原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 二性性相 見えるものから見えないものへ

「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた被造物において知られていて、明らかに認められているからである。従って彼らには弁解の余地がない」(ロマ1/20)

 

見ることのできない創造主であられる神の神性は見ることのできる被造世界を観察することによって、知ることができる、と統一原理は主張する。

すると人間を含む自然界をつぶさに観察していくと、物質については3つのレベルすなわち、素粒子→原子→分子 と分類され、下位のものは上位のものの構成要素となっている。生物に関してはやはり3つのレベルすなわち、植物→動物→人間と分類され、分子に還元される物質を植物もしくは動物が吸収し栄養としている。さらには摂取する植物から吸収し栄養とする動物があり、動植物を摂取して吸収し栄養とする人間が存在している。

この自然界の各レベル、あるいは階層においてなされている吸収消化という営みは、外的に、あるいは現象的に見るのではなく、内的に、あるいは本質的に見れば、本当は融集昇価とでも言うべきものなのである。

神の創造理想の実現に向かって、融けて集まりより高い価値の存在の中に同参する。これが神が創られた被造世界の実相なのである。

ここからは弱肉強食などという敗北に満ちた思想は微塵も生まれてくる余地はないのである。

ひとたび神眼の視点に立てば、全存在が栄光に満ち、勝利に満ちた被造世界なのである。共産主義も事物などの間に相互関連性言う真理を見出したと言っているが、この世界は無味乾燥とした無機的関連性にあるのではなく、創造理想に同参することによって、神の栄光や恩恵や真愛を、共に享受することのできる、勝利的な有機関連性とも言うべき諸相を顕現しているのである。

何度も語ってきたように、神の世界、創造本然の世界においては、全ては円和統一しているのである。ところが残念ながら、この堕落世界にどっぷり浸かっていると毫もわからなくなるというのだから、残念としか言いようがないのである。

仏教では無意味な殺生を嫌うが、その本意は、実は上記の内容に深く関わっている。言い換えるならば、土塊のような低次の存在であったとしても、自らを否定して、自らを超えた存在に昇価しているのである。況や万物の霊長たる人間は如何に行くべきか、当然、動物以下、物質以下の生活を求めていくことはできないのである。

被造世界に見る階層構造の特徴は、私見では、奉献性と昇価性をもっているように思われるのである。

ところが、頂点に立つ神は、驚くことに、自ら素性を隠して、ひたすら身を低め、世界の一番低次の原初の存在、あるいはその存在を存在させるものとして、奉仕しているのである。

そこで、文鮮明 恵父は 父母の心情僕の体 というのである。

我々の組織論はこのあたりが参考になるのかも知れない。

さて、表題の、見えるものから見えないものへ、というのは、平たく言ってどんなことを指すのだろうか?

例えば、学校の校門に立ち、そこを往来する学生の様子や会話をずっと聞いていてみたり、生徒が先生にどのように接していたり、話していたりするか?様々に観察する中で、この学校の状態を予想するというようなことである。情報はどこにもあり、情報の意味は観察に現れる。

例えば、喫茶店に入っていったとき、コーヒーを飲みながら、このあたりの土地は家賃が坪いくらぐらいで、だいたい3人の従業員でまわしていて、人件費がいくらで、ピーク時がプラスいくらで、原価がいくら、平均客単価がこのくらい、売り上げがこのくらい、はて、何故かソファーが痛んだままで使っているものがある・・・・と観察して、赤字なのか?黒字なのか?とんとんなのか?という風に観察して推測するようなことも、そういうことであろう。

実はそういう風に見積もるのが得意な社長さんがいた。はじめはその人であるからできることなのであろうと思っていたら、そうではなく、初めは自分もできなかったが、全ては意識だと言う。意識的に観察する訓練をしていたら、いつからかはわからないが、わかるものはある程度わかるようになったという。

ではこれを霊的なことにも応用できるだろうか?

いわゆる霊的な現象である。世の中には霊能者と呼ばれる人たちがいる。霊的であれ現象であるなら、それに対して霊的な本質とは何かを見切らなければならない。そもそも我々が死後に永住する霊界の現象は我々が体得した心情の反映が現れたものであって、堕落性の虜になっている人間においては、歪められた心情の反映であり、現象化であろうかと思われる。

ふと先偽後真の原則を思い出したので、伝え聞いた道元の話をすると、瞑想していて菩薩が現れたら、心の中で槍をイメージして、その菩薩を突けと語られたそうである。

霊現象に出会ったからといって、有頂天になるようではまだまだのようである。道元禅師の教示心して受け止めねばなるまい。

見えるものは現象で、見えないものにこそ本質がある。

当たり前といえば当たり前の話である。