スモール・グループの集まりでは、自由に本音で話せる雰囲気が醸成されることが大事だと多くの人は思う。
そのためには、ある方は3つのルールが重要だと考えておられる。
「言いっ放し」OK
本音で自由に話していい場をつくることで、ある意見に対して批判的な言動をとらないということのようだ。
「聞きっ放し」OK
言行一致を問わず、意見に見合った責任ある行動を求めないので、本音とその裏にある感情が汲み取れるようにする。
「他言無用」厳守
他言無用 内密の話題について「他の人に言い漏らしてはならない」と述べる言い回し。「 このことは秘密であり他人に漏らしてはならない」「部外者に教えてはいけません」「他の誰にも言わないで下さい」などのような意味で用いられる表現。
このようないわば三原則を用いることで、先ず本音を自由に話し合える文化をつくることはたしかに良いのかもしれない。
ところが、おわかりのようにこのままだと情の垂れ流しのようなもので、井戸端会議にしかなりかねません。
授受作用して交流を深め力を得るには良いですが・・・
目的指向ではありません。
目的不在ですから、授受作用をしても目的にかなった成果に結びつくことはありません。
ですから、ある段階が来たら、参加者が頭を切り替えなければいけないでしょう。
それができるか否かがリーダーの手腕にかかっていると言えましょう。
勿論個々の参加者に頭の切り替えの責任がありますが、リーダーはそのことの必要性を理解してもらうよう働きかけなければなりません。
先ずは自由の雰囲気をつくり、次には責任心情の文化をつくることが望まれます。
さらに、実績意識の文化をつくることも望まれます。
それは客観的事実に基づいた判断なのか、客観的事実に基づいた意見なのか?
「その事実とは具体的に例えばこれこれであり、またこれこれです。だからそのことを根拠にもとづけば、このように判断できるかと思います。」
というような形式になります。
先ず事実誤認でないか確認することは重要でしょう。
残念ながら我々は先入観や偏見に陥りやすい存在です。
客観的事実とはこの場合これこれであると特定して、それが問題ならそれを解決するにはどうすればいいかに進むでしょう。
問題が事実に基づいて特定されないと解決に向かって前進できません。
それが一番問題だとわたしは考えます。
何が正しいかという議論は大切なことではありますが、
言霊の国日本では「意見と人格の分離」ができません。
自分が言った言葉、自分の意見を何らかの理由で否定されると、意見そのものが否定されたというよりも、私という人格を否定されたと受け取ることが多いようです。
言霊、自分の霊を傷つけられたというダメージを感じてしまうのが日本人の議論ベタとしてよく指摘されることだと思います。
それが活発な意見の交換に支障をきたす一因のようです。
私はときどきこのブログで、「何が正しいか」という視点や姿勢でものごとにアプローチするよりも、「どうしたら前に進み機能するのか」という視点と姿勢で話し合うことの必要性を指摘しました。
「何が正しいか」という議論は、言霊の国の日本人には苦手なので、人格問題に捉えられにくい「どうすれば前に進むのか」「どうすれば機能するのか」に焦点を合わせたほうが良いかと思っています。
またそのほうが生産性が高まる議論になります。
ですから、「こうすれば前進すると思います」「こうすれば機能すると思います」というような議論の進め方が有効だと思います。
原理講論では、
1,原理を離れた自由はない
2,責任のない自由はない
3,実績のない自由はない
この三つを四位基台で考えると、
① どんな目的を遂げるために出される意見なのか(目的指向) 中心の問題
② おるべき位置を離れた意見ではないこと(格位の問題) 格位と授受作用の問題
③ 一体化か分裂化か(自動的四位基台)、実績をもたらすか(発展的四位基台)合成
体と新生体の問題
現在の摂理の目的に適い、責任と権限に見合った意見であり責任を持てない意見ではないことを自覚し、一体化を促進し実績を促進し得る意見であるかを吟味することが必要でしょう。
原理講論は、本来われわれの生活の諸問題に落とし込めなければ意味がありません。
統一原理はわれわれの共通言語だからです。
家庭連合の教会成長研究院では、教義の正統な理解に重心を置いてきていたのでしょう。
だが、信徒が必要としてきたものは、信徒の生活にどのように応用し落とし込めるかを知ることでした。
この点、彼らは責任を果たせませんでした。
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