原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

サタンがイエス様に試みた三大試練の第二試練      手を上げるモーセを支えるアロンとホル    及び十字架回避のための侍義 

 

1)そこで、会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。

:2)またイスラエルの人々はみなモーセとアロンにむかってつぶやき、全会衆は彼らに言った、「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。

:3)なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」。

:4)彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。

民数記14章1~4節

 

かっての恩寵よりも現在の困窮に常に注目して止まないのが人の心なのだろうか?

またひとりのリーダーを立てて分派活動に向かおうとすることも、数千年前から堕落人間の慣わしであった。

 

度重なる民の不信にたいして、ついにやりきれない思いがモーセの心で血気怒気となって爆発した時、来るべきキリストを象徴しているメリバの岩を神の立場で一度打つべきものを、不浄の情で2度打ってしまった。

岩はキリストを表すゆえに、将来キリストも民が普請すればサタンによって侵入される間接的条件を生むことになり、それゆえモーセはカナンに至ることが許されず、遠くから見ることだけに限られた。

洗礼ヨハネは主を証したが、分派活動をして使命を果たせず、信仰基台にサタンが侵入することになった。

アダムが創造目的である三大祝福を実現して地上天国を実現することができなかったことを、第二アダムであるイエス様が代わって果たすためには、メリバの岩の実体である永遠に渇くことのない水を与えられる本来の立場を取り戻さなければならなかった。

イスラエルの不信とモーセの失敗によって、サタンがふたつの石版と盤石を所有し、このことからイエス様に試練を与えることができる主体的位置にサタンがいたためであった。

 

サタンは3つの試練を与えている。

ざっと振り返ってみれば

 

第一試練

「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」

ヨハネによる福音書4章3節

                 ↓

「人は、パンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」

同4章4節

石すなわち神の御言葉の書かれたキリストを象徴する石版、霊の糧よりも肉の糧をとれとサタンは誘惑する。

ちょうど人類始祖のアダムが神の御言葉を捨て、霊人体を持つ霊的存在であることを放棄し、肉身とそれによる生活に価値を置き堕落したように、イエスよ、おまえも堕落してわたしの血統であることを自認せよというわけであった。

 

イエス様はこれを神の御言葉をもって退けることにより、三大祝福の第一祝福「成熟せよ」神の子たる個性完成の道を切り開かれたのであった。

 

すでに創造本然の完成人間である神の子の位置を復帰したイエス様はサタンの試練を受ける必要のない立場であったが、以後も試練を受けて立った。

 

第二試練

イエスを宮の頂上にに立たせて、

「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。

マタイによる福音書4章6節

                   ↓

イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

同7節

 

コリント人への手紙Ⅰ 3章16節に「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分の内に宿っていることを知らないのか」とイエス様は語られ、

ヨハネによる福音書2章19~21節では

:19)イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。

:20)そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。

:21)イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである

 

宮すなわち神の神殿の頂上、神殿主管者としてのイエス様を認めたが、そこから墜ちて堕落せよという意味を込めて御言葉を使って試練したが、イエス様も御言葉でこれを撃退した。堕落して神に祝福された結婚を放棄せよとの狙いがあった。

この勝利で第二祝福すなわち「殖えよ」家庭完成の道をイエス様は切り開いた。

 

第三試練

イエス様を非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその栄華を見せながら

「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 

マタイによる福音書4章9節

                   ↓

「主なるあなたの神を拝し、ただ神のみに仕えよ」

同10節

天使は神と神の子に仕えるべく創造された。

サタンの造ったこの世的な価値観によって身を滅ぼすことなく、本来の神の子として託された被造世界である天宙の主管主としての道を切り開いた。

以上三大祝福の復帰の基台を勝利し、神の国実現に歩みを進めることになった。

 

さて、このうちの第二祝福だがサタンの言葉の根拠となる部分は

彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。

詩編91章12節

これをもとにサタンは

『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』

と言ったのであった。

これを見てわたしが思うことは、つくづく十字架というものが神の悲願であった真の家庭の実現を阻止する意図のものであったということである。

アダムは御言葉(戒め)を守るという信仰基台のみならず、三大天使長を主管して実体基台を造成して初めて、神に祝福された結婚を迎えて家庭を持つことができたのであろうことである。

原理講論の説明では何故これが家庭完成と関係しているのかが大変わかりにくいものであった。

そこで実体基台を堕落性を脱ぐ視点ではなく、天使長を主管する視点で考えてみると、アダムは三人の天使長を主管できて家庭を持つことができ、我々は三天使長を意味する三人の霊の子女を得て家庭を持つことができると解される。

 

さて、モーセ路程の中でモーセの意向を受けてアマレクと闘うことがあった。

この時、モーセが手を上げるとイスラエルが勝ち、モーセが手を下げると負けた。

これを見たアロンとホルがモーセが疲れても手を下げないでいられるように支えたのだった。

:10)ヨシュアモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。

:11)モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った

:12)しかしモーセの手が重くなったのでアロンホルを取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。

:13)ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った

:14)主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」。

:15)モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。 :16)そしてモーセは言った、

「主の旗にむかって手を上げる、

主は世々アマレクと戦われる」。 

出エジプト記17章10~15節

 

この箇所について原理講論では、

四位基台で説明して

神の立場のモーセを中心として

主体であるアロンは将来来られるイエス様を

対象であるホルは聖霊

この三位一体のもとで闘うヨシュア

信徒を

戦いの相手であるアマレクはサタンを

象徴し置き換えらることができ

神を中心とするイエス様と聖霊の三位一体を信じる信仰者たちが

内的心情一致によって、外的サタンを滅ぼすことができることを予示されたと説明する。

 

ところでイエス様は理想相対である花嫁と結ばれることができていなかった。

そこで家庭的四位基台は存在していなかった。

ここからは私見であるが、

アダムを中心とした家庭的四位基台が完成されるまでは、神様が臨在され支配され運行される基台が存在しなかった。

そこでこれができあがる以前に神が用意した四位基台が神様を中心とする三大天使が構成する四位基台であったことだろう。

アダムを中心として成就する予定の家庭的四位基台が内的であるのに対して、天使の四位基台は外的なものでしかなかった。

堕落の経緯を振り返ると、

外的四位基台の崩壊→内的四位基台の試練

言いかえると

天使あるいは僕の四位基台の崩壊→真の家庭の試練

三大天使は三大弟子に置き換えることができる。

おそらくその時々の摂理上重要な真の御家庭を支える三人が実質的な役割を担っているのかも知れない。

主の旗にむかって手を上げる → 内的な三位一体の心情一致

主は世々アマレクと戦われる  → 外的なサタンの撃破粉砕

 神は時代を超えて勝利の公式を信徒に与えてくださっている。

 

神とサタンの主戦場はこの内外の四位基台である。

どんなに手練手管を行使して、戦略戦術だと言い張っても、一貫して復帰摂理で貫かれてきた神とサタンの一線は、神が立てた中心人物とその家庭的四位基台である。

分派活動に陥ってしまう人々はこの辺りの理解に問題がある。

神の摂理の進展はあくまで復帰摂理の原理原則に従って進展していくものであり、政治的な手腕やパフォーマンスでは決して為し得ない。

 

わたしはこのアロンとホルの行動を聞くたびに、十字架上のイエス様を思い出すことが多かった。

この三位一体は内的に見れば上記の如くだが、外的に見るとイエス様を中心とした三大弟子を意味すると考えることができる。

ゲッセマネの園で死を覚悟する祈祷をイエス様と共に三弟子が勝利して、三大天使を思わせるアロンとホルとヨシュアモーセを中心に心情一体化したしたように、イエス様を支える使命を全うし、3人の死に代えてイエス様を行かす道を探り求め実践したならば、

「彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。」

の御言葉が成就するはずであったことだろう。

 『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』

御使たちとは、天使が僕であるように、主の僕、三弟子のことである。

いかに側近問題が重要かはこの点をしても理解できることであろう。

神が運行することのできる内外の四位基台が必要不可欠であり、どんなに御旨成就のために必要であるかを、神様は我々に教示されているのである。

 

お父様とお母様がこよなく愛された信俊様の理想相対がどなたになるかが問題である。わたしに到底どうのという資格はないが、これほどお父様の御家庭が親族を増やす中で混乱が生じてきたことを思うと、法的にどうかは知らないが、同じ子女様の御家庭から選ばれて、従兄弟同士で結ばれ、妖邪な群れがとぐろを巻いて巻き付くリスクを回避してほしいと願うものである。

三代目の御孫様のための十字架回避のための侍義がわれわれすべての信徒に問われているのである。

真の御父母様を国賓として初めて迎えたナイジェリアのジョナサン大統領が選挙で敗れ、統一原理を霊界で学ばれた仏陀がネパールを驚異的な発展に導いたが、地震によって大変な被害を被ってしまっている。

中心人物と中心家庭が心情一致し結束するよう支え侍る道が

神は我が勝利の御旗なりという信仰ではないだろうか?