天国の「活性化サイクル」は、教師と生徒の関係の中でも、見ることができるとアウグスティヌスは考えていたようです。
パトスを共にする人の情愛は大きいもので、相手がわれわれの話を聞いてわれわれを愛するようになり、われわれもわれわれに学ぶ相手を愛するようになる時、互いに相手のうちに住むようになります。こうして、彼らは自分の聞くものを、いわばわれわれのうちにあって語り、われわれは自分の教えるものを、ある方法で彼らのうちにあって学ぶのです。
アウグスティヌスにおける<教え>の諸相
ー『教師論』から『教えの手ほどき』へー
神門 しのぶ
(原文のラテン語表記は割愛させていただいた)
講義をしたことがあると、時々自分が語ろうと思っていたことにはないようなことが、突然浮かんできてはっとすることがあります。
自分が誰かを教えているはずなのに、教えている最中に自分が教えられているような体験を持つということです。
時には、その優しい衝撃に出会って言葉に詰まってしまいそうになるのを、おっと立て直さなければと、急いで対処するようなこともあったように思います。
サンデルの授業がだいぶ前に話題にされましたが、教師と学生の間でそれぞれの考えのキャッチボールをして、学生は教師の言葉に促されて何かを気づき、教師も学生の言葉から何か学ぶという双方向の授受作用の風景が番組では随所に見られました。
哲学の時間でもあり、自分で深く考えるということを皆さん学んでおられました。
今も昔も良い教育は似ているのでしょう。
ただ、我々の講義は多くの兄弟の祈りに支えられ、永遠の命を目覚めさせる試みでもあります。そこには教師と生徒という主体と対象の関係の他に中心である神様の存在があります。
いったいどうしたら、神様の存在とその心のこもった言葉を、教師は伝えることができるのでしょうか?
神自らがその場を主管し導かれる講義とはいったいどうすれば、より深くより高く体験され得ることでしょうか?
学生時代に始めて伝道した人に講義をすることになったのですが、なんと言いますか、単なるキリスト教の情報と言うか、教養のようにしか、相手に伝わらなくて、そこにはひとかけらの神様の存在を示すことができませんでした。
本当に苦しいことでした。
自分こそひとかけらも示したくないのに、ただ友達同士での日常の会話のような感覚、寒気のするような体験でした。
ひとりの永遠の命にたいして、何も与えることができない絶望のようなものを感じました。
確かにそこに、あるいはここに、神様がおられることは知っていながら、その御前であなたにかわって伝えることができませんという苦い苦い思いに打ちのめされました。
たしかに私も、ほとんどいつもの私の話が気に入りません。私はもっとよいものを熱望しています。つまりそれは、鳴り響く言葉でかのものを説明し始める前に、内的にしばしば享受するところのものです。私に知られたものよりもそれ[=言葉による説明]が劣っているとわかった時、私の舌が私の心に相応するものになりえなかったことを、私は悲しみます。(中略) しかし、[かの知は]ある種の痕跡を、驚くべき仕方で記憶に刻みつけるので、音節が短く持続する間、その痕跡は持続します。そこで、その同じ痕跡から、我々は鳴り響く声を作り出すのです。
アウグスティヌス 「手ほどき」 神門 しのぶ訳
アウグスティヌス思想にみる教育の構造 より
(原文のラテン語表記を割愛しました)
どうか、自分を覚えず、ただあなたのみを覚えて下さいますような、教育の場でそのような「活性化サイクル」とはいかにして生まれいずるものなのでしょうか?
わたしが言いたいのは、神の臨在の共有体験のことです。
アウグスティヌスは「内なる人」キリストがわれらの内に住んでくださり、永遠の知恵を語りがしてくださることを望んだという。
:16)どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、
:17)また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
:18)すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
:19)また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
:20)どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
:21)教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。
エペソ人への手紙3章
人間には事物のような普遍的事実の他に、個別的普遍性というものがあって、これが信仰においては重要なのではないかと私は考えています。
禅者の間では現代においても、悟りという個人的な体験でありながら、別々に悟った者同士にはその悟りが悟られているか否かがはっきりわかるといいいます。
私的体験でありながら共有体験でもあるということです。
そのような普遍的な要素があるから、単なる私的な個別的な特殊的な体験と、割り切ることができないように思われるのです。
そこで、お父様が語られる「事情を通じて心情を知る」ということが、我々にとっても信仰生活の中で普遍性を帯びてくるのではないでしょうか?
お父様の私的体験をいかにしてどれほど深く共有することができるだろうかと。
家庭連合は信徒がお父様を見失う教育しか提供することができなかったようです。
もしも知が、もっと純粋な内奥において喜ぶものだとすれば、次のように理解することも喜ぶでしょう。すなわち、愛が進んで下の方へ降りて行けば行くほど、降りたところにいる人びとの永遠の救い以外には何も欲しないという良心のせいで、その愛がいかに、より強められて内奥へ戻ってくるかということを
アウグスティヌス 同論文より
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