昨日 ある方からこのサイトを教えられました。
埼玉サンクチュアリ教会 年内の活動方針 - 埼玉サンクチュアリ教会
大変立派な教会長さんでいらっしゃいますね。
埼玉や東京の方は特に注目してください。
勝手ながら文章を引用させて頂きます。
埼玉サンクチュアリ教会 年内の活動方針
今回の「巡礼」の中で、短い時間ですが、亨進様から一対一で(夫婦対夫婦で)、日本語で、み言を賜る貴重な機会がありました。
「政府が市民を奴隷にしていた、サタンの王権は終わり、政府が奴隷になります」
「天一国市民は、天一国主人であり、王様の兄弟の王様になります」
「それが神様の王権です」
この「自由社会」のメッセージを再確認して、埼玉サンクチュアリ教会長は、年内の活動方針を次の通り定めます。
1.埼玉サンクチュアリ教会長は、県内の各市の教会長を探し立てます。
埼玉サンクチュアリ教会長は、各市の教会長の上に立つのではなく、各市の教会長に協助する立場です。
埼玉サンクチュアリ教会長は、自己の立場に、よりふさわしい個性真理体を探し立てた時には交代します。
2.各市の教会長は、市内の氏族的メシヤ・家庭教会長を探し立てます。
各市の教会長は、氏族的メシヤ・家庭教会長の上に立つのではなく、氏族的メシヤ・家庭教会長に協助する立場です。
各市の教会長は、自己の立場に、よりふさわしい個性真理体を探し立てた時には交代します。
3.氏族的メシヤ・家庭教会長は、インターネットを通して、または、所属教会長を通して、亨進様の指導を受けます。
氏族的メシヤ・家庭教会長は、所属教会長の協助を受けて、米国サンクチュアリ教会本部を巡礼し、亨進様から親しく直接に、祝福とみ言を受けることを目指します。
それは、従来のピラミッド型の組織で、少数の幹部達が独占していた恵みを、平たく平等に、全ての祝福家庭が受けるためです。
そうして、全ての祝福家庭が、王様の兄弟の王様となり、自分自身が神様の王権を代身すること、それが今、解放・釈放時代の摂理です。
御言葉を語るものは天使長です。
御言葉を実践し体恤する者が神の子です。
天使長には自分より優れた者、アダムとエバが誕生した時、
彼らを神の立場で祝福し、重んじることができませんでした。
我々はこれを克服しなければなりません。
「埼玉サンクチュアリ教会長は、各市の教会長の上に立つのではなく、各市の教会長に協助する立場です。」
イエス様は天に召されていく前に、洗足の儀式バプテスマを施してくださり、我々にヨルダン川を渡って行くよう恵をくださいました。
これは、主自ら弟子や人々に僕として仕え奉仕してこられた、サーバント・リーダーシップ精神の伝授式であり、相続式でありました。
主人とは仕える者である
というのです。
「協助」
信徒たちの神の御旨に対する、自発的動機や自発的意志の強化や成長を促進するよう、彼らの主体性に協力し支援することによって、より多くの成果を神の前に捧げられるよう導くことであった。
モチベーションの火付け役にはなっても、マニピュレーション、操作してはいけません。
これが天使長にはできず、これができない信徒は天使長の堕落性に絡みつかれ拘束されている状態だというのです。
だから、気をつけなさいと。
「埼玉サンクチュアリ教会長は、自己の立場に、よりふさわしい個性真理体を探し立てた時には交代します」
後から着た者を自分以上に祝福したい抑えがたい心情をもつことこそ、神の御心です。
大変素晴らしいことですね。
「各市の教会長は、自己の立場に、よりふさわしい個性真理体を探し立てた時には交代します。」
ご自分が率先垂範するので、下の者にも同様なことを神の願いとして自然に要請することができます。
「全ての祝福家庭が、王様の兄弟の王様となり、自分自身が神様の王権を代身すること、それが今、解放・釈放時代の摂理です。」
私が神様の導きによって、韓流の時代劇を選んで見ているのは、韓国文化の基底に流れる心情とは何かを確認するためです。
だいたい2つのパターンがしばしば現れてきます。
1,通りがかった人を見過ごすことができない。見捨てることができない心情。
だが、この人を助けたいが、この人を助けると自分の立場や命が危ない。
自分をとるか、人をとるか、それが問題だ。究極の選択を迫られる。
2,自分にとって命より貴い方お二人の、いずれかをとりいずれかを捨てよという選択を迫られる。どちらも捨てずどちらをもとる第三の選択を身もだえしながら見出し
て超えていく心情。
「天命」というドラマを深夜見たのですが、
主人公は無実の罪を背負って、「逃亡者」のように真犯人を捜し出すため奔走しています。だが 主人公の似顔絵の書いた、お尋ね者の張り紙が至る所に貼られ、役人たちは必死で探しています。
あるとき高い塀で囲まれたところで警備していた者に、主人公は不審者として声をかけられ、逃げるため取っ組み合いになり、二人とも高い塀から墜ちてしまい、警備していた者は打ち所が悪く、白目をむいています。
このままでは命が危ない。
そこへ運の悪いことに主人公を追って捜し回っていた10人ぐらいの役人たちが「待て!」とばかりに遠くから走ってきます。
一瞬どうしよう逃げなくてはと主人公は思うのですが、医者なのでこのまま気絶している者を放っておいて逃げていったら、命に関わると、自分の事情を「えい、やっ」とばかりに振り切って、鍼を施し応急処置をします。追っ手はどんどん近づいてきます。
なんとか手当を済ませて、一目散に主人公は逃げていく
宋総会長と徳野会長が亨進様から非難されたのは
お父様が何度も死の淵から生還されてきた証を知りながら
見過ごすどころか、生命維持装置をはずすことを黙認したということでしょう。
確か徳野会長はお父様には13でしたか管がとりつけていたとお話ししていたように記憶しています。
お母様がおまえたちにも会わせてあげようと、死の谷を彷徨うお父様に面会することを許されたお話でした。
人間的に見ればぞっとするようなお姿であったに違いありません。
だが、生命維持装置をはずすことを見過ごした。
見過ごすことは罪だというのです。
我々には遠く及ばないほど立派な信仰路程を歩まれたお二人が、何故この重要な時に判断が正しく為されないのか不思議でしたが、この件の懺訴条件が測り知れないほど大きかったからなのでしょう。
つまり、1の心情の理解が不十分であるというのです。
お二人にとって自分の命よりも大切なお方が、お母様であり亨進様です。
この二人のどちらかをとれとサタンは試練をしています。
チャングムが超えていったように、
お二人を愛して行く第三の道を
我々も行かなければならないのです。
チャングムは王も王妃も捨てません。
心情の十字架を超えていくのです。
信仰の路程では必ずそういう道が待っています。
それは神が我々を厳しく鍛え、秘密の心情を与えたいからなのです。
神はまさにその心情ただひとつを私たちに与えたいのです。
その思いを伝えることができないで切なく哀しい表情で
ただただ我々を暖かく見つめておられるのです。
チャングムは王の秘密を知っていました。
王は民が幸せになるため多くの法や政策を実施されていたのですが、多くの人には知られていませんでした。臣下は自分の権勢と利権のため一族の繁栄のため王を利用して仕えていました。
だが チャングムはたったひとり王の胸に秘めていた秘密の心情、天の心を我が身を代身にして民の心に侍っていた王の矜持を見抜いていたのです。
お父様が何かを成されていても信俊様がやって来ると止まってしまうのは、お父様のたった一人の心情の対象だからです。
こんな幼い子供がお父様と敬礼している姿には、この二人にしか理解できない心情の世界があるのです。
心情とはなんと深く恐ろしいものでしょう。
たった一人、我が心を知るチャングムを王は放っておくことができるでしょうか?
側室にして心の支えとなってほしかったことでしょう。
チャングムは王だけでなく王妃もこよなく敬愛して侍っています。
どっちも選ぶことも捨てることもできません。
二人を愛する道を求めて超えていかなければなりません。
また、チャングムには約束した人がいます。
その者は大変王に忠実な功臣です。
それでも王は自分の地位を利用してでもチャングムを奪いたい衝動に駆られます。
ある時王が弓の稽古をされたとき、おもむろにチャングムの愛する臣下に弓を引き向けます。
あたかも
「おまえの忠誠は本物であるか?」
と問われるが如きです。
王様にチャングムを差し上げるとは言えません。
以前に「あなたを今後あなたの側で支える」と誓ったのに
大切なときにあなたはいなかったと、チャングムに泣きながら訴えられた事があります。王を見捨てることもチャングムを見捨てることもできません。
彼は意を決して、王様が弓を引いた矢の方に顔を差し出し
「御心のままに」と立ちつくします。
王もさすがに我を取り戻してその場は収まりました。
宋総会長も徳野会長も同じです。
究極の選択に迫られているのです。
「お父様とお母様のどちらを選ぶか?」
というサタンの試練に
「お父様とお母様は一体です」
で乗り越えてこられました。
「では、お母様と亨進様のどちらを選ぶか?」
の問いでは、お母様だけを選んでは心情を超えていけないのです。
その答えは、一つしかありません。
お母様を天使長から救い出そうとされている亨進様と心情を一つにして超えていく道しかありません。
見かけは亨進様を選んでいるかのようですが、
そうではありません。
お二人とも選択しているのです。
だから、2の心情を理解しないとならないのです。
これは超えた者でないと判らないのです。
だから、「超えよ!」と
天は恵みの機会をくださっているのです。
私は「大王世宗」というドラマを見ていますが、
本物の王とは何か?
偽りの王とは何か?
本物の忠誠とは何か?
偽りの忠誠とは何か?
心情の境とは何か?
などの絞ってみています。
心情は新約聖書より
韓流の時代劇の方がより学ぶことができるくらいです。
「全ての祝福家庭が、王様の兄弟の王様となり、自分自身が神様の王権を代身すること、それが今、解放・釈放時代の摂理です。」
私たちは王の心を持たなければなりません。
「民を思うこころ」と「民主主義」は違います。
神主敬民主義とでも言うべきものです。
主人は神様であり天です。
神を思う如く民を敬う心です。
埼玉サンクユアリ教会に榮あれ!