原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 究極原因思考

いよいよ創造原理ですが、残念ながらこのブログは原理講論に書かれている内容の解説を目的とするものではないので、念のためお断りしておきたい。そういう趣旨の情報はネットを検索すれば、いくつも探せることと思う。

 

創造原理の初めには、人間は人生と宇宙に関する根本問題を解決すべく苦悶してきたが、誰一人納得のいく解答を示すことができなかった。それは人間や宇宙が如何に創造されたかという究極の原理を知らなかったからに他ならず、さらには人間や宇宙のような結果的な存在を生じさせた、原因的な存在である創造主が如何なる方かを知らない限り解き得ないと言っている。

 

今そこにある問題や、良き将来をもたらす為の課題について、分析したり検討したりして、我々は解決を試みるものであるが、意識的にせよ無意識にせよ、物事を見る立ち位置や視点を決めて、ある範囲の情況の局面をえぐり取って、判断し結論を出すものだが、究極の第一原因まで遡らなければ、真の解決には至らないと考えている。

 

最も身近な存在である、私という存在は結果的存在である。俺は生まれるぞ!あたしは生まれるわ!と決断して生まれてきたものは一人もいない。当然の事ながら自分が結果として生まれてくるからにはその原因があり、それは両親ということになる。

両親にもその両親があり、これを延々と遡っていけば、間違いなく人類始祖と呼ばれる、最初の男女に行き着くであろう。聖書ではアダムとイブがこれに当たる。

ここでは神の創造目的の必然性をもって進化させられてきたか、あるいは、神など存在せず、したがって偶然に進化して来たかは、横に置いておく。

人間のご先祖は猿となり、順次高度な動物から低次な生命に還元され、やがてアメーバのような生命に行き着き、有機物から無機物にと物質世界に至り着く。

この物質を構成している大元の原因は何かと問われて、原子だという時代があり、その先の素粒子だという時代があり、とにかく最終的な原因が原物質とでもいうべき粒子であれ、エネルギーのように無形のものであれ、究極の原因に行き着かざるを得ない。

宇宙の創生の初めにビッグバンがあったとされている。ところで宇宙の本源、本体が仮に一種の力だとすれば、力こそ最も本質的かつ普遍的な宇宙の姿であるとし、その後に発展してきた現在の宇宙、特にこの地球上に住む人間世界においても、この力の様相を無視できないどころか、積極的に肯定していくことを肯定する道が見いだされ得る。

宇宙の本質が力だと捉えるならば、それを精神に応用して盲目的意志であるとか、権力意志であるとか考える者が現れ、やがてヒットラーのような徹底してその解釈を実践する者が現れる可能性が存在することは否定できない。

統一原理では宇宙の本質・本体である神を心情の神と説明している。

文鮮明 恵師は心情だけは言葉では表すことができないとおっしゃられている。

しかしながら統一思想において、必要上、最低限の説明が為されている。

心情とは対象を愛することを通して喜びを得ようとする情的な衝動である。

心情とは先ず対象を絶対に必要とし、対象を至福に至らすべく、全き愛の完全投入を為し、その幸福な姿を見て自らも至福に至ろうとする、押さえがたい衝動であり、平たくいえば惻隠の情がこれを連想させる趣がある。

知行合一という言葉があるが、それに準えて表現すれば、心行合一とか思行合一とか情行合一とかに表現されよう。何かして差し上げたいという思いが沸いてきたら、自分の境遇がどんな悲惨なものであっても、自分にどんなに必要なものであっても差し上げずにはいられない、見逃してくれよと通り過ぎてい行くことのできない、自他無分別・自他一如の世界が、神や文鮮明 恵師が歩まれ、数限りなくお示しされた真実一如の生き様なのである。

北韓興南刑務所から逃れて南に行かれる際、共産党の軍隊が今にも背後に迫り、何時殺されるとも知れない時にも、平壌にいる最後の最後の信徒まで探し出して、責任を負われようとされるのも、如何なる困難辛苦の中にあっても全責任を負って行かれるのも、たった一人の人間を愛し救うことができずしてどうして人類を救うことができようか?ましてや、神様を解放して差し上げることなどできないという、不退転の決心覚悟を常時お持ちでいらっしゃれる御方である。

一人を愛するのも、人類を愛するのも、全く区別がないのである。

神もまた心情の神と自らを規定されて、ある時、天地創造が始まるのである。ここで気をつけねばならぬ事は、対象の価値である。絶対価値の神の対象は絶対である。

文鮮明 恵父は全知全能の神であっても手に入れることができないものがあると語ったことがある。それは、愛と理想と生命である。愛と理想と生命は相手と共に分かち合う性格のものであって、一人で享受することができない。

そこで神様におかれても、最高の相手を必要とし、自らのそっくりそのままの似姿として、人間を創らざるを得なかったのである。人間の堕落がなかったならば、そっくりそのままの人間は、神と親子の実子関係になっていたのである。

そこでイエス様は「天の父が完全であられるように、あなた方も完全なものとなりなさい。」といわれたのである。

また、「汝の若き日に汝の創り主を覚えよ。」とは、このことである。

我々が日常生活の問題でこれが原因であり、これが本質と思っていることも、原子や分子の如く実はあるレベルでは原因であり本質と見えるものの、実はその先にもっと本質的原因があることがある。一見本質に見えることが実は現象であったという事である。

企業経営において事業を取り巻く内外の情勢を判断し戦略を立案する際も、一体何が本質的問題なのか問う訳だが、本質か?それとも現象か?それが問題なのである。

そこで各自によって描かれた戦略が違っていくのである。

これは信仰の世界でも当てはまることなのである。自分が求道して得た確信に満足してしまったところで、止まってしまうのである。そこが信仰の本質と思って安心した所が、まだまだ現象世界だったというわけである。

仏教の高僧はそれぞれの経典の教えに通じている師を求めて研鑽し、当代一の誉れ高い僧から一切の教えを受けても、そこに安住するのではなく、死を覚悟しての航海を経て中国の名僧や知られざる経典などの収集に勤しみ、新たなる本質世界への昇華へと向かうものである。

昔、賀川豊彦というクリスチャンがいた。

伝記を読んだわけではないので、どのような業績がある方かの詳細は知らない。東洋にクリスチャン賀川ありのイメージだけである。

彼が書いた本で「宇宙の目的」という本があって大学時代に手にしたことがあった。

その本はまるでの星薬科大学の学生が読むような教科書のような本だった。生化学とでもいうのだろうか、化学式のオンパレードではなはだ難しかった。ぱらぱらとめっくって読むのは止めた。

しかし、言いたいことはよくわかった気がした。賀川は宇宙には合目的性があり、無目的に偶然に現れたのではない、目的は人格を持つ存在が立てるものだが、そのようにあらゆる所に検証される目的を立てた人格を、私は創造主と呼びたい、そう言いたかったに違いない。賀川は唯物論の荒らしがやがてキリスト教の最大の敵となることを見越して、彼なりの理論を構築しようと考えたのかも知れない。

如何にしてというHOWの問題に答えた先に、如何なる理由でというWHYに関する問題に答える時、神という存在に行き着かざるを得ず、その完全無欠であるはずの神は何故天地や人間を創らざるを得なかったかという神の本質である心情問題に辿り着かざるを得ないのである。

以前に語ったように、DVDに記録されている映画が、再生装置によって再生すると、DVDの中に時間空間が一体になっていたものが、時間に沿って空間が現れてくる。

これと同じように、神が創造を始めると、時間と空間という存在様式(存在形式)に存在物は表現されていったのである。したがって神以前の原因はないのである。神は宇宙にも霊界にもおられないのである。われわれは時空間に存在しているので、時空を超えた存在である神を考えるとき、あたかも時空間に存在する存在物を考えるときのように、構造的に考えてみるより方法がないのである。

宇宙というある閉じた系の中に存在するたくさんの法則やそれによる秩序は、系の内側の世界から規定することができないという。必ず系の外側から初期条件や境界条件を与える必要があるという。

我々の世界の外側にあって我々の世界を規定しているプログラマーが神という存在なのだとも言えるのかも知れない