原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

総序 原因の何故(HOW)と理由の何故(WHY)

統一原理の考え方では仏教の経典であれキリスト教の教典であれ、それは真理そのものではなく、真理を教示する教科書であり、さらには人間の心霊と知能の発達程度が時代背景に依存していることから、真理を教示する範囲とか、それを表現する程度や方法は変わらざるを得ないと考える。

ここでは取り上げないが、このことは普遍性と特殊性(個別性)の両面を考察する、統一原理的なアプローチにも関係している。端から天のGIFTを預かり知れない凡人の我々信徒が神才をもって生まれた、恵父の頭脳に一歩でも近づくための、一つの方法は、統一原理に点在する思考形式のパターンを常時意識しながら物事を考えていくことが大事であるかと思われる。自動車の運転の初期には操作を頭でいちいち考えながらしていたはずだが、いつの間にか無意識でできるようになっていた如く、原理講論あるいは統一理論の生活応用上鍵となると思われる観点を5つ、10、40と増やしていけば、自分自身の思考の癖を補える気がするのである。

しかしながら、最重要優先思考は、次の創造原理、特に時間的には正分合作用、空間的には四位基台を展開する授受法に核心があると見て間違いない、これをどう使っていくか、それが問題である。

話を戻して、聖書に関して言えば、旧約時代には旧約聖書に書かれている信仰観(信仰の枠組み)があり、時代変遷をして新約時代が訪れれば、新約聖書の信仰観(信仰の枠組み)に変化があった。トマス・クーンのいうパラダイムシフトが宗教の世界に起こったということであろう。そこで、「新しい葡萄酒は新しい革袋にいれるべきである。」

とイエス様はおっしゃられたわけである。

2000年後の現代、高度に科学が発展してきた事実を鑑み、人間存在の心と体、精神と物質、宗教と科学を統一した一つの課題として解決する真理を希求することが、歴史の必然の要請と感じるのである。

トマス・クーンは、教科書通りの枠組みを基準として観察する事は、一般の科学はおろか最先端の科学も例外ではないとし、この呪縛を逃れられないと考えている。言い換えるならば、科学者は既に定説となっているパラダイム(理論的枠組み)によって事象を観察・実験し証明するのが本筋の仕事であり、パラダイム自体の正否を検証する立場にいないということである。

一見別世界の信仰と科学的態度をパラダイムの転換という観点で比較すると、意外に似ている側面があるのは面白いことである。

そこで我々が注意しなければならないのが進化論である。神聖にして犯すべからざる真理として、ひれ伏し崇拝されてきた思想哲学と科学が混在した不思議な考えである。ウィルスのような単純なものから順次人間のような複雑高度な存在まで連続して偶発的に進化してきたという生物学の一説だが、適者生存・優者劣敗・弱肉強食の社会思想を生み出してきた。

純粋な科学領域の話ではないのである。我々が既に知っている歴史法則の一つに先偽後真がある。本物の前には羊の皮を装ったオオカミのように偽物が先ず先に現れるということである。堕落した天使長ルーシェル(ルシファー)が、その悪性を相続した堕落人間(凡夫)を導き、一見宗教と科学を統一した課題として解決するが如き偽の真理として現れたのが進化論であり、のちに唯物共産主義思想に吸収されて完成の日を見るのである。

生物学者の故E・G・コンクリンは、語っている。「多くの生物学者にとってそれ(進化論)は真に宗教的傾倒の対象である。なぜならば、彼らはそれを最高の統一原理とみなしているためである。進化論の推論に、生物学以外の分野で使われている厳密な方法論的批判がなぜ加えられてこなかったかの理由は、おそらくこのことであろう。」

進化論が統一原理とは、はなはだ迷惑な話である。

さて本題だが、統一思想を纏められた李想憲先生のお話では、原因には2種類あるという。一つは通常の意味の原因の何故でHOWの何故であり、もう一つは理由の何故でWHYの何故だという。科学はHOWの何故を対象領域としていて、一方WHYの何故を対象領域にしてきたのが宗教・哲学であるという。人間と宇宙を構成する究極の物質・原物質が明らかになろうと、また別の第一原因が解明されようと、それらは全て如何にしてという問の答えにはなったとしても、どうしてそういう仕組みでしかなく、別の仕組みではなかったのかという問いの答えにはならない。原因の理由までも知りたいのが人間の本性(ほんせい)である。

これを野球に例えてみるとどうなるだろう。野茂投手がトルネード投法でフォークボールを打者に対して投げた。すると打者の手前までボールが来るとストンと落ちた。これについて科学者が現象を解明する。こういう縫い目のあるボールをこういう握りで直球を投げる要領で投げると回転がほとんど無いボールとなり、ドロップするなどもっと詳しい説明があることだろう。それは如何にしての説明になっても、どういう理由での説明にはならない。当たり前の話である。

そこで人生や宇宙の根本問題についても、原因の探求をしてきた科学が扱う領域よりも、理由や意義・価値をもっと広い領域で扱ってきた宗教に、同等、いやそれ以上に我々は関心を持たなければならないのである。