原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

何故 亨進様は執拗に「女性神」を否定するのか

真のお父様に、今日の統一教会に最も必要なことをお教え下さいと願った時に、与えられた御言葉が以下の御言葉である。

 

神様は、二性性相の男性的主体だというのです。それでは、その神様は、誰に似ているのでしょうか。私たちに似ていて、私に似ていて、皆さんに似ているというのです。同じなのです。それゆえに、「主体格」という言葉は、必ず相対格位を介在させて成立するのです。そのような概念が含まれています。相対格というものを必要とするために、「主体格」という言葉が出てくるというのです。

 

神様は何を願うのでしょうか。創造をされて、創造理想を完成して何をしようというのですか。神様御自身も愛をなそうというのです。神様御自身が願うことは何でしょうか。神様は、「原理」でいえば二性性相の中和的存在です。主体的存在です。このように、ぱっと一言で定立します。男性格を備えた主体的存在だというのです。

 

 

何が統一的起源をもたらすのでしょうか。一人でいらっしゃる神様を、統一的位置で何が喜ばせてさしあげるのでしょうか。「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。その男性格位というものが、どのようにして男性格位になるのかを知らなければなりません。男性格位ならば主体でありプラスですが、相対なくしてはプラスはありません。その概念の中で、なぜプラス格位にいらっしゃるのですか。愛ゆえにいらっしゃるのです。絶対的神様も絶対的に服従してみたいというのです。愛には絶対的に従順になりたい、絶対的に一つになりたいというそのような基台がなくなる時には、統一も融合も和合というものもありません。それは、根源がないために分散してしまいます

 

神様がアダムとエバを造って二性性相を分立して中和的存在になろうとするなら、何を中心として中和的存在でなければなりませんか。愛を中心として中和的存在でなければなりません。それとともに、格位においては男性的主体格でなければなりません。

 

 以上はすべて、

聖教 宇宙の根本 第一章 宇宙の根本秩序 1)神の二性性相の大展開

①神は二性性相の中和的主体

からの引用である。

 

 亨進様は現在の統一教会(女性連合)が女性神を創り上げていると非難されてきた

例えば、サンクチュアリ教会では、「神様」「天のお父様」を従来どおり使っているが、現在の統一教会では「天の父母様」である。

この言葉は神の二性性相を表したものだと考えれば、全く問題ないはずである。

一体何が問題だというのであろうか?

どんな言葉であっても、それを使う者がどのような意図を持って使うかによって、残念ながら、相反する結果に導かれていくものである。

人の動機までは他人がどうすることもできないからである。

高校時代の親友は私を諭してくれたものだ。

「言葉が大切なのではない。言葉を言わせたものが大切なのだ。」

では、亨進様は一体何を言おうとされたのであろうか?

お父様から私に与えられた御言葉から解き明かしていきたいと考える。

 

上記の御言葉から神様の説明に関する部分を列挙していくことにする。

 

「神様は、二性性相の男性的主体だというのです。」

 

「神様は、「原理」でいえば二性性相の中和的存在です。主体的存在です。このように、ぱっと一言で定立します。男性格を備えた主体的存在だというのです。」

 

「「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。」

 

中和的存在でなければなりません。それとともに、格位においては男性的主体格でなければなりません。

 

以上の御言葉を確認すれば、「天の父母様」とはいえ、天の父と天の母が中和された方であっても、その父と母は同格ではないとご説明しているのである。

 

中和されているにもかかわらず挌位の差があるというのである。

考えてみれば当たり前の話しである。

無形の神のかたちに似せて有形の神として人が造られたのであるから。

人の夫婦が一体としていても、夫が「主体格」である。

「男性的主体」「男性格を備えた主体的存在」「格位においては男性的主体格」

というように表現されたことは実際には何を意味するのであろうか?

以前にも何度かブログでお話ししたように、私は6,000双の祝福のマッチング会場でお父様が女性たちに対して

女性は何的や?」

と投げかけられ、女性信徒が声をそろえて

心情的です。」 

と言われたことに対して

それは原理ではないというんだね。女性は何的や?女性は形状的だというんだね。」

と和やかにお話しされた。

 

「男性的主体」「男性格を備えた主体的存在」「格位においては男性的主体格」

である神であるから、「種」を持つ。

一つは血統の種。もう一つは御言葉の種。

神が上記のような方であるから、神の血統が始まったのである

 同格ではなかったから血統が始まったのである。

その血統は種にある。

血統という種の実が我々であり、

御言葉という種の実(体)が我々である。

御言葉は究極的には男性によってしか理解できないものである。

御言葉の核心である心情も究極的には男性によってしか理解できないものである。

男性は性相的に造られ、女性は形状的に造られたからである。

女性は直接的には御言葉も心情を理解することができない。

ただ主体である男性と一体化する時に理解することができるのである。

 

そこで亨進様は「天聖教編集」や「天一国国家」や「聖婚問答」や「家庭盟誓」をお父様存命中のままにしなければならないとされるのである。

聖和されたお父様も黙ってじっとしているわけではないと推測されるので、聖婚問答もほぼ同様の内容に留まったり、祝祷はお母様がせずお父様の録音を用いることに落ち着いたのではなかろうか。

 

お父様は神によって絶対服従の教育を受けられ勝利された。

勝利されたお父様に今度はお母様が絶対服従しなければならない。

お父様のお母様に対する教育とは端的に言えば、御言葉による教育ではなく、絶対服従・絶対従順の教育である。

お母様が誰にも教育されたことがないと言うのは、御言葉による教育のことであろう。

だが、お父様の教育は主に蕩減を与える愛による教育、すなわち絶対従順・絶対服従のことである。

亨進様がある時夜遅く御父母様の部屋に行かれた時に見たという、水差しか花瓶だったと思うが、あっちに置け、こっちに置けとと果てしなくお父様が言われるままに、お母様が実行されていたご様子を語られたことがあるが、まさに自己否定の絶対従順教育であった。

 

厳密に言うと、如何なる女性であっても御言葉を語ることができないのである。

形状的存在だからである。

また、後継者を決めることもできないのである。

後継者を女性が生むことができても、決めてはならないのである。

これが原理観である。

 

亨進様が、2015年5月24日「天の秩序」と題して説教をされている。

そこから、いくらか引用させて頂く。

 

堕落によって血統が失われました。
神様は摂理歴史を通してその血統を取り戻そうとされました。お父様は2007年5月11日こう言われました。
「お母様は2013年6月16日までに自身を完成させなければならない。
それから自分の本来の位置に戻らないといけない。
お父様とお母様が神様に侍る時、僕の立場で堕落なき世界の僕の位置を教えることができるような生活を送らなければならない。」

 

 亨進様が「天の秩序」で語られたことは、「宇宙の根本秩序」でお父様が語られた、中和的主体でありながら挌位は男性格であることに根拠があると言えよう。

基本的に同値である。

また、神に対する僕の生活とは、絶対服従・絶対従順のことだからである。

そこで女王として立って、或いは女性神として立って、独自の御言葉を語ってはならない、勝手に編集してはならないというわけである。

 

中和的存在(一体)でなければならないと共に、格位においては女性的主体格に陥ってしまっているというわけである。

そこで中和的側面を見れば、一体のように見え御旨を推進しているようには見えるが、挌位においては女性的主体格なので天が見過ごすことができないと言うわけである。

 

亨進様は厳しいお言葉をお母様に投げかけてこられた。

しかし、その厳しさは始めは押さえ気味で、徐々に厳しさを増してこられた。

お母様をこよなく愛されておられるからである。

早く気づいてほしいと思われたからである。

しかし、天のために、自分が敬愛してきたお母様の情況を指摘せざるを得なかったのである。孝行息子だからである。

少し前に韓国の広報担当者から、亨進様の言動に対する反論が為されている。

恥ずかしいことに日本人であるようだ。

子女様が成長されるように、神も真の父母も成長される。

それ故、三度も御聖婚が行われるのである。

 

お母様は亨進様が語られてきたように、既に勝利されて多くの優秀な御子女様をお生みになられている。

ラケルが優秀なヨセフをたった一人得たのとは大違いである。

ヨセフとは違い亨進様は天が公認し喜び得る結婚をされた。

 

ただ挌位さえ収まれば、全く問題はない。

偉大なお母様に何一つ変わることがない。

お母様が被っておられる試練に打ち勝てるお方は、天宙にまた人類歴史に母様以外にありはしない。我々がしっかりお支えできなかったので、空しい試練が増上してしまったのである。誠に気の毒で申し訳ないことである。

我々は亨進様のような母に対する愛を持って見守らなければならないだろう。

 

白く塗りたる墓の如き忠誠で仕えて何になろうか?

親不孝者と罵られ、不忠ものと嘲られながらも、堂々と聖和されたお父様と、地上のお母様を愛されて行かれる亨進様。

 

イエス様は我々に何と言って戒められたであろうか!

 

 そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。

ルカによる福音書16章15節

 

 すべての神を愛する者たちに神の祝福あれ!

そして、若き天一国の王子 亨進様にも!

 

1 だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。

2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。

3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

イザヤ書53章1~5節