寇を発見し挌闘し瀕死の重傷を被り倒れている役人を見かけ、時間がないにもかかわらず、これを見捨てることができず、見過ごすことができないで介抱の限りを尽くす。なんとか命を取り留めることができたものの、約束の時間が過ぎ、入宮できる手はずを整えていたことに乗り遅れてしまう。開いていた鉄柵の辺りも直されていて入ることができないでいた、やがて見張りの者たちに外で捉えられ自分が窮地に陥ってしまう。友人の方は目的を達成して無事帰ってきていたのにである。チャングムの運命は如何に・・・
要点は自分が窮地に立った中でも、目前に困った人がいれば見捨てることも見過ごして過ぎ去ることもできず、ただその人のために至誠を尽くすということである。
そこで滅びるならばそれが自分の天命であると受け入れる心情がある。
そうした心情に立っているので誰も恨むことができない、自身の心情の底に恨が積もるばかり。
韓流ドラマの中には堕落性丸出しの恨み辛みと復讐がある一方、本然の心情を彷彿させる恨もある。
ドラマに表現された惻隠の情にただ感動して自分とは関係ないものとして、見過ごすことも見捨てることも我々は選択することができる。
しかし、この惻隠の情を日常生活や信仰生活で体験したことがなければ、心情の理解はただ頭の中で終わってしまい、残念なことになってしまうだろう。
ナイジェリアでお父様が何故次の予定地に向かって旅立つことができなくなったのか、その御心情を知ることができないだろう。
神は子が魚を求めるのに蛇を与えはしない。
子がもし心情を求めることがなければ、如何に与えようと思えども為す術がない。
気の毒で哀れな無能な神様であられる。
富を得、地位を得、賞を得、名誉を得て世界を得るも
心情がわからなくてこの道に来た価値があることだろうか?
メシアであられる尊いお姿を隠されて、とうてい相対できぬ妖邪な大衆の中に飛び込まれて、堕落人間の抱く喜怒哀楽を哀れみながら、そのもの達よりも身を低くされて侍ってくださり、我々の死んだ魂に永遠の命を吹き込んで下さったお父様の心に触れることが許されるのは、この惻隠の情を体験し通過する以外に道はないと信ずる。
チャングムは金鶏の時には迷いがなかった。
だがさすがにさらに難題が重なり瀕死の重傷を負った人に遭遇した際は、自分と自分の大切な友人と見知らぬ人の命とが頭の中を交叉した。しかし、この迷いを振り払って覚悟を決める。時間はどんどん過ぎていく。
自分を捨て、自分情の近い者を自分と思って後回しにして、自分と友人と他人の三者の死線を超えていく。
ここに心情がある。
生命体を超えた生霊体として生きる神の子たる人間の矜持がある。
知るか知らないか。
知りたいか知りたくないか。
知ろうと動くか動かぬか。
各自の心次第である。
お父様の御生涯は迷いの片鱗さえ見せない。
圧巻の世界である。
残念ながら我々には迷いがある。
では惻隠の情と迷いをどのようにしっかり自分の心の中に把握すべきであろうか?
これを学ぶに映画「奇跡の人」以外に相応しい作品はなかろう。
そのうち若い二世の方と共にこの映画から何を学びどう我々の信仰生活に活かすか考えてみたいと思う。
惻隠の情は体験した者同士は語らずとも知れるものである。
お父様がお創りになられた統一教会は神とお父様の宝に満ちている。
空海の言葉を借りるならば「秘密荘厳」とでも言えようか。
:8)見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。
:9)左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。
ヨブ記23章8~9節
神を探しても何処にも見当たらない暗黒の中で隠された心情に出会う。
:6)しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
:7)むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。
コリント人への手紙Ⅰ2章6~7節
厳に慎むべきは、「原理読みの心情知らず」。