お母様は、何故権進様のように、お父様の御言葉を語り、お父様と一体化されないのか?
私を信じなさい。私は凄いのよ、という話と
お父様を証し、御言葉を体恤したいと語られる権進様と
どちらが、われわれを復活させるでしょうか?
オモニが勝手なことをしているとアボジは大声を張り上げました。
オモニもお父様が道であり真理であり命であり、絶対「性」の愛であることに気づかなければなりません。
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われたイエス様のみ言に、一つ抜けているものがあります。それは一番重要な愛です。「私は道であり、真理であり、命であり、愛である……」と言わなければならないのに、愛が抜けています。これを聖書に入れなければなりません。このようなことを言えば、クリスチャンたちは「おお、何と不敬な!」と言うでしょう。しかし神様に聞いてみると、「然り、然り」とおっしゃいます。このように見る時、神様は愛を好まれます。愛の中でも、真の愛を好まれます。
真の愛 第1章 誠の愛というものは 1)愛は幸福と平和の源泉
イエス様は「私は道であり真理であり命である」
と言いましたが、再臨主のお父様はこれに一つを加えました。
「私は道であり、真理であり、命であり、愛である」
そしてキリストの象徴が「聖酒」でした。
先日のブログではダビデのお話を取り上げました。
ダビデは裸で踊り、批判した妻ミカルは神の祝福を逃した、お母様と天使長はどうするべきであったか - 原理講論を読む
ところが、この訳は少し詳しくありません。
新共同訳のものと大切なところを比べてみることにしましょう。
:17)人々は主の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った天幕の中のその場所に置いた。そしてダビデは燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。
:18)ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。:19)そしてすべての民、イスラエルの全民衆に、男にも女にも、おのおのパンの菓子一個、肉一きれ、ほしぶどう一かたまりを分け与えた。こうして民はみなおのおのその家に帰った。
サムエル記下 6章
口語訳聖書ではそのように訳されていますが、新共同訳では
18 焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、
19 兵士全員、イスラエルの群集すべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った。
輪形のパン ⇒ キリストの体
干しぶどうの菓子 ⇒ キリストの血
なつめやしの菓子 ⇒ キリストの精子
なつめやしの木は、ユダヤ人にとっては「命の木」のイメージがあります。
その「命の木の種」detesと英語で呼ばれるなつめやしの実です。
その完成度の違いはともかくとして、必ず問題になってきます。
焼き尽くすべき我が罪の身代わりとして献げるものと
神と和解して重生し復活するための献げものとの
ふたつの条件を捧げて
神の精子をもった一人の男性が、実体の神として、我々をして一致させる儀式が訪れます。
イスラエルの母のような代表的女性デボラは戦闘を指揮した烈女でした。
だが、彼女はなんの権威のもとに全ての事柄を裁いていた事でしょうか?
士師記 4章 4節
そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。
士師記 4章 5節
彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラの なつめやしの木の下にいつもすわっていたので、 イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。
なつめやしの木 = 命の木 = キリスト = 真の父
デボラはキリストの権威の下で裁いていました。
そのような裁き司でした。
お母様は命の木であるお父様を必要とはしません。
「私を教育した人は誰もいません」
「独生子、独生女は同等です」
「独生子が独生女を教育したとは言えないのです」
お母様はお利口お馬鹿なことに、一度もお父様のみ言葉を引用されなくなりました。
お父様の歌詞が目障りなので、新しい歌に作りなおしました。
エゼキエルのみた「幻の神殿」には命の木を象徴するなつめやしの木や、ケルビムが彫刻されていました。善悪知るの木ではありませんでした。
命の木を捨てて、悪知るの木にと、変わり果てたお母様。
そこには、悪と罪の繁殖しかありません。
世界中に四大聖物というお父様と関係がない、お父様との因縁を断ち切るための条件物が信徒に受け入れることを迫ってきているのです。
神殿は命の木の彫刻が施されているべきなのに、命の木が成された業績の痕跡をかき消すかのような、お母様の指示。それでも気がつかない愚かな無責任者立ち。
エゼキエル書40章22節
その窓も玄関の間もなつめやしの木の彫刻も、東向きの門と同じ寸法であった。 七段の階段を上って行くと、その先に玄関の間があった。
エゼキエル書40章26節
そこに上るのに七段の階段があり、その先に玄関の間があった。 その両側の壁柱には、なつめやしの木が彫刻してあった。
エゼキエル書40章31節
その玄関の間は外庭に面し、その壁柱にはなつめやしの木が彫刻してあった。 その階段は八段であった。
エゼキエル書40章34節
その玄関の間は外庭に面し、両側の壁柱にはなつめやしの木が彫刻してあった。 階段は八段であった。
エゼキエル書40章37節
その玄関の間は外庭に面し、両側の壁柱にはなつめやしの木が彫刻してあった。 階段は八段であった。
エゼキエル書41章18節
ケルビムと、なつめやしの木とが彫刻してあった。 なつめやしの木はケルブとケルブとの間にあり、 おのおのケルブには二つの顔があった。
エゼキエル書41章19節
人間の顔は一方のなつめやしの木に向かい、 若い獅子の顔は他方のなつめやしの木に向かい、 このように、神殿全体の回りに彫刻してあった。
ザビエルが日本に来た時に、ヤジロウたちに翻訳させたのですが、日本にはなつめやしの木がなかったので、代わりに「棕櫚の木」として翻訳されました。
そこで、そのような名前で広がったので、ヨハネによる福音書では、「しゅろの木」
として、重要な場面に出てきます。
命の木たる方をイスラエルが迎える様子が書かれています。
旧約時代も新約時代も独生女を求めてきたのではありませんでした。
信徒が求めてきたのは、独生子キリストでした。
ヨハネ12章13節
しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。 「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
「兵士全員、イスラエルの群集すべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。」
ダビデがなつめやしの実、なつめやしの種、命の木の精子をイスラエルに与え
これによって民が生きたものとなり、神の民になるのです。
それが聖酒や聖餐式に繋がっていくのです。
ですから、黙示録にはこうあるのです。
黙示録 2章 7節
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』
中東の楽園のイメージはなつめやしの木があり、そこから水の流れがある風景です。
永遠に渇くことがない命の水、砂漠の中のオアシス、そのような水を懇切に渇望するように、メシアをわれわれは求めなければなりません。彼によって諸国民は癒やされなければならないのです。
黙示録22章 2節
都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、 十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
聖酒式は「いのちの木の実を食べる権利」なのです。
黙示録22章14節
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、 門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。
自分の着物を洗って ⇒ 回心して
いのちの木の実を食べる権利を与えられ ⇒ 聖酒式を受けて
門を通って都にはいれるようになる者は ⇒ 天国へのパスポート
幸いである ⇒ 天国に永住
さて、蛇足ながら、マリアがイエス様を生むときのことが、コーランに書かれているようです。
どんなふうに書かれているのでしょうか?
http://www.way-to-allah.com/jp/quran/19.htm よりコーランを引用する。
16. またこの啓典の中で,マルヤム(の物語)を述べよ。かの女が家族から離れて東の場に引き籠った時,
17. かの女はかれらから(身をさえぎる)幕を垂れた。その時われはわが聖霊(ジブリール)を遣わした。かれは1人の立派な人間の姿でかの女の前に現われた。
18. かの女は言った。「あなた(ジブリール)に対して慈悲深き御方の御加護を祈ります。もしあなたが,主を畏れておられるならば(わたしに近寄らないで下さい)。」
19. かれは言った。「わたしは,あなたの主から遣わされた使徒に過ぎない。清純な息子をあなたに授ける(知らせの)ために。」
20. かの女は言った。「未だ且つて,誰もわたしに触れません。またわたしは不貞でもありません。どうしてわたしに息子がありましょう。」
21. かれ(天使)は言った。「そうであろう。(だが)あなたの主は仰せられる。『それはわれにとっては容易なことである。それでかれ(息子)を入びとへの印となし,またわれからの慈悲とするためである。(これは既に)アッラーの御命令があったことである。』」
22. こうして,かの女はかれ(息子)を妊娠したので,遠い所に引き籠った。
23. だが分娩の苦痛のために,ナツメヤシの幹に赴き,かの女は言った。「ああ,こんなことになる前に,わたしは亡きものになり,忘却の中に消えたかった。」
24. その時(声があって)かの女を下の方から呼んだ。「悲しんではならない。主はあなたの足もとに小川を創られた。
25. またナツメヤシの幹を,あなたの方に揺り動かせ。新鮮な熟したナツメヤシの実が落ちてこよう。
26. 食べ且つ飲んで,あなたの目を冷しなさい。そしてもし誰かを見たならば,『わたしは慈悲深き主に,斎戒の約束をしました。それで今日は,誰とも御話いたしません。』と言ってやろがいい。」
クルアーン19章マルヤム
なつめやしの木が出てきます。
さて、あなたはお父様の権威によって与えられた、なつめやしの木の実、命の木の実を
食べるという、お父様の聖酒を飲みますか?
それとも、韓鶴子オモニの権威によって与えられた、善悪知るの木の実を食べるという意味の、お母様の聖酒を飲みますか?
愚かな者達よ!
「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
そう言っているのだ。
<追記>
亨進様が説教の中で取り上げた天聖経の文章がこれでした。
「キリストによる神の王国」2016年6月12日【英語説教日本語訳】(全文) | サンクチュアリ NEWS
天聖教 709
時代を超えて、数えきれない人々が悲惨な運命を開拓しつつも、キリスト教は真のオリーブの木を探し続ける歴史を綴ってきました。真のオリーブの木とは神の子を言及しています。彼が来れば、あなた達は 彼の枝の中の一つに接ぎ木されると同時に、彼の樹液も受けなければなりません。
黙示録22章19節
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、 この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
だから、わたしはもう一度言うでしょう。
自分の着物を洗って、
いのちの木の実を食べる権利を与えられ、
門を通って都にはいれるようになる者は、
幸いである。
お父様の権威に戻るための聖酒こそが、万民の望むべき、聖酒なのです。
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