原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

仏教徒が真理を求める姿勢が見事だと思っていたら、寂室元光という禅僧に出会った

仏教徒が真理を求める姿勢が見事だと思っていたら、二人の禅僧の名前をたまたま知ることになった。

一人は寂室元光という禅僧である。

どんな詩を書いているか紹介している方がいた。

そこから引用してみよう。

 

不求名利不憂貧 名利を求めず、貧を憂へず
隠処山深遠俗塵 隠処は山深く、俗塵に遠し
歳晩天寒誰是友 歳晩天寒く、誰か是れ友なる
梅花帯月一枝新花月を帯び、一枝新たなり

風撹飛泉送冷声 風は飛泉を撹(みだ)し、冷声を送る
前峰月上竹窓明 前峰に月上(のぼ)り、竹窓明かなり
老来殊覚山中好 老い来たりて殊に覚ゆ、山中の好(よ)きを
死在巌根骨也清 死、巌根に在りて、骨也(また)清し

借此間房恰一年 この間房を借りて恰も一年
嶺雲渓月伴枯禅 嶺雲渓月、枯禅に伴ふ
明朝欲下巌前路 明朝巌前の路を下らんと欲す
又向何山石上眠 又何れの山に向ひて、石上に眠らん

 

亦不知其所終 » 寂室元光

 より上記の詩を引用

 

 どのような方かを書いているサイトがあった。

 

 さて、その永源寺の開山、寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師は鎌倉時代後期、美作(みまさか/岡山)生まれで、出家後に当時の高僧・約翁徳倹(やくおうとくけん)禅師に師事し、その法を受け嗣ぐ。そして、31歳の時に中国・元に渡り、純粋禅を標榜している中峰明本(ちゅうほうみんぽん)禅師につき参禅弁道、さらに禅道を究める。しかし、寂室は37歳の帰国の船中で、この師である中峰より授かった印可の証である親筆の偈頌(げじゅ/偈の書かれた墨蹟)や、中国の高僧より賜った送別の漢詩までも他人にくれてしまう。これは、どういうことであろうか。

 禅語に「没蹤跡(もっしょうせき)」という言葉がある。これは、何事も無心に行ない、心に跡をとどめず、執着しないことを意味する。例えば、自分は素晴らしい資格を取ったという思いがあると、その思いが痕跡となり、心にこだわりが生まれ、増上慢を起こす。この慢心を寂室は徹底的に嫌った。そういう思いが、師から授かった印可状にすら、執着しなかったのである。その後の人生でも、名利を離れ一所不住の生活を続けた。
 そして71歳の時、近江の守護・佐々木氏頼(うじより)の要請で永源寺の開山となる。そして、この山深い風光明媚の地で晩年を迎えるが、その徳風を慕って多いときには2000人もの修行僧が集ったという。しかし、この永源寺開山の任は、佐々木氏の懇願を辞退しきれず、やむなく従ったもので、寂室の本望ではなかった。京都華厳院の黙翁に送った書状には、「思慮なくこの院に臨んだ」と、深く考えずに永源寺に住持したことの後悔の念を吐露している。やはり、寂室の本心は世俗を離れ、大自然を師として枯淡に生きたかったのである。

 寂室の遷化に先立って残された遺誡(ゆいかい)には、自分の遺体の後始末の仕方を具体的に指示し、次いで佐々木氏より寄進された寺領を返還すること、さらに永源寺を地元の高野郷(たかのごう)の長老に譲り、弟子は解散して山中や人里離れたところで修行するよう厳命している。

 解説文を書かれた入矢義高氏は、この寂室の遺誡を「これほど厳粛で清冽な遺誡は、日本の禅僧では他に比類を見ない」と称賛している。まったく、永源寺開山という地位や名誉、そして永源寺自体にも執着がない。

 

http://rinnou.net/cont_04/rengo/1609a.html

 より上記の文章を引用

 

 

rengo1709a.jpg

 

法話「寂室禅師のこころシリーズ〔5〕 「友人を憶う」」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

 より画像を引用

 

 又何れの山に向ひて、石上に眠らん

 

記述者たちに感謝。

 


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