原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

お父様の組織論2  教会体制と指揮系統 ①

以下に掲載されるみ言は、

「牧会者の道」 三 私たちの体制と系統 からのすべて引用です。

 

家庭連合中心に働いていたサタンは、無原罪独生女信仰を家庭連合の多くの信徒が受け入れたと判断して、もう安心とばかりに今度はその矛先をサンクチュアリに向けてきています。

お父様のみ言葉によって、お父様の聖霊に満たされて、サタンを撃退して追い出しましょう。

第一弟子のペテロはイエス様から天国のカギを預かりました。

そのような者ですら、「サタンよ、退け!」と言われわした。

まして我々おやです。

サタンと会話してはなりません。

先日の牧師の動画はそのことを語っています。

ではお父様のみ言葉を堪能してください。

1 教会本部と私たち
 低い峰の立場にいる人が高い峰の事情を知るには、高い峰を絶対的に信じなければなりません。ここで批判しては現在の場所から抜け出せないのです。発展できないのです。それ以上越えていこうとするなら、無限なる闘争をしなければなりません。もう一度言うなら、環境が整えられていて、道がすべて整えられていて、その整えられた道を行けばいいのにもかかわらずその道を行かず、自分一人で承知して行くといえば、無限な闘争をしなければならず、それでもそれはほとんど不可能です。(二七―一〇三)
 本部というもの、中央というものについて見るときに、型で見れば本当の中心は点に近いのです。中心は一つしかないのです。(一九六九・二・二)


 皆さんが本部なら本部で何かを指示したというときには、守らなければなりません。これは霊界と関係しているのです。皆さんはよく知らないでしょうが、必ず霊界と関係しているのです。本部で指示することを、霊界に行っている皆さんの先祖たちは知っています。後孫たちが、すべての先祖たちの恨みを解いてあげなければならない主体的な立場に立ったというと、皆さんには二つの世界の使命を請け負っていく責任があるというのです。(四三―五二)


 本部が指示したことに従うと、不便なこともあり得ます。ここは順応する心よりも反発心をもつこともあり得ます。反発心が生じ、それに従っていくと消耗戦が起こります。順応する心が強くなる時は発展が起こるのですが、闘争の要件が起こる時は消耗戦が起こるのです。(四九―九二)


 統一教会員の中には、先生の言葉なら目を閉じて履行するが、教会長の言葉だと「私は知らない」という鬼神のような人がいます。教会長を誰が立てましたか? 先生が立てたので、従うのが原則ではありませんか? それが原則です。(四九―二一六)


 千人以上を率いる人は、霊界の感情を受けて立てられた人です。(一八―二二二)


 ここに金教会長も来ましたが、今一番大きな責任を負っているのです。(六六―二一四)


 教会長を中心にして、互いに団結し、互いに連結しなければなりません。団結するには譲歩して一つになって、ぜひ残された民族的なこの路程において……。韓国は皆さんが責任を負って、どうか出発された先生のことを考えて、何があっても安心し、韓国においての良い知らせをたくさん聞かせてくれるようお願いします。分かりますか? 良い知らせが大きければ大きいほど、そこに比例する苦痛と試練と涙がなくてはならないという、そのことだけは忘れないでください。分かりますか? (はい)。(一五五―一三六)


 皆さんがいくら難しくとも、その系統を通じて組織を生かせなければなりません。個人の意見を生かす考えをしてはいけません。組織的な活動をする組織社会は、そうならなければならないのです。「(教会生活は、)私が長くいるので、私の思いどおりにしなければなりません」、こういうことは駄目なのです。(八九―二九八)


 私たちの体制は信仰運動を核心的にできることを強化させるのと同時に、ここに相対的な外的基盤も連結させなければならないのです。(一九六九・五・一二)


 地獄から物質をすべて収めてきて、天を通して物質の愛が輪廻できる軌道をつくらなければならないのです。物質を世界から収めて、サタン世界から収めたものが、天国を通じてサタン世界に帰れるように、帰れる回路をつくっておかなければならないのです。皆さんがお金をもうけて本部へ送れば、本部は天の象徴ですが、その次にそこでは、このお金で何をするのですか? サタン世界のためにもっと使うというのです。もっと大きな世界のために使うのです。そうすればそれが大きくなっていくのです。一番初めに皆さんがお金をもうけて皆さんの教会のために使ったとすると、その次に教会で本部を助け、本部は国を助け、国は世界を助け、世界は天を助け、こうして上っていくのです。全部上っていくのです。(一一一―一七九)

 

1,低い立場の者には高い立場の者が見ているものが見えない。

2,本部の指示は守るべし、霊界と関係していることを知るべし。

  二つの世界の使命を背負っているのが我々の立場である。

3,本部の指示が不便でも順応すれば発展し、反発心をもって闘争心を持てば、無益な

  消耗戦が始まる。

4,先生が立てた責任者に従うのが原則である。

5,いくら難しくとも個人の意見を生かすのではなく、その系統を通じて生かさなければならない。

6,より上位の組織のために献金は捧げられるべきである。

 

 

2 教区長(地区長)の道
 全国に散らばっている地区長たちがここに集まりました。地区長は道に責任を負った、道の長です。彼らは祭司長として、父の内的悲しみを身代わりして、父と共に心配し、父を慰労してあげられる息子の使命と、忠臣の使命をすべき者ですので、各自そういう責任が残っていることを切実に感じられるようにしてください。(三〇―二七二)
 私たちの協会長を中心にして、新しく任命された教区長たちは何の心配もしないで一つになり、これから新しい世界を建設しなければなりません。新しい世界的思潮の前に符合できる準備が深刻だということを知って、団結し、これをどうするかということが当面課題であることを知り、皆さんがよく動いてくれるようお願いしないではいられません。
 根である本部と一つになりなさい。本部と一つになれないなら、地区長だと自称してはいけません。使命と責任がここで決定されます。(二四―九五)


 きのう、先生が地区長たちに何を布告しましたか? 統一教会の地域長や地区長の中で、このみ旨の道が困難で行けないという人がいれば、家に帰るなり、自由に行動することを命じました。行けないと不平を言い、行けないと嘆息して、他の人まで行けないようにブレーキをかける人は、むしろいないほうがよいと見るのが、み旨の道を行くことです。(四四―七二)


 皆さんが地区長という名前で壇上に上るとき、足がふらふらしませんか? そういうことを感じなかったですか? 自分がこの食口たちの生命に責任を負うのだと、考えてごらんなさい。先生は重大な話をしようと壇上に上るとき、そのように考えて上りました。足が床についたかつかなかったか分からないほど深刻だったのです。ですから天が共にいてくださるのです。自分自身をもって壇上に上るのではありません。(四三―三五〇)
 地区長たちが、春の気分のごとき心情的な心をどうやってもつか、ということが問題です。地が春を迎えられる準備ができたので春を迎えられるように、地区長たちはそういう土台に心情と伝統を立てなければならないのです。(一八―三三九)


 皆さんは道の責任者ですが、今まで道のために精誠をささげてみましたか? 必ず精誠をささげなければなりません。伝道は精誠に比例するもので、知識や実力に比例するものではありません。皆さんは六〇年代にこういう体験をしてみなかったですか? 大学を出て、かなり知っているという人より、精誠をささげつつ伝道をした人のほうがもっと優れていませんでしたか? 神様がどれくらい同情してくださるかが問題なのです。
 今、地区長たちが一片丹心でなすべきこととは何ですか? 御飯を食べることですか? 違います。この罪悪世界から一人の生命をどうやって天の息子、娘として復活させ、天国へ移してあげるかという、責任的使命感をもたなければならないのです。日久月深(注:月日の長いことの意味で、ひたすら望むという意味)、そういう使命感をもって出ていってみてください。できないことがありますか。(四二―一六四)
 食口たちが、「我々の地区長は神様、あるいは先生のために狂った」と言える伝統を立てなければなりません。
 先生が外的な仕事に関心をもつなら、皆さんは内的な先生に対して関心をもたなければなりません。(二四―一八二)


 今、地区長たちは何もなくてやっと暮らしていることとか、先生がみすぼらしく暮らしていることを見て落胆するなというのです。神様が共にいらっしゃるというのです。私が流す涙は民族の涙を身代わりしたものであり、私の孤独は民族を身代わりしたものです。私が孤独を感じたので「父よ、私の代わりにこの民族を許してくださいませ」と民族に身代わりして涙を流し、祈祷することができるのです。これが祭司長の責任です。私がそういう場所にいるという時は、その民の未来に起こる悲運を感じ、それを私が代わって背負い、民族のための贖罪の祭りをささげなければなりません。そうすることによって、民族が悲運の場所を避けられるのです。皆さんは民族を代表してそういう位置に立たなければならないのです。これが公職にある人の責任です。(三三―一八一)
 私が一番気になることはこれです。教区長と全体が一つにならなければなりません。不吉なことがあってはいけないのです。家の中がすべて平安であるには、全部和合しなければならないのです。昔の格言にある言葉のように、「家和万事成」なのです。(一二七―五〇)
 各道のすべての食口たちは教区長を中心にして団結し、この目的を成すために総進軍しなければなりません。いくら難しい命令をしても、順応することができなければなりません。命令の前に不平を言ってはなりません。完全に一つにならなければなりません。教区長を中心にして、教区長の心と一つになって、心と体が闘う悪魔の世界が残っているので、これを清算し、心と体が一つになれる基盤を完全に、確固として立てなければなりません。そうして、先生が命令したその命令によって自分の道をきり開くことにおいて、すべての力と努力を注ぎ、不平を言わない忠孝の心を傾けなければならないということを決意しなければなりません。(一四四―二七九)

 

1,地区長(地域長)は祭司長の立場である。

2,本部と一体化できないなら役職を名乗ることができない。

3,地域長や地区長の中にもう行けないと思う人がいれば、その人はいない方が良い。

4,責任者は神様やお父様のために狂ったという基準が求められている。お父様が外的な仕事に関心をもつなら、食口はお父様の内面に関心をもつべし。

5,民族の代表である私であり、民族に代わって涙を流す祈祷をせよ。

6,心と体が闘う悪魔の世界を精算するために、中心者を求めて団結せよ。

 

3 教域長(地域長)の道
 皆さんが一つの郡に責任を負うなら、それこそ川岸へ行って寝転びたいし、あの池に体をひたし皮膚を水につけてみたいし、山に行っても高い木に登ってみたいし、登っていると今度は何度も滑りたい、登れなくともそうしたい心をもたなければなりません。そういう心をもった人が主体者です。それが主人です。そういう人は間違いなく主人になるのです。そういう人はその郡で絶対に滅びません。いくら「滅べ」と言っても、呪っても、いくら追い払っても滅びないのです。
 先生が今まで生き残ったのは、こういう原則を知っていたからです。監獄へ入っても、共産党、その怨讐の前に行っても、誰よりも慕わしく思い、「私がここへ来て、怨讐に何かを与えるために、条件を立てるために入ってきた。だから恨むことはない」と考え、私がそれだけ与えられなかったけれど、御飯でもあげれば「ありがとう」と言うのです。そうするので、その御飯が肉になるのです。その水が血となるのです。(八一―三〇五)
 統一教会の教区長なら教区長、教域長なら教域長というその人の力量、名望というのは一つの道、一つの郡を代表します。それを知らなければなりません。統一教会を代表するのではありません。統一教会は国のためにあるのです。私と教会と郡が、蘇生、長成、完成です。これは一体化します。「私の家」と言えば、れんがの家、その家が私の家ではなく、そのスレートの家が私の家ではありません。郡なら郡全体の家を身代わりした私の家でなければいけません。
「私の教会」と言えば、その郡民を教育させるための団体を代表した教会! そういう立場に立った私! その「私」は家庭での家主(家長)となれるし、教会で教会の主人となれると同時に、郡において最高の司令官にならなければなりません。これが神様が私たち統一教会員に任せた任務です。分かりますか? ですから責任者は忙しく働かなければならないし、その郡には行ってみない所がない、というようでなくてはなりません。(八一―二九六)
 地域長は、今日の天のみ旨の前において、直接的に指導する最前線、第一線にいる指導者であることを肝に銘じ、皆さんが失望すれば、皆さんが追われれば、皆さんがそこで後退すれば、その地方、あるいはその地域全体の生命が皆さんと同じ運命に遭遇することを知って、この道で後退してはならないという信念をもたなければなりません。
 私の能力が不足する時は、天の前に訴えるのです。「私は力がなく、不足ですから、天は弱き私を立て、歴史を創造してきた今までの摂理歴史があったことを知っております。こういう摂理を父は主張なさり、こういう摂理の後ろ盾を父は立ててこられたことを、歴史的な事実として私たちは知っており、今日こういう惨めな復帰の舞台を前にして、私が責任を負って、天の前に一つの願いを成就するために責任を負っておりますので、ここに力が不足ですから、力を下さいませ」と言って訴えれば、皆さんを中心にして天は協助してくださるのです。そういう時になったのです。
 さらには、皆さんが考えるべきことは、「私」という位置が今言ったのと同じく全体に連関性を帯びていて、この全体を左右できる中心の立場が地域長だというのです。地域長がそういう立場に立っていることはもちろんですが、その地域長を主とした区域長、区域長を主とした一人の教会責任者、あるいは私たち統一教会全体の食口たちが地域長のような立場を身代わりし、もし地域長がこういう責任を請け負っては、「その地域長の責任を私が相続しよう」という後継者を必ず選択しておかなければならないのです。
 また、私たち食口は地域長を中心にして闘い、地域長が倒れれば、「私が地域長を代表し、天の前にこれを責任もって収拾できる人にならん」と人知れず準備できる、こういう因縁を自ら備えなければなりません。そうしてこそ指導する地域長と指導を受ける教会員たちが、互いに一つの目標に向かい、一つのみ旨を身代わりした決意の基盤をそこから立てられるのです。そういうわけで、地域長は自分を主として動ける、自分の継承者となれる地域員がどのくらいになるかということが、その地域長がみ旨に対し勝利の結果をもってくるか、もってこれないかという与件を決定する中心内容になることを知って、今回帰ったなら、自分の地域内において、どんな困難があっても自分と一つになれる人を早く設定しておかなければならないというのです。
 大きな闘いをするようになれば、大きな闘いを前にして、そこに備えた計画はもちろん必要でしょうが、計画よりもその計画を実践できる人が必要なのです。ですから地域長がその地域を運営するにあたって、まず自分を主として何人かのこういう自分の代身者を立て、生死を共にし、生命を共にできる立場で決意し、一つの目標に向かって互いに誓い合い、出発したのちには、後退する恥ずかしい様を見せまいと、互いに努力しないといけません。責任を負った人は引っ張っていくのに努力し、責任を負わない人、指導を受ける人は、世話にならないために、互いに努力し、私は万天下の前に立つことを願ってやまない、そういう条件を立てていく地域につくっていかなければなりません。そういう地域ならば、日がたてばたつほど、自動的な発展をするだろうと見るのです。
 今日、私たちがそういう責任を負わなければならないのです。ですから地域長は早く区域長を通し、あるいは個人を通して今後面を中心にして、あるいは郡を中心にして、あるいは統、班を中心にして一番末端まで伸びていける力の源泉を連結させていかなければならないのです。天がいくらこれを命令しても、地区長がこれを奉り、強力に推進できる足場がなくなる時は、天はここから実践場を失う立場に立つようになるのです。そういうわけで、この実践場に立っている先発隊が誰かといえば、地域長を主とした地域長個人の前に動く同僚たちだというのです。ですから、皆さんが誤ればその地域に重大な影響をもたらすということを知って、天の前に自ら責任を負う皆さんとなってくださるよう願います。
 今の時から見て、この時は地区長が責任を負う時ではなく、地域長が最前線に立って、荒々しく飛んでくる怨讐の矢を防ぎ止め、そこに留まっている怨讐の複雑な環境を除去し、整備する責任をなす時だというのです。ですからこの地域長たちがどうやって天のみ旨のために闘っていくのかということが、今私が師として本当に心配する問題であることを皆さんが肝に銘じてくださるよう願います。
 この集会を通じ、この町を一度揺り動かしてみようというのです。この町を揺り動かす主動的な精鋭部隊が地域長であるので、この地域長がここで体験したその事情、ここで感じたその衝撃を、ここで感じた悔しさを再び生かし、ここで自分が怨讐に返せず、ここで自分が勝利の決定を立てられないことが恨みだという、こういう理念を皆さんが抱かなければならないのです。(一五三―二七一)
 今後、地域に帰れば、地域管内の数多くの人々、特にかわいそうな立場にいる人々を皆さんがアドバイスしなければならないのです。その圏内において経済的に苦痛を受けている人々までも、皆さんが指導する責任があるのです。そういうわけで、皆さんは食べられなくても希望に満ちており、あるいはぼろを着ても望みに満ちていなければなりません。こういう難しい環境において、自分の義務と責任をすべて果たすという、新しい理念を抱いて暮らす皆さんとなることによって、皆さんの地域圏内に残っている数多くのかわいそうな氏族の前に、力の象徴として現れることができる、こういう基準になるということです。
 飢えた民がいるような時、皆さんは彼らから「あの人たちは飢えながらも我々のために働き、飢えた場所でかわいそうな人のために犠牲となりながらも、新しい目標に向かって新しい開拓精神をもち、我々を求めてくれる」と言われるように自らに備えた内容を見せてあげなければなりません。彼らが難しい状況に陥る前に、そういう基盤を整えておいてこそ、難しい時に、あるいは難しい環境にぶつかるような時に、彼らを指導できるのです。そういう人々が地域長なのです。(一五三―二七〇)
 また、地域長は、自分の責任を果たすことはもちろんですが、皆さんが喜べば、その地域に存在しているすべての万物までも喜ぶし、皆さんが喜べばその地域に住んでいる人も喜ぶのです。また、皆さんが喜べば皆さんを指導する地区長、教会長、先生、さらには神様が喜ぶのです。自分が喜べる場に出るというのは、天地が喜ぶと同時に人類が喜べる一つの基盤になるのです。地区長、地域長、あるいは区域長、この三首圏内で主導的な役割をすべき立場に立った人が誰かといえば、地域長だということを皆さんは知らなければなりません。地域長がよくやることによって、今後私たちの教会は発展できるというのです。
 現在の地区長は中間の立場にいます。最前線的な活動に責任を負う人が誰かといえば、地域長です。この地域長に火がつかないといけないというのです。地域長が互いに人に負けず、互いに全体地域長の前で「私がこの時代において、地域長として責任をすべて果たすことによって、南韓各地に散らばっている地域長たちの前に、力を補給してあげ、愛の条件を彼らの前に相続させてあげられるものは何か」ということを研究し、探し出し、それを立てるために努力し、それを天の前に結実の基盤として整えるために、すべての忠誠を尽くし、今年においては今までの活動よりも確固とした、堅固な活動基盤を整えなければならないと思うのです。皆さんがそういう覚悟のもとにここに来て、帰っていくことを願います。(一五三―二六九)
 今日、私たち個体というのは、地域を中心として区域が連結されており、地区長、あるいはその上に協会長を中心として先生を主とし、天まで全体が連結されているのです。上には天があり、下には地なのです。今後自分を中心として、四方にはすべての人類が連結されているということを考えるときに、皆さん地域長なら地域長たちがどれぐらい重大な存在か、ということを切実に感じなければならないのです。
 皆さん自身が責任を果たせなくなるとき、その責任を果たせないとどうなるのでしょうか? 皆さんが責任を果たせないその事実は、この時代的な責任を果たせないことで終わるのではありません。その地方なら地方、地域圏内にいる数多くの生命、その時において恵沢を受け、準備された霊魂が、皆さんと関係を結ばせるために、天は皆さんを代表者として立てたにもかかわらず、皆さんが因縁を結べる活動と実力を備えられないことによって、因縁を結べず霊界に行った時は、霊界に行った霊魂が皆さんに対して讒訴するというのです。そういうことを考えるときに、今日私たち地域長の責任がどれほど重大かということを、もっと感じないといけないのです。(一五三―二六八)
 地域長は、地区長、協会長、先生を通じて天と地に連結されています。今後経済恐慌が韓国に吹いてくるのですが、これに対するすべての責任は食口たちにあります。ですからこの民族が苦境にぶつかる前に、私たちが彼らを導ける礎を据えないといけません。(一二―一五二)
 地域長なら地域長自身が郡一つずつに責任を負わなければなりません。これを動かすためには、四方の責任があるのです。まず経済的な問題を中心にして見る時、私一人で暮らすのが問題ではありません。全体を生かすことができ、全体の環境に備えられる経済的な余裕がなければなりません。「これは駄目だ」と自暴自棄になれば滅びます。自分が血を流さんと決意して、闘っていかないといけません。絶対に自暴自棄になってはいけません。
 誰でも、神様のために、自分の教会のために一〇〇パーセント以上の生命をもっていける基準さえなされているなら、その人は神様の前に行けるのです。そういう心をもった次には、押し進めて占領しないといけません。駄目でも押し進めなければならないのです。一人でも、部落ならその部落民全部を率いて推し進めなければならないのです。(二〇―一五七)


 各地域の食口が二百名以上にはならなければなりません。ですから努力しなければなりません。地域長としての皆さんは一人の個人ではありません。その郡の生命と財産までも責任を負わなければなりません。地域の食口たちは地域長に似ます。地域長が前進すれば全体が前進し、地域長が後退すれば全体も後退します。(一二―一五二)
 皆さんの責任は重要です。地域長なら地域長が一つの郡の責任を負わなければなりません。郡の生命は全部自分の手の中にかかっていると感じなければなりません。皆さんはそれを感じますか? また、これを感じ、神様の前に報告できる自分ですか? 神様に会える自分ですか? 神様と相談できる自分ですか? ということを知らないといけません。ですから聖日礼拝時間や公式的な集会で、食口たちとこれに対する相談をし、未来を設計しなければなりません。自分一人を中心として、天命が下ることを皆さんは期待してみたことがありますか?
 命令を上部から受ける場所で総出動させる時、何の命令が何であり、こうだという心がありますか? 命令に対してどうこういう人は滅びるのです。命令を下せば絶対的に従順屈伏して突破させようという心、きょうもあすも誓い、実戦に臨み闘わんという、そういう心をもたなければなりません。若い青年たちは闘いが必要です。戦場へ出てきたなら、変化します。弾丸がびゅんびゅん飛んでくる場所で頑張って座り、上部の命令が下ることのみを願うことができなければなりません。(二〇―一六一)
 皆さんが郡責任者なら、その郡が動く時まで自分の能力をそこに投入するのです。一日、二日投入し、三日投入し、四日投入し、それが終わるまで永遠に……。永遠にでもその使命を果たしていかなければならないのです。一日二十四時間、一時間も抜かないで二十四時間全体を投入しなければなりません。御飯を食べる時や眠る時、便所へ行って座っている時までも自分の心をいつも投入しなければなりません。任された天職をどうやって責任完遂するかということに心が自分を支配し、それに対して体と心が一つになるように三年間続ければ、自分に体質的な変化が起こって神様が導く人になる、ということを発見するのです。発見するのではなく、発見したというのです。これが原理観です。(八一―三〇〇)


 村のために、任された郡のために責任を果たせない人は道のために責任を果たせないし、道のために責任を果たせなければ、国のために責任を果たせないのです。国のために責任を果たせなければ、世界のために責任を果たせないのです。世界のために責任を果たせない人は、神様のために責任を果たせないのです。それが原理の道なのです。分かりますか? (はい)。(八一―三二九)

 

1,「私」という位置が全体に関連性のある中心者であるという自覚が必要。

2,責任者は後継者を考えて置かなければならず、教会員も密かに後継者たる者にふさ

  わしい内容の準備をしなければならない。

3,優れた計画は必要であるが、その計画を実践できる人が必要である。

4,最前線部隊が中心者の責任を背負って闘う組織が必要である。

5,各地域の食口は200名以上にならなければならない。

6,絶対信仰・絶対服従が重要である。

「命令に対してどうこういう人は滅びるのです。命令を下せば絶対的に従順屈伏して突破させようという心、きょうもあすも誓い、実戦に臨み闘わんという、そういう心をもたなければなりません。」

7,下位の範囲の責任を果たして上位の責任を果たすことができるということが原理の道である。

 

 

4 教会長(区域長)の道
 皆さんは、学識から見てもすべての面を備えています。実力もあります。世間的な実力もあるというのです。どこの誰にも負けない実力もあり、心情もあって、ですからすべての面において……。地域長たちは先生の身代わりとして地区長をいただいて、一心団結しなければなりません。また、地区長を中心にした区域長たちも一心団結し、区域長を中心にした伝道師たちも一心団結し、伝道師を中心にした食口たちも一心団結しなければなりません。彼らはみな先生を身代わりした人々です。それだけに、誤ったことがあればそれを覆してあげ、育てなければならないのです。(一五四―一〇八)
 今後、本部で管轄できる最下の基準はどこにあるのですか? 区域までです。分かりますか? 七段階基準を中心にして管轄しなければなりません。区域まで本部で管轄しないといけません。教会長を中心にして見るときは、地区と地域と区域まで、その次に協会長を中心にして先生と神様まで七段階です。上るのです。教会長を中心にして見てみると、ここは父母がいて、七段階形態を経ていかなければなりません。これは原理的な段階なので……。ですから今回、この区域まで上ってこいという歴史的な基準において、教会が管轄できる一つの主管圏を立てられる基準が区域までできているからです。ですからすべて集合させたのです。(一五七―三四)
 あなたたちが今まで統一教会の、それでも指導者としてこうなったのも、先生に従ってきたので、天の運勢が皆さんと橋を架けてくれたので、地方へ帰ればみなそのように食口たちが皆さんに従おうとするのであって、そうでなければ到底及びもつかないのです。
 ですから上下関係をいつでも調節しなければなりません。第一に上下関係を調節しなければならないのです。「私」は縦的基準、横的基準二つの世界をコントロールする立場にあるというのです。ですから上には本部の代表者であり、その次に横的には父母の代身者だというのです。分かりますか? 父母の代身者だというのです。父母の代身者は、子供たちが帰らず、子供なりに行くようになると、千里の道も構わずに走っていかなければならないのです。彼らを苦労させず、私が苦労しなければならないという、こういう模範を見せてあげ、伝統を立ててあげてこそ、その子供たちが正しい子供たちになるのです。伝統は立ててあげず、「自分の思いどおりにせよ」と言えばいいのですか? まず見せてあげなければならないのです。「伝道はこうしてするものだ」と、見せてあげなければならないのです。(七〇―一五六)
 地域長と区域長の関係のように、縦的な関係では繁殖ができません。しかし互いに一つになって、地域長なら地域長を中心にして、区域長が行動を共にする時には繁殖が起こります。これが創造の原則です。
 私たちは伝道をなぜするのですか? 繁殖するためです。繁殖は縦的な関係からは成されません。横的立場に立って一つとなり、互いに授け受けしてこそ成されるのです。ですから皆さんは教会長を中心にして、教会員たちと横的な立場で一つとならなければなりません。そうしてこそすべての面で発展するのです。地域長を中心にして、教会長たちが一つになれというのは、そうしてすべてのものを発展させようということであり、地区長を中心にして地域長たちが一つになれというのも、もっと発展させようというのです。発展、すなわち繁殖させようというのです。皆さんが忠誠を誓う時は、そこから数十倍の繁殖が起こるのです。
 時は大きくなったり、小さくなったりするということはありません。人の心が大きくなった、小さくなった、ということなので、各地方に離れて活動する個人だといっても、本部から来た通知を中心にして横的な基準に立たなければなりません。体内で感じられるすべての感覚が神経を通じて細胞まで一時に及ぼされるのと同じように、すべての食口たちも本部の通知に対して同時に同感できる場所にいなければなりません。そうしてこそ正常な生命をもつことができます。ですから皆さんが本部を慕うのは当然な道理です。
 しかし、神経系を通して伝達される縦的な基準でのみ関係を結んでいけば、一時的に感じられるかもしれませんが、継続して感じることはできません。私たちの体の骨の組織について見るとき、それは秩序正しく縦横に連結されています。
 近いうちに本部に行く皆さんが、心に抱いていくものとは何ですか? それは「記憶しよう、もう一度記憶しよう」ということです。皆さんが習慣的な感情をどのくらい超越するかにしたがって、皆さんの人格が決定されるということを確実に知らなければなりません。
 ですから本部教会に対するときに、地区に対し、地域に対し、各個人に対するときに、今まで皆さんが取った立場をもう一度革新しなければなりません。新しい立場で認識される以前には、発展はできません。新しい創造力が発生され得ないというのです。創造原理がそうなっています。(一七―二七八)

 

1,本部は7段階基準まで主管せよ。

2,上下の関係だけでは繁殖は起こらない、上下のものが共に行動する時繁殖が起こる。これは創造の原則である。

3,「私」は縦的基準、横的基準二つの世界をコントロールする立場にあり、。私たち

  の体の骨の組織が秩序正しく縦横に連結されているように、上位から下位に伝達さ

  されるみ言による関係は一時的には力が出るが、継続して力が出るのは、そこに横

  的な関係が展開されればこそである。

 

 


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