原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

宗教改革の精神はルターの「キリスト者の自由」を淵源とする 

先日ご紹介した城塚登著「社会思想史講義」の中から、ルターについて書かれている。

いくらか見てみましょう。

 

 

社会思想史講義

社会思想史講義

 

 

======================================= 

 

第2章 個人の自立と自由

1,ルターの宗教改革

*信仰と個人の自立

 中世のヨーロッパに生活していた人びとは、国王や諸侯を頂点とした世俗的な階層組織の中に組み込まれていたし、同時にまたローマ教皇を頂点とする宗教的な階層組織にも組み込まれていた。俗人は教会で聖職者に導かれ仲介されたときのみ、正しい信仰によって神につながることができると考えられていたのである。したがって、個人が内面的に自立することもなく、自由の自覚も希薄であった。

 ルター(Martin Luther , 1483-1546)によって始められた宗教改革は、個人が内面的信仰を通じて直接に神につながる道をひらいたのであり、個人の自立と自由の自覚をもたらすものであった。ルターの教えとそれを受けついだカルヴァンの教えにもとづいて、ローマ・カトリック教会から離反した諸教会は、プロテスタント教会と呼ばれ、その宗教的原理はプロテスタンティズムと呼ばれる。

 

 *信仰義認

 ルターはエルフルト大学の文学部に入り、さらに法学部に進んだが、1502年22歳のとき、親友の死と落雷にあって経験した自分の死への恐怖から、一つの「回心」を体験し、突然修道院に入った。そして「キリスト者として完全であるためにはいかになすべきか」という問題をひたすら追求し、聖書に沈潜した。1512年、ルターは、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」というパウロ(Paulos, ?-62/65)の言葉に福音の真理を見いだした。

 つまりルターは、神の義を神の「賜物」としての義と解し、したがって人間は神から与えられる義をただ信仰を通じて受け取ればよいとした。神は、人間から救いの条件として義を要求するのではなく、現実に義(ただ)しくない人間にもキリストの義を「賜物」として与え、罪人を義人として認めるのである。後に「信仰によってのみ義とされる」という信仰義認論として定式化されるこの福音主義は、神の言葉(福音)を通じての信仰者と神との内面的・直接的な交わりを確信するものであったから、外面的な教会への功績にたいして聖職者の介入によって与えられる恩寵・贖宥といったものの意義を否定するものであった。宗教改革の発端となった「免罪符」の効力に対する批判は、ルターのこの福音主義の立場からなされたものであった。

 

 *宗教改革運動の展開

 「免罪符」は、金銭でそれを買いさえすれば、自分だけではなく親兄弟まで罪を許されるとされ、教皇庁から発行されたのであるが、1517年、教皇レオ10世によって発行された「免罪符」を、テッツェル(Johann Tetzel, 1465頃 -1519)という説教者が、ルターの住んでいたヴィッテンベルクを含むマグデブルク大司教区に来て売りさばいた。ルターは『免罪符の効力に関する95カ条の宣言』を書き、「免罪符」の発行に反対したのである。『宣言』はラテン語で書かれ、専門的な立場から「免罪符」の効力についての自分の見解を、司教や進学者に向けて述べたものであり、けっして一般の民衆に呼びかけたものではなかった。にもかかわらず、『宣言』はたちまち大きな反響を呼び起こし、ドイツ語に訳され、当時普及しつつあった印刷術の助けを借りることによって、短期間に全ドイツへと流布され、反響は国民的規模、さらにはヨーロッパ的規模にまで拡大したのであった。このような異常ともいうべき反響をルターの『宣言』が呼び起こしたのは、当時の多数の民衆が、教皇を頂点とするカトリック教会の搾取、またそれと結びついていた特権商人たちの搾取に強い不満を抱いていたからである。

 ルターは、最初は純宗教上の問題として自分の立場を主張しようとしたのであるが、民衆の激しい力に後押しされ、ローマ教皇庁に対する公然たる挑戦者、特権階層に対抗する民衆の英雄的代表者とならなければならなくなった。1519年の7月、ライプツィヒ大学で行われた公開討論会で、ルターはエック(Johannes Eck,1486-1543)との論戦のあいだに、それまでの曖昧な態度をはっきり捨て、教皇の至上権、教会会議決定の絶対的正当性を明確に否認した。

 このようにローマ教皇庁と真正面から対立することは、ルターの福音主義からの必然的な帰結であったともいえるが、この帰結にまで進むことは、彼にとって絶大な勇気と決断とを必要としたのであり、この勇気と決断とを彼に与えたのは、民衆の力強い反響であった。ローマ教皇庁はルターを弾圧しようと躍起になったため、ますますルターは国民的英雄となった。1520年6月、ルターに対する破門状が60日の猶予期間をつけて届けられたが、ルターはこれを12月に焼き捨てた。そしてこの年に、彼はいわゆる三大改革論文を公表したのであった。

 

 *職業召命観と社会改善案

 その第一の論文は『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える』である。そのなかでルターは①教権は俗権に優越する、②教皇のみが聖書の誤りのない解釈者である、③教皇のみが合法的な教会会議を招集できる、という三つの説教に批判を加えている。そして彼はキリスト者はすべて一様に司祭である」と説き、聖職者でない普通の人びとも『聖書』に書かれた福音に導かれて、みずから司祭として信仰を通じ直接に神につながることができるとした。そこでは、聖職者の特権的地位が否定され、世俗の種々の職業も、すべてキリストを頭にいただく同一の身体に属し、相互に奉仕し合う関係にあるとされる。世俗の人びとは、各人に与えられた職務に励むことが、そのまま神に対する奉仕となるのである。今日のドイツ語や英語で職業のことは Beruf とか callingといわれる。これは「召命」(神のお召し)という意味であり、職業労働が神のお召しである(天職である)という職業召命観を示している。

 またこの論文では、ルターは具体的な社会改善案を提示している。①すべての諸侯、貴族、都市は領民が初収入税をローマ教皇庁に納めることを禁じ、領民が教皇庁によって搾取されないよう種々の措置を行うこと、②ローマへの巡礼は多額の浪費をともない、家郷の妻子を困窮させ、ローマの悪臭に感染するだけなので、禁止すること、③修道院や本山は、各人が欲する期間だけ入って聖書を学ぶ「キリスト教の学校」のようなものに改善すること、④聖職者も妻帯する自由をもつこと、⑤聖徒の日とか教会の祝祭などは廃止すること、⑥教育を振興し、大学における学問的研究を促進すること、⑦贅沢を勧めて巨利を得ている特権的大商人の活動を制限すること、⑧香料の輸入を禁止すること、⑨年金取引や高利貸をしている大商社を閉鎖すること、⑩暴飲暴食をつつしむこと⑪娼家を廃止すること、である。

 ルターはこのように、ローマ教皇庁、特権的大商人たち、大商社を激しく攻撃したのである。

  

 *キリスト者の自由

  第二の改革論文は『教会のバビロニア捕囚』であり、これはローマ教会の七つのサクラメント秘蹟)が非福音的・非キリスト教的であることを論証し、そのうち洗礼と聖餐だけを認めようとするものであった。

 第三の改革論文は『キリスト者の自由』である。ルターはこの論文のところに二つの相互に矛盾する命題を掲げる。

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服従しない」。

 「キリスト者はすべてのものに奉仕する下僕であって、だれにでも服従する」。

 ルターによるこの二つの命題が同時に成り立つのは、人間が一方では霊的・精神的な性質をもつものとして「内的な人間」であり、他方では身体的・肉的な性質をもつものとして「外的な人間」だからである。人間の魂、肉的生活は、身体における行為、外的生活とは断絶している。それゆえ、魂に義をもたらし自由を与えることができるのは、身体だけで行われる教会的善行などではなく、ただ聖なる福音、すなわち神のみ言葉を通じた内的な信仰だけである。この信仰を不断に鍛錬し強化することが、キリスト者の努めるべき行為であり修行である。そのように行為する者には、神もまた信頼を寄せ、その魂を義しくする。こうして、信仰によって魂は「ちょうど新郎が新婦と一体となるようにキリストと一体になる」のである。したがって人類の聖なる長男であるキリストがもっている支配権と聖職権とが、信仰をもつキリスト者に与えられることになる。こうしてキリスト者は、内的・霊的にはあらゆるものから自由になり、あらゆるものの主人となるのである。

 しかし、人間は身体を持つ「外的な人間」である限り欲望に動かされ、信仰から逸脱して悪い行いをする。したがって人間は自分自身の身体を制御しなければならず、身体は断食、徹夜、労働、その他の適度の訓練によって鍛錬され、「内的な人間」と信仰とに服従するようにされねばならない。その限りでは、人間は下僕として服従しなければならないのである。またキリスト者は、神がキリストを通じて自分を遇したように、隣人に無償で愛の奉仕をし、喜んでその下僕とならなければならない。

 このように、ルターは「内的な人間」と「外的な人間」とを峻別することによって、どのような状況にあっても、人間は内的に自由であるとし、個人の自由を基礎づけたのである。だが他方で、自由が内的な魂の事柄とされたため、社会生活における自由の実現がなおざりにされることにもなった。

 

 *農民戦争とルター

 ルターは、俗人が『聖書』を学ぶことができるようにするため、『聖書』をドイツ語に翻訳し、1522年に出版した。そして彼は宗教改革を推進しようとしたが、急進的な社会改革を行おうとするミュンツァー(Thomas Müntzer, 1489-1525)一派と対立するようになった。

 1524年、シュワルツワルト地方の農民たちは現状に対する不満から武装して蜂起し「大農民戦争」が起こった。翌年には中・南部ドイツの各地に農民たちの武装集団が結成され、要求書が続々と作成された。ルターは、暴力を振るうことを農民に対して強く戒めながらも、農民の立場に同情的態度を示し、領主に向かって暴政を戒め温情をもって事に対処するよう要請した。

 しかし、農民戦争が、ミュンツァーの率いる社会革命的宗教運動とやがて合流し、領邦権力と決定的に対立するようになると、ルターはむしろ熱狂的に農民弾圧を呼びかけるようになる。『殺人強盗を働く農民徒党に対して』というパンフレットでは、ルターは農民をはっきりと敵視し、領主に徹底的な武力弾圧を要請している。ルターのめざしたのは、進歩的な貴族による上からの社会改革出会ったのである。

 

======================================= 

 

 宗教改革は、当初は精神的・霊的事柄がメインでしたが、物質的・現世的改革に向かっていきます。

 

 

 

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服従しない」。

 「キリスト者はすべてのものに奉仕する下僕であって、だれにでも服従する」。

 

奴隷というのは誰かに強要されています。

奉仕する下僕というのは、誰かに強いられるのではなく、

自発的に奉仕し服従するので奴隷ではありません。

父母の心情、僕の体。

二律背反ではありません。

 

新しい摂理に向かうことになったイエス様は、あたかもヨルダン川を渡るかのように、弟子たちの足を水で洗う洗足の儀式をなされた。

かってイエス様が洗礼ヨハネから洗礼を受けたときのように、イエス様は弟子たちになさったのでした。

 

:1)過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
:2)夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、 
:3)イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、 
:4)夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、 
:5)それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。 
:6)こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。 
:7)イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。 
:8)ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。 
:9)シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。 
:10)イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。 
:11)イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。 
:12)こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。 
:13)あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。 
:14)しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。 
:15)わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。 
:16)よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
ヨハネによる福音書 13章

 

 家庭連合では信徒を羊飼いではなく羊にしたままでした。

新約の万人祭司の理想から後退しました。

「あなたは良いシープのままでいいのです。良いシェパードになることは忘れてください」

というわけです。

牧会者は聖なるもので、信徒は俗なるものでしょうか?

ルターはそう考えませんでした。

俗界の信徒が忌み嫌われる豚なのでしょうか?

シープドックのような牧羊豚になりたいと奮闘する「ベイブ」という映画がありました。

ベイブは他者から豚と規定されるのではなく、

自らを牧羊犬として規定しました。

彼は自己創造しました。

豚という奴隷の身から解放されることを望みました。

自由という権利を行使しました。

シープピッグに笑われないようにしたいものです。

 

www.youtube.com

 

 


にほんブログ村

 応援して下さる方は上のロゴをクリックして下さい。