高校時代に親友が、イエス様の失われた子羊や、失われた銀貨の譬え話について、失ってしまったと思っていたものが見つかったときには、そのものは以前の子羊や銀貨より価値があるのだということをイエス様は語られたのであろうと語った。したがって、死んでしまったと思っていたり、失われてしまったと思っていた我が子が生きて帰ってきたときには、父にとって以前の息子以上の価値があるというのである。
なかなか良いことを言うものだと感心したものである。
さて、放蕩息子の譬え話を読んでみよう。
ルカによる福音書15章11節~32節
11 また言われた。「ある人に、ふたりのむすこがあった。
12 ところが、弟が父親に言った。『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。
13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼に豚を飼わせた。
16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
17 そこで彼は本心に立ちかえっていった、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
25 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえたので、
26 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
27 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
28 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、
29 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。
30 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました。
31 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。
32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当たり前である』」。
11節は「あるひとにふたりのむすこがあった」から始まるが、父と子を二つと見ず、ふたりのむすこをひとりのむすことしてみるのが、統一智的な見方であることを念頭にして見ていきたい。
12節にある「あなた(父)の財産」を全体、まるごと一つのものであると、理解して注意すると、本来分けることができないものであるにも拘わらず、そのひとつの財産から「わたしがいただく分」(私利・私財)を無理矢理に分割してくださいと弟が父に言ったのであった。そこで父はふたりに分け与えたのである。
父がまだ元気であるにも拘わらず、生前中に遺産の分け前をよこせというような話ではあるが、父は受け入れたのである。タラントを増やすことを願われたのかも知れない
13節では、さっさと自分のもの(所有意識)を全部とりまとめて、「遠い所」へ行き放蕩の限りを尽くして散財しきったのである。
新約聖書の理解においては、語られる内容表現の外的理解から 、さらに内的理解を求めることが肝要である。
そこで「遠い所」という表現も、外的には物理的距離を表してはいるが、内的には父の心情の遙か遠くというような心的な距離を表していると見ることができる。父と子が一心であるはずであるのに、二心であるということである。
放蕩というのは、突き詰めて言えば私的に生きるということである。父の心とは関係のない生き方のことである。父の価値観とは違った生き方をすることである。
旧約聖書のモーゼのあたりでは、異教の神を信じたり、偶像崇拝をすることは姦淫をすることであるとされている表現が目に付くが、家庭において神の立場にある父の心の中に生きない道の果てにあるのは放蕩であり、淫乱である。
また、財産を失ったというがこれを有形の財産とのみ受け取ることは避けねばならないであろう。では無形の財産とは何であるのか?考えていきたい。
14節では、その地方に飢饉があり、弟は飢えに悩まされたという。
飢え或いは渇きとは、財産が失われてやって来たものであり、それはそのまま財産の内的意味に通じるものであるはずだ。
15節によればその地方の住民のもとに身を寄せ、畑で豚を飼う世話をすることになる。聖書では「豚に真珠」というごとく、忌み嫌われ蔑まれる存在の代表格である。ところが、
16節では、その豚の食べる餌であるいなご豆を食べてでも空腹を満たしたいと思うほどであったという。何もくれる人がいなかったのである。
父の元にいたときには、息子である自分の下には僕がいた。ところが今や自分が人の僕になり、豚の餌をあさりたくなるほど、つまり豚以下の存在に成り果てたのである。なんという惨めなことであろうか!
17節では、ついに「he came to himself」我に返って、父のもとに働く大勢の僕たちは、僕ではあるが有り余るほどの食物に与っているというのに、自分はここで餓死寸前であることをしっかり受けとめた。
飢えてまさに死のうとしているというのも、より内的には父の真の愛に飢え餓えて霊的には死んでいるも同然であると言うことである。
18節では、帰郷して天と父の前に懺悔して、
19節では、悔い改めてもはや息子としてではなく僕としてで良いから、一緒に暮らしたいとお願いしたいと考えたのである。
20節に、父のところに出かけたというのは、単に悔やんだのではなく、悔い改めというように回心し方向転換して人生の舵取りをしたと言うわけであるが、このことは神の前に罪深いと自覚すればするほど、恥ずかしくて神から離れ逃走するというのではなく、かえって人は近づくべきであるという信仰の基本を物語っているように思われる。ところが、これをしっかりと理解していないがために悪魔の餌食になり神を遠ざけてしまうことが多いのである。はたしてそれが父の喜びであろうか?神の御心であろうか?全き愛からすれば言うに及ばずである。
さて、まだ遠く離れていたのに、父は彼を認めたという。これは物理的には如何に息子と隔てられようとも父の心は常に息子と共にある、というように出ていった息子を忘れることや思い出さないことは一度もないような心情で暮らし続けたということである。父の方からは常に息子と一心一体であり続けているというのである。それゆえ父の方から哀れに思い、居ても立ってもいられなくなり走りより、今も変わらずお前を心から愛しているとばかりに接吻をしたのである。
21節では、息子が天と父に対して心から罪を犯してしまったと告白、その罪故にもはやあなたの息子と呼ばれる「資格」なないと謝罪したのである。ここでいう罪とは見えるところの財産を浪費尽くしたと言うことであるより、目に見えないところの、父の無償の愛の心情を蹂躙したということである。この父の心情から離れた結果、放蕩生活があり散財に至ったのである。では息子としての「資格」とは何かといえば、孝心である。孝心とは父の事情と心情に生きるということである。
そこで、文鮮明 恵父は、あらゆる御旨の局面において「何よりも先ず、天の父の事情と心情を最優先させた。」とおっしゃられ全うされたのである。
22節では、父が僕たちに言いつけ、あたかも成人の日に晴れ着を着るように、新しい「着物」を出して着させ、「指輪」を手にはめて祝福し、過去の一切の負の経歴を消し去って、真っ白な人生を息子が歩めるようにと、「はきもの」を与えたのである。
ここで信仰生活で重要なことは、父(神)の許しをすっかり受け入れるということである。罪の本質は、一旦犯してしまった過ちに罪ありとするも、それでも神が許すというときに、差し伸べられた救いの手を振り解いて、自分はいや許されないと主張して神から離れていくことである。人間的な理解を避け正しい神の立場からの理解に身を委ねたいものである。罪を認識すればするほど神を求め、たとえ叱責されようとも、かえって神を求めて近づいていくことが「アバ 父よ」(天のお父様)とイエス様が語られるところである。
23節では、一番おいしい肉である「肥えた子牛」をほふらせて楽しもうと父は言ったのである。何故なら、
24節に、「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と言ったのである。私の高校時代の親友が解釈したように、死んだものと思っていたのに生きていたとしたら、それは以前の人ではもはやなく、それ以上に価値があるように父(神)は感じて下さるというのである。ブラックジャックのようにマイナスがゼロになるのではなく、そのままプラスになるが如き神の愛の世界なのである。ところが、
25節では、兄が畑から帰ってきて、家に近づくと「音楽」や「踊り」の音が聞こえてくる。
26節、一体これは何事かと僕に聞けば
27節に、事情を説明される。それを聞いて、
28節では、父が喜んでいるのに反して「おこって」家に入ろうとしなかっので父が出ていきなだめる始末。一つところに暮らしながら心は二心。
29節に、自分はずっと父の言いつけ通り生きて仕えてきたのに、「比較して」友だちが来ても、より質の悪い「子やぎ」1匹ほふってくれたことがなかったと訴えて、あたかも以前から兄に注がれていた父の「愛の減少感」を味わったかのようである。過去を帳消しにして弟の帰郷を喜ぼうとする父の心情に対して、(父の変わらぬ愛情)を過去に遡りあらぬ疑いと非難を寄せて、父の立場と心情に立てず、二心となってしまったのである。否、もとより父の心を知らずして生活してきたことが、ここに来て明らかになってしまったのである。
30節では、何故遊女どもと遊びほかして、身代を食いつぶして帰ってきた弟には、かえって高級な「肥えた子牛」をほふって与えるのか?と。
仏教に「泥の中に蓮の華」という言葉があるように、神は全き善の方であられるので、善のみに相対されるのである。そこで、ひとの堕落性や罪には相対せず、ただ創造本然の人間に備わるはずであった神性である、人間の本性(ほんせい)を訪ねて相対されるのである。
したがってイエス様は「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言われ、そのためには先ず、別のところで、すなわちマタイによる福音書7章1節から、「人をさばくな。自分がさばかれないためである。・・・」と語られたのである。
人の罪が目にとまり、それが気になり振り回されるようでは、蓮の華が泥にまみれてしまうようなものであり、自身が未だ罪から脱却し得ていないということになるのである。
31節では、父は兄がいつも私と「一緒」にいるし、私のものは「全部」あなたのものだと言う。つまり父から「遠く」に生活しているのではなく、「一緒」に生活する故に「全部」があなたのものだと。
果たしてそうであっただろうか?それが問題である。
32節では、繰り返して「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」と語ったのである。
さて、ここに二人目の放蕩息子がいたことが分かるのである。
つまり、父と一緒に暮らしていながら、弟を安ずる父の心を知らず、父の心と遙かに離心して生活し続けていた兄の姿である。
弟のことを外的放蕩息子と呼ぶならば、兄は内的な放蕩息子なのである。例えばこれは、天の父に最も近く仕えているはずの献身(出家)している者が常に信仰があるというのではなく、天の父の家である教会の外に暮らしている一般信徒(在家)であるから信仰が無いというわけではないことを物語っているのである。
キリスト教であれ仏教であれ、このことには変わりがない。
「一緒」にいるというのは「一心」であり、かつ「一体」であるということである。
父と弟の分離、父と兄の分離、兄と弟の分離。ここに天国はなく、父の心に一心一体の家庭こそが、天国の雛形なのである。
仏教は論理的な表現をする宗教であるので、無分別智という言葉があるが、それに対応してイエス様や統一原理を表せば統一智と呼ぶことができるかと考える。
しかし、この統一智なるものも、ただ対象を愛さざるを得ず、対象を愛し幸せになる姿を見て至福に至ろうとする抑えがたい神の心情を原因とし起こる知的作用であることから、統一智を単に「心情」と言った方が、われわれ統一信徒にはしっくりくるものであろう。
ホジュンは心医となったユ・ウィテと一心一体となり、心情の医師の継承者となるべきなのである。
最後に、では「財産」とは何であろうか?
財産とは父(神)の心であり、心情で結ばれた父子の関係のことである。その他のことは、本質ではなく、現象にすぎない。
父の心情の相続者と我々はなるべきであり、そうありたいと思うのである。