原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対基準と人格完成3

相対基準というのは、神を中心として結ばれるものである。

したがって、相対基準と言う前に、如何なる神を中心とするかが問題となる。

我々堕落人間が想像し得る姿ではなく、神が公認される基準において捉えられるべき、我々の霊人体の生心に臨在される心情に対して、自らの内に思わず手を合わせたくなるような、聖なる中心である。

そこで真の父母様は我々人類が神の心情を相続させるために、最低限の条件として、家庭盟誓や八大教材・天聖教の訓読生活を与えてくださった。

人間が成長するためのの霊的な栄養素には3つあると教えられている。生力要素と生霊要素と生素である。

このうち、神から直接もたらされる栄養素が生素であった。

生素は神の愛であるとされている。この神の愛は神の御言葉と共にあり、御言葉に導かれるようにして我々に訪れるようになっているようである。私見では御言葉の理解吸収から体得に至って神の愛の伝播は完結するようである。

神が臨在され我々の内から働かれるためには、祈祷や敬礼や断食に水業など身を打つ各種の条件や善行などもあるが、基本的には御言葉が最重要となる。

何十年も前に敬礼式は小学生になってからでよいとされた日本の先生がおられ、印刷物にもなっていたが、文鮮明 恵父と多くの生活をされてきたはずなのに、随分人間的な見解を広められたものだと思ったことがある。

全ての基準は御父母様の家庭に求めなければならない。したがって如何なる先輩のお言葉であっても、父母である以上は真実か否かの確認を怠らないようにすべきである。父母であることを放棄したいのでなければ・・・

生まれた時から敬礼は参加すべきであり、赤ん坊でも訓読は親の言葉を聞いて参加すべきである。否、どうしても参加させたいものであるはずである。

興進様が天より帰られたとき、アフリカの宣教師の家庭で幼子たちも早朝の祈祷会に参加させられ、気が付けば子供とは思えない立派な祈祷を捧げるようになったという。またその証を聞いた家庭が1歳の子供と祈祷しはじめたら、復帰摂理上の中心人物の名を挙げながら、神を慰める祈りを始めるので両親は霊的になったのかとびっくりして祈る言葉に詰まったという。自分の基準で祝福二世に相対すれば、二世自体が影響を受けあらゆる可能性を打ち砕かれてしまうのである。

今日の二世問題の根本原因は一世の親が天の基準ではなく地の基準で、また神の視点ではなく自分の視点で二世を扱ったことにあると言って間違いない。

現在の日本統一教会を築いてきた先輩方のご家庭の子女には東大に行かれた者も多い。

本人が地上天国実現のための手段として勉学に励むのは大いに結構なことである。だが、もし東大というブランド信仰に陥るのなら誠に残念なことである。「たとい全世界を得るも永遠の生命を失わばなんになろう!」文鮮明 恵父は 東大はおろか早稲田の大学に在籍したのでもない。付属高校の電気通信科である。今日で言えば高専というところであろうか。

たとえ付属の高校であったとしても、文鮮明 恵父が通われたので、その大学はやがて誉れを得るようになるのである。

誰がユダヤ教イスラム教キリスト教の抱える今日の問題を収束しうる理念を持っておられるというのか?偉大であったアブラハムの家庭から分かれ来たった家庭問題である。恩讐三者の中から、明日の理想世界を求めて、神の提示する崇高な理念を掲げた男女が、宗教や民族の境界を横断して、或いは戦争を契機にで恩讐となった日米・米独・日韓の壁を越えて、各家庭に働かれる神に導かれ恩讐感情を消滅させる道をもって、人類一家族理想の実現に邁進する意外に誰がどんな方法を提示できようか?

主客転倒も甚だしいのである。

このことは二世についても同様である。

たとえその二世が中卒であり、引き籠もりのようであっても、この子女には我々が預かり知れない賜物を神が与え賜うているのである。両親や様々な事情によって本来の個性真理体として立つ瀬がなかっただけのことである。

忌み嫌われ侮られて育ったイエス様が生きた心地がしない息もできないほどの苦しみに悶えながら家出をして12歳にして、ユダヤ教の寺院で神から啓示を受けて、自らが全人類を救う神の子であり、その小さな双肩にあらゆる責任と期待が掛かっており、既にヨセフとマリアにも知らせてあると聞いて愕然とするのである。

どうして両親はこのようなのであろう?とイエス様が抱かれた悩みが、祝福家庭の中に再び見出され、神の煩いになるようなことがあってはならないのである。

この点を悔い改めなければ、統一教会に明日はないであろう。有限の自分の子であると思うのか、それとも真の父母が神に代わって祝福した無限の価値ある子女と感じるか。分岐点である。二世こそは統一教会の財産なのであるから、自分の子も人の子もなく、ただただ神に預けられた子女がいるばかりなのである。

子供を修練会に参加させさえすれば良い父母であるとしたら、講師や班長を父母と思われても仕方があるまい。

モーゼの母親が選民教育をしたことは幾度も講義で聴いてきたはずであるが、いざ自分が家庭を持つと、偉大なモーゼであっても原罪を背負って生まれてきたのに、二世は精算されて誕生したことをお忘れになったらしい。なんと言うことであるか!

結局、神を信ぜず、罪を認めず、メシアによる贖罪も確信せず、子供が神の子であることを信じていないかのようである。一体どうして天でお父様にお会いできようか!

 ある人物がどの様な信仰を持っているかは、「私」を中心とする三大祝福に現れてくるものである。そこに神観・罪観・メシア観が如実に現れるのである。

中間位置にいるというのはこのことである。

二人の主人に仕えているのである。

サタンとの相対基準を断ち切り、神とのみ相対基準を造成する。二心に立たない。

主体である心の本体が外部の人を対象としたり、自分の頭の中で思い描いたことを対象としたときに、相対基準を結ぶと様々な思いが沸いて来ては消えていく。一瞬の間のことである。1964年アメリカでの「父母の日における御言葉」には、

地上ではその変化は個人差がありわかりにくいが、霊界においては、本心か邪心かではっきりと現象化するので、肉心生活を地上でしている間に解決しなければならない。

霊界では「思い」そのままが相互に伝わるために、そのような悪い心を持てば、すぐさま悪霊人体として現れるのである。

霊界の現象は電気現象に似ていると文鮮明 恵父はおっしゃっている。一瞬の思いが間髪入れずそのまま現象化されるということである。

しかし、我々が対象として神との相対基準をしっかりと保っていれば、今度は自分が主体として立ち、対象となる人間や環境について判断する際に、誤ったり歪みを生じたり、あげくは妄念妄想が湧かなくなる。

善の天使長だったルーシェル(ルシファー)が過分な欲望を持ち、被造世界の全一的な恩恵の享受を抱く神の立場の視点や位置を離れ、恩恵の独占を目論んだ。真の愛の視点や愛の位置は失われ暴虐が地に満ちるようになったのである。

堕落したルーシェル、すなわちサタンのあらゆる悪性品を血統的に継承してきた人類は「ヘビよまむしの子らよ、どうして地獄の刑罰を逃れられよう!」と洗礼ヨハネをして叱責され、「悪魔から出てきた者」と当時のユダヤ人にイエスは言ったのである。

神かサタンかどっちつかずの中間か、この問題は地上世界の私の心や思いの中だけで展開されるのではなく、見えざる霊的世界においてもなされている。

我々が悪なる動機を抱けばそこに同様の動機を持つ悪霊人が寄ってきて、その目的を地上人をして果たそうと妨害してくるのである。

地上人の動機と悪霊人の動機が相対基準を結んで授受作用をするようになり、そこには非原理的な力が発生して、地上人の思いのみの場合以上に悪にかられていくようになる。これが問題なのである。

自分の情の問題のようであって、自分の情の問題だけではないのである。

したがって自分を分別することによって、このような悪の攻撃から守られるというわけである。我々の信仰生活の闘いは見えざる闘いが主戦場なのである。

統一原理では善神の業と悪神の業と説かれている。善神とは善霊人や天使のことであり、悪神とは悪霊人や堕落した天使すなわち悪魔のことである。

我々は信仰生活においてある判断をする際に、例えば

「私はこれこれしかじかのことをこう思う(こう判断する)」といった思いが沸いてきた場合、それが実際に神の御心であるか否かを吟味することが常である。これは誰か他の信徒に主張する場合もあるであろう。

その際には、声を出して、主語の「私」を「神」に替えて発生するのである。その時「絶対に」などを入れると良い。

「神はこれこれしかじかのことを絶対にこう思っている。」

この時「絶対に」と発生したときの違和感を探るのである。

神と私が一心であれば、平安が見出されることであろう。

だが、少しでも何か直感的違和感があれば要注意である。

わずかでも不安があれば気をつけねばなるまい。

私は常々心うち解けた信徒にはこのように言っている。

「わたしはあなたの意見などちっとも聞きたくはない。私が聞きたいのはまさにあなたを通して語られる神の意見や判断や言葉だ。」

「あなたがこれが神の御意であると毅然と言うなら、たとえそれが多少ずれていたとしてもさほど気にはしない。何故なら復帰途上の未完成の身である我々であり、神の意志を確信したのであればやがて正しい方向に神が軌道修正してくださるであろうからである。神、人と共にありとはこのことであろうと願う。」

御霊よ来たりませという真摯な態度が貫かれていることこそ兄弟姉妹の交わりの妙味である。

長くなったのであと少しアベル・とカインと相対基準について次回考えてみたい。