原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

真のお父様御生誕100周年記念、お父様の生涯路程の価値とイエス様の価値 3、キリストによって贖われてわれわれは神の養子となる

 3,キリストによって贖われてわれわれは神の養子となる。

 

 

堕落したアダム家庭の8人は、サタンの実子圏に立って落ちていったね。ただし『実子』といっても血統が違う。違うものが神の直系の血統に入ることはできません。それは養子圏に立つ以外に道がないというんだね。養子圏に立つ子供は親と一つになって、(再び)落ちていくのではなくて、長成期完成基準から7年間上がっていかなくてはならない。あなたたちは完成基準にはまだ上がっていないだろう。神の直接主管圏に上がるには、完成基準を乗り越えなければならない。それは原理の教えだよ。今はまだそうなっていない。それをまとめたのが長成期完成基準だ。アダム家庭は、ここから落ちていったんだけれど、ここを中心として7年間上がっていく。それは家庭編成のための7年間である。」

(み旨と世界 P905 信仰の三子女と本然の家庭基盤、祝福家庭と理想天国Ⅱ P925)

 

キリスト教は霊的救いです。霊的なもので、実体的な関係を結ぶことはできません。それゆえ、聖霊は母なる神としてやって来るのです。天と地のこの中間にはサタンの権勢があるので、宗教を信じる人たちは突破して上がっていかなければなりません。それゆえ、聖霊とイエス様が恋愛する心情以上の心情を持たなければ、メシヤと出会う道がないのです。だからといって、世の中のサタン世界が精誠をささげることのできる自由環境にはなれませんでした。」

(ファミリー97年3月 P15~16 第14 回「愛勝日」の御言 1997年1月2日 サンパウロ

 

 

「 ローマ人への手紙第8章23節を見ると、『御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられる(養子となる)こと、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる』とあります。養子になるというのです。神様の前には直系の息子になれないのです。養子というのは血筋が違います。

(「イエス様の生涯と愛」P29〜30)

 

ローマ書8章23節は キング・ジェームズ・バージョンでは、

And not only they, but ourselves also, which have the firstfruits of the Spirit, even we ourselves groan within ourselves, waiting for the adoption, to wit, the redemption of our body.

 

養子縁組である。

 

誤訳では、

「それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」

 

「養子たる身分」でなければならない。

 

こちらのサイトで説明があった。

υἱοθεσία - 牧師の書斎 より引用

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  • 1:5には、「ご自分の子」と訳された「ヒュイオセシア」υἱοθεσίαが使われています。「子、子ども」を表わす「ヒュイオス」υίόςではなく、「ヒュイオセシア」υἱοθεσίαは、「養子として迎えられた子、養子縁組をした子」を意味します。新約聖書では5回使われています。パウロしか使っていない独自の語彙です。
    • ローマ8:15
      「あなたがたは、・・・子としてくださるυἱοθεσία御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」
    • ローマ8:23
      「・・御霊の初穂をいただいいる私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくことυἱοθεσία、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望んでいます。」
    • ガラテヤ4:4~5
      「4しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者としてくださいました。5これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分υἱοθεσίαを受けるようになるためです。」
  • 他にもローマ9:4に使われています。そこでは、「子とされること」がイスラエルの特権だとしています。イスラエルという選民それ自体が養子縁組によって成立したのです。しかし、新約時代には、私たちは、神の長子であるイエス・キリストによって、養子縁組された神の子どもなのです。事実、今私たちは神の子どもですが、それが完全な形で実現するのは、ローマ8:23にあるようにまだ先のことです。

 

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ところで「神の子」とはなんであったのか?

 

神の子(かみのこ)とは - コトバンク

より以下に引用する。

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キリスト教の母体である旧約聖書ユダヤ教においてイスラエル民族や神から選ばれた王位への即位者が神の特別の恵みの対象として神の子と呼ばれていたが,この伝統に加え,イエス・キリスト自身が神に親しく「父よ」と呼びかけ,またみずからをその子として示したことによって,イエスの弟子たちは救い主として神からつかわされたイエスを特別の意味で神の子と理解するようになった。同時に神の子としてのイエスは神に等しい神的存在であるとする教理的思弁が進み,これとともに神の子は父,子,聖霊の三位一体の神において第二の位格をなすものとして把握された。ここから神の子はイエスと父なる神との親密な一致,キリストの超人間的・神的性質,三位の位格神としての存在などの意味表現を含むイエス・キリストへの呼び名となった。

=====

 

 

神の子は王権を認定されたものであり、サンクチュアリの王と王妃の冠はこのような伝統の嗣業である。

 

われわれの神学では三位一体という三者ではなく、われわれ子たる身分の信徒も加えられた四位基台が説かれてきた。

三位一体とは神を中心としたアダムとエバの一体化である自動的四位基台だけを指す。

俗に言えば、神を中心とした男女の一体化、夫婦の一体化のことである。

 

統一神学では、贖われ生み返される堕落人間の位格も含めた発展的四位基台でもあった。

それは空間的表現だが、時間的表現は三代王権だ。

 

ところで、イエスが神の実子なら何故イエス聖霊によって生み返された我々は養子なのだろう。

霊的にイエスの実子に何故なならないのであろうか?

それが問題である。

 

キリスト教でいうイエスに原罪がないという意味は、統一原理でいう霊的堕落の蕩減復帰が終わった血統というほどの意味であろう。

文鮮明師はそこで留まったのではない。

中途半端な血統転換で終わったお方ではないのである。

 

霊的堕落が蕩減復帰されたばかりではなく、

肉的堕落も蕩減復帰された天宙にただ一人のお方である。

 

 

すべての兄弟は「栄光の冠」を誤読している。

国際詩人協会の会議とやらの審査員基準で理解してきた。

どうして堕落人間にお父様の詩魂が分かるというのだ!

 

人間的な、あまりにも人間的な解釈で、

恩讐を愛する詩だと勘違いされ続けてきた。

この恨みを今日ここに解こう!

 

 

お父様は誰を許してきたのか?

お父様は誰を愛してきたのか?

 

復帰摂理上に現れたすべての義人聖人イエス様までも許して、

現在と未来のすべて神を裏切る者共を許して有り余る真の愛で

愛することに決着をつけたのだ。 

 

ここでお父様は、夜の神様に属する実子として歩む決着をつけたのだ!

 

 

お母様も38度線を越えなければならない。貴女は貴女が行くべき道があり、私は私なりに行く道があるなどと言って行ってみるがよい。分かれてしまうだろう。僅か1%、零点何%の差があっても分かれるのだ。天国の門に一緒に入って行かなければならない。堕落する時に一緒に堕落し、一緒に追い出され、地獄の底に一緒に行った。『先生は堕落の血を受けたか、浄い血を受けたか』と論じているが、皆さんはそうする自信があるのか。16歳で堕落したなら堕落する前のエバの名前をして、その次にアダムの代身の立場から歴史時代の代表として責任を引き受けて、蘇生段階の代表者、長成段階の代表者、完成段階の代表者、全部で8段階を越えていくことができる6千年の代表の血統を浄めずして、どうして代身して神様の血統を連結させることができるのか。原理を解釈もできない者たちが先生が純血か否か、何の血統か、先生の血がどうのこうのと議論できるのか。堕落前に血を汚したのか。16歳にしたことは何かといえば、その時に決心した内容が、その詩(栄光の冠)が何か、皆さんを教育する為のものなのか。それは私が越えるか越えられないかの闘いの宣言文である

文鮮明先生御言葉選608巻 P303) 

 

 

 

栄光の王冠

 

私が人を疑う時 私は苦痛を感じます。

私が人を審判する時 私は耐えられなくなります。

私が人を憎むと時 私は存在価値を失ってしまいます。

 

しかし もし信じれば 私はだまされてしまいます。

今宵 私は手のひらに頭を埋め 苦痛と悲しみに震えています。

私が間違っているのでしょうか。

そうです。私が間違っているのです。

 

たとえ だまされたとしても 信じなければなりません。

たとえ 裏切られたとしても 赦さなければなりません。

憎む者までも ことごとく愛してください。

涙を拭いて 微笑みで迎えてください。

人をだますことしか知らぬ者たちを

裏切りながらも 悔い改めのできない者たちまでも・・・。

 

おお主よ! 愛するという痛みよ!

私のこの苦痛を御覧ください!

熱きこの胸に 主のみ手を当ててください!

私の心臓は 深き苦悩ゆえに 張り裂けんばかりです。

 

しかし 裏切った者たちを愛した時 私は勝利を勝ち取りました。

もし あなたも 私のように愛するならば

私はあなたに 「栄光の王冠」をお捧げします。

 

 

 

 

神様が味わってこられたすべての屈辱の苦痛を通過して、

万民を祝福する至高の心情を確かに掴んだのだ!

その苦悩を、そのゲッセマネを超えた心情を我々は如何にして相続して

どうすればいいというのだ!

芳遠のようにのらりくらりか?

夢周のように血を吐いていくのか?

二つに一つだ!

選び給え!

 

하여가(何如歌)      이방원(李芳遠イ・バンウォン) 

        
이런들 어떠하리 저런들 어떠하리    *ㄴ들 だとしても
만수산 드렁칡이 얽혀진들 어떠하리   *리 反語的に であろうかしようか
우리도 이같이 얽혀 백년을 누리리라  *리라 推量 意思

こうだとしてもいいしああだとしてもいい
マンス山の葛のつるがからんだとしてもいいではないか
我らもこのようにからまり百年を享受しよう



단심가 (丹心歌)        정몽주(鄭夢周チョン・モンジュ)


이 몸이 죽고 죽어 일백 번 고쳐 죽어
백골이 진토되어 넋이라도 있고 없고
임 향한 일편단심이야 가실 줄이 있으랴.  *랴 反語的疑問 であろうか と言おうか

この身が死んで死に 百度も死に繰り返して
白骨が土に返り魂もあってもなくても
あなたに向かう一途な心はなくなることがあろうか

 

「何如歌」と「丹心歌」 : 隣の国の言葉にこがれて

 

 

「先生がこの道を備えてくるには、先生の愛する妻までもサタンの魁首に抱かせてあげ、祝福してあげることのできる心がなければならないというのです。何のことか分かりますか。神様がそのような立場に立ったのです。悪魔は愛の姦夫です。怨讐ですが、終わりの日になってメシヤになることのできる資格者ならば、自分の新婦までも犠牲にしてサタンに与え、神様を解放しようとすることのできる立場に立たなければ、神様を解放できないのです。

(罪と蕩減復帰 P107)

 

 

ある時先生は弟子たちを集めて次のような話を語られた。

 

働き者であったぶどう園の主人は、主人でありながら僕の仕事を率先して働かれていた。見かねた僕はこう語りかけた。

「ご主人様、わたしたちが致しますからお休みなさって下さい」

 主人は答えた。「これは私の仕事だから」。

ぶどう園にばかり出て家庭には戻らない父親を持つ息子は、ぽっかり開いた心の空虚を父のいないところで、酒を飲み、薬を打ち、女と戯れて自分を偽っていたが、誰よりも父を愛していた。そしてその心を天と父だけが知っていた。

主人は僕たちが幸せになるよう結婚の縁結びを忘れなかった。

息子が大きくなった時に主人は僕の中の僕の娘を長男の嫁に選んで結婚式を行った。

僕たちは、もしかしたらご主人様の放蕩息子が跡継ぎになるのではと怖れた。

自分たちが追い出されるかもしれないと思ったからである。

主人の息子は、これで父のもとで父の仕事をし父とともに生きることができると思っていたが、何処にも自分のいる場所はなかった。

そこで、一瞬の希望を抱いた息子は荒れに荒れて再び荒んだ生活に明け暮れた。

ある時、彼と結婚生活をしていた娘に散々の様子を聞かされた両親はたまりかねて、

主人の息子と自分たちの娘が住むモリヤの丘に娘を取り戻しに行って、主人に毒づいてぶどう園を去っていった。

翌日僕たちがぶどう園に行ってみると、すでにそこにはご主人様がいて、とっくに働いていた。見かねた僕が、「御主人様、今日だけはお休みになって下さいませ。」と言うと主人は言った。

「これは私の仕事だから」。

 

主人の娘も僕の中の僕から婿が選ばれて結婚をしていた。

いつも自分たち子どもたちとはいない父の代わりに夫がなってくれることを願った。

しかし、何かが違う、何かが足りなかった。

しだいに心のなかにぽっかり空虚が占領していた。

娘は生きた心地のない生活をしていたが、ある時ギターを弾く男に会った。

彼は娘の話をよく聞いてあげ慰めるためにギターを弾いては歌った。

しだいに娘の心は和みいつしか一緒に歌うようになっていた。

男にはすでに妻がいたが、二人は別の道を歩み始めていた。

男は家庭を捨て娘と暮らし、二人は結ばれた。

ぶどう園のすべての僕たちは主人に詰め寄りこう言った。

「ご主人様、あなたは常に正しいことを説かれ正しい行いを示されました。しかし、あなたの娘はぶどう園の結婚を破壊しようとしています。」

さて、娘に夫を奪われた妻は、何を見ても見えず、何を聞いても聞こえず、何を言っても答えることができなくなっていた。

彼女がふらふらとモリヤの丘の頂きに登っていくと、どこからともなく自分を呼ぶ声が聞こえた。主人の声だった。

「何故わたしを苦しめるのか」

妻はかって御主人が僕たちのために奥様を失ったことを目で見るように思い出した。

そこで妻はぶどう園に戻り、主人に詰め寄っている僕たちの前に立ちこう言った。

「ご主人様、わたしが間違っていました。わたしはご主人様のお嬢様と私のかっての夫の結婚を心の底からお祝いいたします。皆さんもどうかそのようになさって下さい。」

多くの僕は妻が悲しみのあまり気が狂ったのだと思った。

だが、主人は目を閉じて静かに厳かに言うのだった。

「おまえはわたしを解放した。」

「だが、お前は何故そうするのだ?」

「これが私の仕事だからです。」

やがてこの妻も主人によって再婚し、主人はいつまでもこの二つの家庭を訪れた。

 

これらの話を聞いた弟子たちは先生が自分たちのことを話していることを悟った。

 

 だが、弟子の中には意を汲みかねた者もいた。そこで彼は先生に尋ねた。

「先生、わたしには仰る意味が分かりませんでした。もう少し易しく説明してくださいませんか?」

そこで先生は話を続けられるのであった。

「主人は神様であり、ぶどう園は天一国であり、主人による結婚が祝福家庭である。またモリヤの丘はアブラハムがイサクを献祭したモリヤ山のことである。僕の中の僕とは側近のことで養子の心情で主人に仕える者のことである。

その夫婦が手塩に育てた娘はアブラハムにとってのイサクのように、彼らにとっても自分の命よりも大切な宝物であった。しかし、嫁に出したということは、主人と主人の息子そしてその家庭に娘を捧げた立場にあった。

それにもかかわらず、自分の手を離れ捧げたはずの娘を燔祭の祭壇から取り戻してしまった。

イサクとはアブラハムやサラがあれ程望みながらも、神が授けるという言葉を信ぜず、唖にされて生まれてきた子ではないか。

彼ら夫婦の子である前に神の子であった。

一度財産を献金した者が、祭壇の前にある献金箱を斧で壊して、神の現前で取り戻す者がいようか?」

「先生、ますます分かりません。この夫婦が気の毒でなりません。」

そこで先生は続けられた。

「さて、この夫婦の幸せはどこからきたものだったのか?主人が二人の仲立ちをして結ばれたことから始まったのではなかったのか?主人が祝福して結びつけてくれなかったら、この夫婦の幸せも、宝のような娘は授かることができなかった。主人から頂いた福を主人に恩返したのが娘ではなかったのか?僕の中の僕、つまり養子の心情でせっかく仕えていたのに、娘を取り戻したことで彼らは主人との養子としての情関係を失って、僕どころか僕の僕、あるいはそれ以下になってしまったのである。だからわたしはあなた方に言う。高いものは低くなり低いものは高くなるのだと。また、自分を高くする者は低くなり、自分を低くする者はかえって高くなるのである。」

先生はまたこう言われた。

「では、主人の娘に夫を奪われた話をしよう。確かに僕たちが糾弾したことには理があった。しかし、ここでも先に犠牲になって来た事実は主人のほうが先であった。心を痛めた妻はアブラハムのように3日の間苦しんだのかもしれない。

だが、わたしはあなた方に言う。3日ではなく1日もうろたえてはならない。アブラハムやヨブののように落胆し不安になる姿を天の父の前に見せてはならない。あなた方にできるなら一瞬であってもそうであってはならない。むしろそのような窮地にあるときにこそ、わたしを見ておられる神様が心配なさらないように励まして差し上げるべきである。

妻はあたかもダマスコでパウロがイエス様の声を聞いたときのように、主人の切ない声を幻に聞くことになった。そこではじめて自分の前に私に先駆けて同じ事情に胸を痛めてこられた主人の痛みを今知ることになった。

この女は見るものも見えず何を聞いても聞こえず返事さえできないほど心を閉ざして死んでいたが、主人との関係を取り戻した時に生きた女に復活したのである。

その結果、僕の中の僕すなわち養子の心情を相続して生まれていた女ではあったが、この女は主人の心のなかに生きる実子となった。実子の心情を復帰したのだ。

もはやこの女は僕ではなく、主人の娘になった。

あなたがたはこれを信じるか?

 

天一国とは、あらゆる過程の学校の集まりのようである。

すべての住人は万王の王から王冠を頂いて被ってはいる。

しかし、彼らはそれぞれ学んでいる学校が違うようなものである。

ある者は小学校に、またある者は中学校に、またある者は高校にいて学んでいる学生のようである。おなじ地域に住みながら小学生には中学生の話が噛み合わない。しかし、反対に中学生にはすでに通過した小学生の話は見えている。

高いところの学校にいる者には低いところの学校にいる者が分かる。

だが、反対に低い学校にいるものには高い学校の生徒の話は理解することができない。

あなた方には何の話かわかるだろうか?

これと同じように、天一国には、

天の父と僕の因縁を築き、僕の情で御父に接する者の集団がある。

天の父と養子の因縁を築き、養子の情で御父に接する者の集団がある。

また、天の父と実子の因縁を築き、実子の心情で御父に接する者もある。

天の御父の愛は1デナリの愛、分割できない愛である。

僕に対するときも、養子に対するときも、実子に対するときも、

同じ1デナリの愛である。

そうであるにもかかわらず、人が父に捧げる愛はどうして違ってくることだろうか?

また違うべきであろうか?

神はすべての人に両手を広げて歓迎しておられる。

だが、人は自ら天の父との関係を僕や養子や実子というように決めて、

生きていること知らない。

あなた方はそうであってはならない。

そうでなければ、主人とあるいは天の父と何の関わりがあるか!」

先生の話が終わると悟りの悪い弟子は、それまで渇望したことのない

渇きを覚えるのだった。

「先生、やっと私にも何かがわかり始めました。では、このわたしはどうしたら天の御父と実子の因縁を持つことができ、永遠の生命を得る事ができるというのでしょうか?」

すると先生はこう答えられた。

「よくよくあなた方に言っておく、おのが十字架を背負って来なさいということはあなた方のすでに知るところである。だが、わたしはあなた方に言う。あなた方の十字架を降ろして、御父の十字架を背負って私とともに来なさい。そうすれば、あなた方にも実子の心情がやがてわかる日が来るであろう。」

 

 

「孝進からしっかりしなさい。先生が愛することができる息子にならなければいけません。父は愛しているのです。息子、娘に会いたいだろう? 同じなのです。妍娥、夫の再創造!酒場に行けばついて行きなさい。麻薬をやればついて行きなさい。後ろからぞろぞろ付いて行きなさい。」
(御言選集299巻「絶対信じることは絶対愛を見つけるためのもの」1999年2月1日 韓国・本部教会)

 

1999年2月5日 文孝進様・崔妍娥様御成婚

 

兄弟姉妹たちは、あまりにも「心情の境地」というものに対する関心と理解が足りない。そしていかにして私という人間が相続して体恤することができるのかという探求も。

 

「真に神を中心とした女性として立つためには、神への忠誠のゆえに、夫と子供、全家族が一度ならず二度三度と、三回’以上彼女を殺そうとする試練を通過しなければならないというのです。」その女性は夫と子供の憎悪の対象となる心情的十字架を耐え忍び、ナイフで体を切られたりして迫害されながらも、その最高の迫害に勝利しない限り、絶対的神中心の男性の花嫁の立場に立つことはできないのです」

(1977年5月1日)

 

 

外堀である天使長あるいは食口は、真のご家庭にいかなるサタンの侵入も許さない守護の使命を全うすべく神によって立てられている。まず母を守らなければならない。母が守られなければ、夫との関係に動揺が生じ、母の乱れた感情が子女を直撃する。そうなれば、父の愛情を真っ直ぐに受けるべき子女の心には、父の愛ではなく空虚だけが残る。その空虚を埋めなければ生きた心地のしない子女は、手当たり次第に埋め合わせるべき代替を求め彷徨うことになる。

だが、何処に行こうともそこには父の愛はない。

もし、母が子女の感情を収拾できなかったなら、次の世代の母が初めの母の勝利を継承して、エバの完全勝利の基準を達成しなければならなくなる。

サタンは最も長子に執着した。長子だけは取り戻そうとして自分の領域に引きずり込もうと無我夢中で工作して長子を手に入れる。

だが、神はサタンが安心するのをご覧になり、むしろサタンの攻勢を逆さにとって工作された。

蕩減とは神の祝福に満ちた愛だからである。

先ずエバは不倫によってアダムを裏切った。

真のエバになる女は、愛すべきアダムによって完全に身も心も砕け散るほど捨てられなければならない。生きる屍、息つくこともやすらぎもとっくに消え失せて死線を彷徨いながらも、アダムを求めなければならない。彼が行くところなら何処でもついていかなければならない。蕩減復帰しなければならない。

次にエバは不倫によって真の愛を失った。

真のエバになる女は、夫の生活に現れるすべての非原理的行為に主管されてはならず、

あらゆる現象を主管してありあまる真の愛を取り戻さなければならない。

最後に烈女になった女は、アダムとエバが失った神祝福することができる真の夫婦として天地に並び立たなければならない。

蘭淑様は両親と食口の守りのないところで単身勝利を続けてくださった。そうして力尽きてしまわれた。

彼女が歩んだ道を「神の摂理」だと知る者はいなかった。

蘭淑様もついに「神の摂理」を悟ることができなかった。

ただ、神とお父様だけがそれを知っていた。

お父様、孝進様、蘭淑様。本当に本当に本当に申し訳ございません。

役立たずでした。全くの役立たずでした。

 

 

「皆さんは先生のことを良く知りたい、先生の近くにいたいと思わないですか。そうであれば皆さんはとてもまれな、普通でない生き方をしなければなりません。先生に従って狭い生き方をしなければなりません。」
(1982年9月5日)

 

「君たちはもっと知りたいかい?

これ以上の事を知る必要はないんだよ。あなたが自分の責任を果たし得ないのならば,あなた達は私についてくるしかないだろう。」

                文鮮明 

 

 

 

  


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